第9話 記憶の断片
朝早く、まだ草原に朝露のつく時間、鋏を持って庭に出る。ラベンダーを摘んだ。
近寄るだけでラベンダーは芳香を放ち、気持ちを落ち着けてくれる。まるで、あのひとのように。
薄紫色の花を麻糸で束にして、レースのリボンで留める。ラベンダーは時間を置いてもしんなりしない。それどころかドライフラワーになる。あの方の部屋に満たされる香りを想像する。
やだ。
わたしってやっぱりヴィンセントが好きなのかしら?
それは動かしようがない気がする。あの花冠の約束は特別な思い出だもの……。心が暖かくなる……。
噂、噂、噂!
学校というのは噂でできてるんじゃないかしら?
昨日のクッキーの話は瞬く間に学園中の知るところになった。女子部だけじゃない、学園中だ。
『エルメラは、ミサキがヴィンセント様に近づかないように彼女の作ったクッキーをゴミ箱に思い切り彼女の目の前で捨てた。そして、彼女を大きな声で脅した』
――確かにクッキーは捨てたし、大きな声は出した。でも、それはみんなミサキのためであって。
ミサキは目が合うと丸い瞳をくるっと回して「わたし、気にしてませんから。ご指導ありがとうございました」と言った。
いたたまれなくなって教室を出て中庭の噴水のベンチに座っていた。ラベンダーの花束をヴィンセント様に渡すきっかけはなかった。
それを手の中で握りしめて……。
「まったく大変なことになっちゃったな」
どかっと許しも得ずに隣に座ったのはエドワードだ。妾腹とはいえ王子様である彼に「失礼だ」と文句を言える立場はなく。
予鈴が鳴ったのにこんなところにいる訳にはいかないんじゃないかしら?
その旨を告げると、エドワードはそっとわたしの涙を拭おうと手を出した。
さっと身を引く。
親切心からなのはわかってるけど、それでも殿方に触れられるのには抵抗がある。
「ごめん、ごめん。うちの猫くらいの気持ちになっちゃったんだ。猫だって涙を流して鳴くんだよ。『ニャーオ』って」
わたしは彼のひょうきんな話し方に思わずくすくす笑ってしまった。猫同様に扱われたのはどうかと思うけど、それでもなんだか許せるような気がしたから。
『ニャーオ』がかわいかったのかもしれない。
「笑ったな。その方がずっといい」
目が、やさしい。漆黒の瞳がわたしを吸い込むようにのぞき込んでくる。
いつもだったら『年下のくせに』と思うところだけど、どうしてか、うれしい気持ちが勝る。
「なにか、事情があったんだろう?」
考えて、こくんとうなずく。
「心配するな。兄貴は見ていて恥ずかしいくらいアンタ一筋だ。あれはちょっとやそっとじゃ変わらないよ」
「……本当に?」
「なにをそんなに心配する?」
握りしめたラベンダーが強く香る。
今頃、噂を聞いたヴィンセント様はどう思ってるんだろう?
「ミサキが、ミサキがもしみんなと同じように着飾って素敵な女の子になったらどう思う?」
「どうって? どうも思わないよ。おい、しっかりしろよ。お前より美しい女はそうそういないと思うだろう?」
「そんなのわからないわ。『絶対』なんてどこにもないもの。磨けば光るかもしれないし、ヴィンセント様の好みのタイプかもしれないじゃない」
エドワードは空を仰いでなにかを考えているようだった。
青い空には鳥の姿はなく、小鳥たちはみんな、小枝の中でおしゃべりに忙しいように見えた。
「あのさ。俺はエルメラをずっと見てきたから、エルメラのいいところをたくさん知ってる。年下なのに生意気に思うかもしれないけど、エルメラの持ってるものは全部、エルメラの努力で手に入れたものだ。だからそんなエルメラを美しいと思うんだ。……褐色に黒髪の男はお断りかもしれないけど」
最後の方は早口で、彼は立ち上がると「じゃあ」と言って走り去ってしまった。
……美しい?
いま、そう言った?
ちょっと待って。
エドワードは腹違いといってもヴィンセント様の弟君よ。そんなに都合よく物事が進むものですか!
『百人の王子と百の恋』を思い出してご覧なさいよ。……そうだ。今頃思い出したけどエドワードは攻略対象キャラだ。
年下だけどミステリアス。異国の風をヒロインに感じさせる風貌。ぶっきらぼうだけど本当は主人公を心の底から想ってくれている。
そんな彼が推しだっていう子もたくさんいる――。
ちょっと待って、混乱してきた。
攻略対象は確か六人。これは間違ってない。
ヴィンセント、エドワードの兄弟とあとは誰? どうしてこんなに大切なこと、覚えてないの?
……ヴィンセントの攻略ばかりしてたのが仇になった……。でも一応、全員、攻略したんだよなぁ、チャート作りながら。
そう。
最後は究極、自分でチャートを作って大切にしてたんだよなぁ。秘密のノート作って。
やっぱりあれ、遺品整理の時、見られたよね? ……ひょっとして、捨てられたかもしれない。
あんなに時間、かけたのにー!!
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