第20話 危険なバランス
バルコニーの夜風は心地よいようでいて、瞬時に汗が引くほど肌寒かった。ショールを持てば良かったと思ってももう遅い。肩を抱いた姿勢でひとりの時間を過ごした。
「レディ」
そこに仮面の男が現れて、わたくしに白地に金糸の縁取りの入ったマントをかけてくれる。
「まあ、申し訳ないわ」
「そんなことはないでしょう。寒さに震えるレディを見て見ぬふりはできません。騎士道にもとる行為です」
わたくしはそっとマスクに隠されたその奥の彼の瞳を見た。……やはりその瞳はエメラルドだった。
「それにそのマントはまるであなたのためにあつらえたようなデザインですね。ドレスによく似合っている」
「あなたの深い夜のような藍色のお召し物も、あなたの誠実さを表しているように思えるわ」
「……レディ、私は決して誠実な人間ではなかったようです」
彼はバルコニーから庭園を見下ろすようなポーズを取った。ハニーブロンドの髪がやさしく室内の光を反射する。その髪にそっと、手を触れた。
彼はひどく驚いて振り返った。
そうしてわたくしの手を取り、跪いて「お慕いしております。今宵限りは、月の魔法がかかりましょうか?」と告げ、わたくしは「月に祈りましょう」と答えた。
――え? え? え?
確かにそういう素振りは見えたけど、これはレオンルートのフラグ、確実に立ってる!
まずいんじゃないの?
ヴィンセントは? ヴィンセントはこの肝心な時にどこに――?
ホールでは美しい緋色のフリルのたくさんついたドレスを着た赤毛の女が、ヴィンセントと踊っていた。
みんなはそれに見惚れ、ふたりのためにホール中央に広く場所をあけ、音楽はロマンティックな悲恋を思わせるメロディを流し続けて……。
これは、ゲーム内イベントのひとつだ。
思い出した。
あのドレスを着ているということは、ミサキは本気だということね。あれはとても高価だから。
そして彼女とのダンスを拒まなかったヴィンセントは普段、少しずつミサキに親密度を上げられているということ。
知らないうちにそういうことがあってもおかしくない。
「レディ、踊りましょう」
わたくしの肩からマントを外して、翻すようにそれを身につけた彼はマナー通りにホールでわたくしにもう一度跪いた。
わたしは許して、彼はわたくしの手の甲に口づけをした――。
大広間は注目の的だった。
皇太子殿下はこの間登場したばかりの女と踊り、パーティー主催者であると共に、殿下の婚約者であるわたくしが見知らぬ男と踊る。
それは『つき合いで』というにはあまりに親密で、わたくしのドレスのスカートは大輪の華のように舞った。同時に騎士の帽子についた羽飾りが揺れ、わたくしたちはひとつの大きな流れにはからずも乗ってしまった。
彼のたくましい胸、わたくしをしっかりホールドする腕、息づかい。
すべてがわたくしを包み込む。
やさしく、そして荒々しく。
「きゃあ!」
その場に不似合いな甲高い悲鳴が上がって音楽が途切れた。気がつくとわたくしたち二組は知らぬ間に接近していたらしい。
こんなことがあってはならないのに、わたくしは彼女のドレスの裾を踏んで転ばせてしまった――!
「ひどい! ひどいわ、こんなみんなが見ている場で恥をかかせるなんて。エルメラ様のご慈悲はわたしにはこれっぽっちもかけられないのね!」
「そんなこと。わたくしたちがぶつかったことの責任がわたくしだけにあるなんておかしいわ。あなただってわたくしに謝罪する必要があるのではないのかしら」
ホールはどよめいた。わたくしたちのダンスを見ていなかった者はほとんどいなかったから。
その時、すっと割って入るようにレオンが前に出て、わたしを制した。
「待ってください。私がよく姫君の進む方向に気をつけていれば起こらなかった事故です。どうぞ、お嬢様、お許しを」
レオンは右手を胸に当て、ミサキに礼をした。……ミサキは不思議なことに怒らなかった。それどころかレオンに恥じらいを見せた。
「良く考えればわたしの方がエルメラ様のドレスを踏んだかもしれない距離だもの。確かにエルメラ様の言う通りだわ。ごめんなさい」
「……わかってくださってうれしいわ」
音楽は再びタイミングを見計らって流れ始めた。真っ白い綿帽子のような鬘をかぶった指揮者が得意そうに楽団を束ねる。
あとは音と、そして彼のホールドに身を任せるだけだった。
最後の一音が止んだ時、時間は止まった。
刹那、ひとつのため息も聞こえず、それから割れんばかりの拍手が鳴り響いた。誰も彼も、ダンスをしたわたくしたち二組を賞賛した。
レオンはまた手の甲に軽く唇をつけると、なにも言わずにすっと離れていった。離れながら伸ばした腕が切ない。
ヴィンセントがホール中央に出てきて、わたくしとミサキの両方の手を持ち上げた。二度目の拍手の時、レオンの姿はすっかり消えてしまっていた。
ヴィンセントは「素晴らしい舞だったね」と踊り手としてのわたくしに満足したようだった。わたくしはそれに曖昧に微笑んだ。
ミサキは「殿下からお声をかけられるとは思いませんでした」と頬を赤らめ、わたくしを悲しくさせた。
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