第2話 百人の王子と百の恋
カツカツカツカツ……。
時計の秒針のような正確さで廊下を歩いていくのは、歴史学のドロイド伯だ。片目に眼鏡を嵌めて、いかにも教師然としている。
ご機嫌よう、と姫君たちはドレスを摘んで挨拶をする。
もっとも本来なら公爵家である我がトゥールズの方が爵位は上であるのだけれど、ここは学校だ。教師が偉いのは仕方ない。
でなければ、わたくしはここにいるほとんどの者より位が上なのだから。
大きくなるに従ってわたくしの髪はプラチナを通り越してシルバーに見えるようになってきた。どんな服にも映える色だ。
温室のような館で育った真っ白い肌、サファイアのような紺碧の瞳、ゆるやかに巻いたブロンドの髪。
衣装だっていつでも手の込んだものを身につけている。実家から、威厳を損なうことのないようにと贈られてくるドレスやアクセサリー。
すべての宝石を外してベッドの上にばら蒔いたら夜空の星々に見えるかもしれない。
わたしはゴージャスな娘に育てられた。誰にも見劣りしないよう。
「エルメラ」
「ヴィンセント様、いかがなさいました? なにか急なご要件でも?」
「あの、これを」
あれは中庭の噴水の脇に生えていた草花だ。名前は知らない。庭園にあるものと薬草以外の花の名前はわからない。
か弱い茎はここに持ってくるまでに弱ったのか花の重さに負けそうにしなり、その花もそれほどの大きさがあるわけではなかった。宝石に例えるならアクアマリンかしら。薄い水色、というと途端に色気がなくなる。
わたくしはその花を王子の手袋をはめた指から直接いただく。
周りの女生徒たちがきゃあと悲鳴を上げる。
「ありがとうございます、ヴィンセント様」
「きみの瞳の色に似ていると思ったんだ。僕はいつかの約束通り、花冠をきみに贈りたいんだよ。一輪ずつですまない」
そこでわたくしはちょっと俯くとパッと顔を上げて極上の笑顔を作った。口角、下がらないで!
「まあ! あんなに幼い頃の思い出を覚えていてくださるなんて光栄ですわ! あれは確か、八歳の時……ちょうど婚約の話が出た時のことですわね。わたくしも忘れようにも忘れられません」
ほぉぉぉ、と女生徒たちからはため息と羨望の眼差しを受ける。
「お小さい時の王子様は雪の精のように美しくいらっしゃって、わたくし、隠れてしまいたくなったのですわ」
「それは僕の方だよ、エルメラ! きみのその美しい髪……」
チリン、チリンと涼やかな鈴の音が響く。予鈴だ。次の授業が始まる。
「では、次の機会までご機嫌よう」
わたくしはドレスを摘んで頭を右斜めに傾げて見せた。王子はなにやらブツブツ言いながら、走って行ってしまった。
ブツブツ言うくらいならはっきり言えばいいのに。王子と言えばいつでもあの調子だ。
やさしくて、繊細で、感性が鋭い。
しかし裏を返せば強引さに欠け、芯がない。いくら感性が豊かでもそれを伝える強さがない。
……結婚した折には良い父親になるわね、きっと。
ふう。
……は! いまのため息、誰にも聞かれてないわよね?
背筋をしゃんとする。わたくしはエルメラ=トゥールズ。皇太子殿下の婚約者。末はこの国の母となる身なんだからいつでもしっかり、油断しないようにしないと。この立場を失ったらどうなることか。
たくさんいた取り巻きが消え、悪い噂が立つに違いない。家名にも泥を塗り、パッとしない伯爵や侯爵のところにやられてしまうかもしれない。
そんなの、考えただけで悲惨すぎる。
――ドンッ!
きゃ! 誰かが曲がり角を急に曲がって……周りの学生たちの声が……。
――遠い遠いところ。
わたしはいまと違って学校から帰るなりスエットの上下に着替える。それがいちばん楽だからだ。
待ってて、ヴィンセント。
ヴィンセントと離れてる間、ずっと彼のことばかり考えてたの。世界史の時間も、古典の時間も。ダウンロードに時間がかかる。イライラする。
だって、一瞬でも早くヴィンセントに会いたいんだもの!
……その時、ぐらっと揺れて地震かな、と思ったら限定特装版『百人の王子と百の恋』の箱が本棚の上から落ちて、角から降って――。
思い出した。
サイトウミサキ、高校二年。
わたしはどうやら乙女ゲーの世界に来たらしい。
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