第三夜 「恋するふたり」
第三夜
「恋するふたり」
堀川士朗
「ほら。あの人、大皿料理を何品か頼んで、外のテラス席に持ち込んで、道行く人に店には内緒で安く売りさばくつもりなのよ」
中華屋「桂林厨房飯店」の店先。
演劇のワークショップを終えて知り合いになったショートカットのその子は僕に忠告した。
彼女は黒いワンピースを着ている。
僕より10歳くらい年下だ。
名前はまだ知らない。
「やだわね、そういうのは」
「うん。浅ましいね」
太陽は出てるんだか出てないんだかよく分からなかった。
いつの間にか夜になっていた。
どこからかミルクセーキの匂いも漂ってきた。
僕は地元の十条商店街を案内した。
ピカピカとしたネオンの照明の駄菓子屋が立ち並び、バナナや鯛焼きを売っていた。
名前も知らない彼女は上機嫌となり、
「ヒャッホ~ウ!」
と叫んで高くジャンプした。
その仕草がとてもかわいらしかった。
「この地下を降りるとデカくてとっても楽しいゲームセンターがあるんだ。行こう」
僕は言った。
長いエスカレーターを降りて行く。
彼女にゲーム用の100円玉を数枚渡した。
手を繋ごうとしたけどしなかった。
この子はどうやら女優志願みたいだ。
ショートの髪が、セミロングに伸びてオレンジピンク色になっていた。
「さあ着いた。このボロい部屋が僕がバイトで大工をやっていた時に使っていた待機部屋。次の部屋が中学の時の漫画研究会の部室。机のどれかに僕の名前が刻んであるはずだよ」
「どれなの?」
「忘れた。まあいい。行こう。次の部屋は多分おしとやかな女子がいっぱい通う街の図書館に繋がっているはずだよ」
続く部屋は広い稽古場だった。たくさんの役者がいた。
知り合いの俳優、オーイシ・ケイタさんもいて会釈した。
ケイタさんは、またこいつ稽古場に女連れ込んでるのかよ的なニュアンスの苦笑いを浮かべていた。
ポケットの中で100円玉がまだジャラジャラ言っている。
コ〇キのおばあさんがいたら恵んであげようかな。
「何の稽古をしているの?」
「知らない。興味ない。行こう」
次の部屋では若い役者がチェーホフの芝居を今まさにやろうとしていた。
全員白塗りで、すり足で“桜の園”を始めようとしていた。
稽古を観るつもりはなかったし、邪魔になってはいけないと思い、僕らふたりは早歩きのすり足でその部屋を後にした。
ガラス張りの部屋が見えた。
中にはたくさんの踊り手が日本人形の中に入って人形振りの踊りを踊っていた。
「素敵ね。でも人形の格好をしないで人間である事の方が、より人形振りに近いのにね」
そう彼女は言った。
明確な分析だなと思った。
それはいいとしてまたこの子は髪が伸びているな。
「はあ。それにしても役者っていっぱいいるんだなぁ。私どうしよ。女優になれるかなぁ?」
「大丈夫。努力する君は素敵だよ。きっとなれるさ」
「え」
人形振りの部屋を離れる。
下りエスカレーターがあった。
冷たい風がビュウビュウと吹いていた。
クーラーを付けっぱなしで眠っているからかも知れない。
「寒いの嫌だわ」
「これを着なよ」
僕は彼女に、それまで手に持っていた彼女のグレーの上着を肩から優しく掛けてあげた。
「まぁ。そういうの。大好きかも」
「そうか……嬉しいよ」
「嬉しいよ?言葉なんてタダだからいくらでも取り繕う事が出来る。でも、今はその事は考えないようにするわ」
彼女は僕に不要となった100円玉を返してくれた。
「今小説を書いているんだ」
「どんなの?」
「『夢分析』っていうタイトルの少し不思議な夢をテーマにした連作だよ」
「そう。今度読ませてね」
「今度っていつさ?」
長い長いエスカレーターは降下していく。
「百年後よ。百年後なんて一瞬だわ」
「うん」
「待てる?」
「うん」
「書ける?」
「うん」
手を繋ごうとしたけどしなかった。
何の意味もなく見つめ合った。
お互いにとても優しく。
僕らふたりはまだまだ下の階に降りて行くつもりだ。
記憶の繋がりのある部屋へと、彼女を案内してあげよう。
彼女の名前はまだ知らない。
楽しみに取っておくんだ。
第四夜に続く
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