二 熱

 好奇心旺盛に育った彼女は、ある時、人に出会った。

 彼女は、家族にも内緒で、毎日その人と会っている。家族に知られれば、しばらく家から出してもらえないだろう。それが危ないことだと言うのは、彼女もわかっている。

 それでも、彼女はその人の姿を探しに、人の暮らす海辺まで毎日様子を見に行った。

 その人は、一人で人気ひとけのない海辺に座っている。彼女が近くまできて水面みなもから顔を出すと、彼女の方に顔を向けた。

 そして、彼女の近くまで来て、そっと、恐る恐るといった手つきで彼女の髪に触れる。その人の手はとても熱い。水の中にはない熱さだった。

 磨いた貝のように輝く緑色の髪の毛を持つ彼女とは違って、その人の髪の毛は真っ黒だ。彼女の肌では鱗が煌めいているけれど、その人の肌は髪の毛と同じような真っ黒い鱗で覆われている。こんなに黒いなんて、夜の海だとすぐに見失ってしまいそうだと、彼女は思う。

 もしかしたら、そうやって自分の体を隠して、小さなものたちを襲うような生き物なのだろうか。そんなことも考えたけれど、その人は彼女を襲うようなことはしなかった。

 その人は、彼女がいくらをかけても反応しない。代わりに、不思議な音を出す。それでも、彼女はその人に会いに行った。

 そっと髪に触れるその人の手が、その熱が、嫌いじゃないと思った。




 彼女はある日、宝物を持ってその人に会いに行った。

 いつものように近付いてくるその人に、彼女はその宝物──いつの日か拾った瓶を差し出した。その瓶を拾った時と同じく、潮の満ち引きの大きい日だった。

 海水が、その人の足元まで迫って、靴先を濡らしていた。その靴だって、彼女は変わった尾ビレだと思っていた。

 彼女から、その瓶を受け取ったその人は、また不思議な音を出した。その音は、どうやら人にとってのらしいと、最近になってようやく彼女は気付いた。

 その人はずっと、彼女に何事かを話しかけてくれていたのだ。彼女がそれに気付かなかっただけで。彼女のに、その人も気付かないように。

 その人が何を伝えようとしているのかわからなくて、彼女はただその人を見ていた。

 やがて、その人はその瓶の蓋を開けた。それが、中に何かを入れるためのものなのだと、彼女ははじめて気付いた。

 その人は瓶の中から、何かを取り出した。


 それは、手紙だった。誰かが書いた、誰にも届く宛てのない、手紙。

 でも、人でない彼女には、それが何かわからない。


 その人は、しばらく黙ってそれを見ていた。まるで、岩のように固まってしまったその人を、彼女はただ見上げていた。

 やがて、その人は動き出したかと思うと、どこからか何かを取り出した。瓶の中から取り出したものと似ている薄くて平べったいものに、骨の先を折り取ったような細長いものを押し付けて、動かしている。

 好奇心旺盛な彼女は岩場に少し乗り上げて、その手元を覗き込んだ。

 はっとしたように、その人は顔を上げた。彼女の顔とその人の顔が、ほとんど初めて同じ高さになっていた。そして、間近にお互いの顔を見る。

 その人は、また不思議な音を出す。何を言っているのかわからないけれど、彼女はその響きを好きになっていた。そうしていると、不意にその人の顔が彼女に近付いてきて、唇を塞がれた。

 彼女は最初、食べられてしまうのかと思った。真っ黒な体で、こっそり近付いてきて、自分より弱いものを食べてしまうものだったのだと。

 でも、その人のその感触は、髪に触られた時と同じで嫌ではないと思った。

 触れられた唇が、じんじんと痺れるように熱い。

 顔が離れると、その人はまた、平べったいものに細長いものを押し付けることを始める。しばらくそうしていたけれど、やがてその平べったいものを小さくして、瓶の中に入れてしまった。

 そうして、元の通りに瓶の蓋を閉めると、彼女に瓶を返してきた。


 彼女は瓶を受け取って、それを眺める。

 その人は彼女に何かを言う。彼女はその響きを受け止めてから海の中にするりと戻った。そしてまた、手の中の瓶を眺めた。

 あんなにもキラキラと輝いて大切な、とっておきの宝物だったのに、彼女の手の中にあるそれは今、もう前ほどに輝いていない気がした。

 いつものように、彼女は岩場を離れて泳ぎ出した。また、次の夜に来たらその人はいるだろうか、また会えるだろうかと、彼女は初めて不安になった。海面に顔を出して振り返る。

 その視線の先で、どぷりと音がする。その人の体が海に落ちた。


 彼女は、手に持っていた瓶を放った。そして、その人に向かって泳ぐ。

 人は海の中に長い間いられないということは知っていた。彼女が長い間海から上がっていると乾燥して死んでしまうように。


 黒い髪の毛と黒い鱗は、ゆらゆらと揺れて夜の海に溶けてしまいそうだった。その体を両腕で捕まえると、急いで海面に向かって上昇する。黒い鱗だと思っていたものは、長いヒレのようにひらひらと、彼女の体に巻き付いた。

 波の中、泡を出す口を自分の口で塞いだ。

 その人の熱で、体が燃えそうだった。


 彼女は、その人の熱を失いたくないと思った。

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