第二章

 その狼人おおかみびとに出会ったのは高校の入学式だった。

 入学試験や事前説明会を除けば始めてとなる、高校への通学路を彼女は歩いていた。眼鏡もかけていないし髪はストレートで腰まで下ろしている。どこにでもいそうな、でも歳相応に普通に可愛い女の子。入学当初の彼女はこんな雰囲気だった。

 そんな高校生活第一日目を迎えた彼女の住んでいる場所は、首都艦に隣接している神無川であるが、山奥ほどではないにしろ周りは畑も広がっている場所である。自然豊かな場所といえば聞こえが良いが、悪くいえば田舎だ。

 そんな環境なので歩いていける場所には高校がない。結局電車かバスか何らかの交通手段で長時間の移動を強いられるか、寮のある学校に入るかという選択肢は避けられないので、進学する高校を決める時点でかなり大雑把になってしまった。要は委員長の住んでいる環境からすると、通学に関する手間に関しては、どこの高校を選んでも同じということになる。

 偏差値の高い大学に進むつもりもなかったので、委員長は出欠単位がそれほどうるさくない今の高校へと決めた。バスと電車を乗り継いで実家から1時間半ほどと、まぁまぁの許容範囲。一応寮もあるのだが自分には関係ないだろう。

 委員長の選んだこの高校が単位に関して緩やかなのは、ここが水上保安庁所属職員の中で高校卒業単位を未取得の者に、定期的に学校に通わせるための定時性教育機関としての側面も併せ持っているからだ。

 そのような設立理由なので週に一回の頻度でやってくる水保の保安員の他にも、他の学生であっても、定期試験をちゃんとクリアすれば出席単位が足りなくても進級単位はもらえる。

 だから「自分探しの旅に出ます」といって長期欠席しても、中間試験と期末試験(体力試験もある)を進級に必要な設定点数以上取れれば大丈夫という独特な校風になっている。歌手や役者が所属する芸能高校のような雰囲気であると説明すれば分かりやすいだろうか。

「――あ、猫」

 そんな風にして自分が選んだ高校へと、バスと電車を乗り継いで高校のある区域に着いた時、通学路を歩く委員長は、住居の周りに建てられた塀の一角に猫が丸まっているのを見つけた。近づいても逃げる気配はないので飼い猫かと思ったが、首輪がなかった。

「野良だ。でもずいぶん人懐っこい子だね」

 委員長はそういいながら更に近づいていく。

 実は彼女は無類の動物好きである。

 自室の本棚はほぼ動物写真集で埋まっており、壁も動物のポスターが貼られまくれ、もちろんぬいぐるみの類もわんさか置かれている。

 しかしそんな動物好きの彼女にも、唯一にして最大の弱点があった

(……あ、あれ、だいじょうぶ……なのかな?)

 その丸くなっている猫に近づいても、いつものような体の変調はない。

 塀いっぱいに近づいてみると、委員長の頭の上くらいに猫の体があった。上目使いで猫を見ていた委員長は、背伸びしてそうっと顔を近づけてみる。まだ大丈夫。

(……あれ、平気?)

 ならばこのまま触ってしまえと腕を伸ばした瞬間。

「――!」

 今回は大丈夫かとそう思った時、鼻腔を襲った強烈なあの感覚。

「ふぁ、ふぁ……ぶぁゃあぁっくしょっぉん!」

 15歳の少女が発したとはとても思えないほどの爆音が轟いた。

 彼女は、極度の動物アレルギーなのである。それでいて動物好きという、なんとも悲しい人生を送っている少女だったのだ。

 もちろん目の前でそんな暴発を食らった猫は、一瞬にして姿をくらましていた。

「……さいさき悪いなぁ」

 ずびずびと鼻をすすりながら、誰もいなくなってしまった塀の上を見て委員長はため息を吐くと、再び通学路を歩き出した。


 高校に辿り着いた委員長が正門を抜けると、校舎前の広場で生徒がひしめき合っていた。全員が新一年生だと分かる初々しさを放っている。

 中には再会を喜び合っている者たちもいる。同じ中学出身の者同士なのだろう。春休みの期間しか別離の時間はないのに大げさなものだ。

 遠くからやって来た委員長には、再会を喜ぶ中学時代の同級生はいない。中学時代の仲間たち全員が違う高校に行ってしまったのだ。今年の卒業生でこの高校を選んだのは委員長だけだった。

 生徒の垣根の向こうを見ると白い板が立てられているのが見えた。名前が並べて書いてあるのも見える。新入生のクラス別け表だ。

 さて、自分はどのクラスなのだろうかと、委員長が生徒を掻き分けて近づいていく。中学時代の知り合いはいないので、ある意味どのクラスになろうとも構わないので気は楽だ。

 そんな風にして委員長が進んでいくと、人いきれの中で誰かが変な角度で背中に触れたのか、バランスを崩してしまった。

「きゃっ」

 軽い悲鳴を上げながら、思わず目の前にあった何かを掴んでしまう委員長。

「だいじょうぶ?」

 その思わず掴んだ何かが委員長に声をかけた。

「……え」

 思わず当惑の声が出てしまう委員長。

 その相手は自分と同じ制服を着る女子生徒だった。でも凄く大きい。入学したらバスケ部とバレー部からの勧誘が絶えないだろうなというくらいの長身。

 でも彼女の特長はそれじゃない。

「……お、おおかみさん?」

 委員長は思わずその特長を口にしてしまった。

 首から上に狼の頭が載っていた。

 普通の人間だったら彼女の顔を見たら「犬の顔?」と思うだろうが、動物好きの委員長だからこそ一発で分かった。

「あははは、よくわかったねぃ。だいたいは『犬さん?』っていわれるんだけども」

 そして彼女もその間違いにはなれているらしく、委員長が思わず口にしてしまった言葉は気にせず、逆に自分の正体が一目で分かったその眼力を素直に褒めた。

「まぁボクは名前の一字に犬って入ってるんで、それでもあってるのが困りものなんだけどね」

 そんな風に苦笑しながら狼の彼女が言う。彼女も入学式の時点ではまだちゃんと長袖を着ていた。しかしその服越しに触っても委員長には分かってしまった。

(……もふもふ!)

 家にあるぬいぐるみたちに触れて叶わぬ願いを想い続けていた委員長には分かる。

 そして委員長には前に一度、酷いことになるのは覚悟の上で、中学時代の同級生の飼い猫を抱かせてもらった経験がある。

 涙と鼻水は元より、遂には耳から謎の液体まで流れてきてしまったのでドクターストップ(同級生に止められた)がかかってしまって途中で終わってしまったが、その感触は今でも覚えている。

 これはその時の忘れえぬ記憶――もふもふの感触! ぬいぐるみの人工的なファーでは再現できない血の通った本物のもふもふ!

「どうしたの?」

 自分の腕を握り続けている委員長に、狼の彼女が不思議そうに訊く。

「人がいっぱいで気分悪くなっちゃった?」

「そ、そうじゃなくてっ」

 委員長は思わず手を離した。

(……あ)

 しかしせっかく手に入れた幸せが、また離れてしまったように感じて、委員長は心の中で名残惜しさの言葉を残した。

「それならいいけども――あ、もうすぐオリエンテーリング始まるみたいだね」

 新入生の名前が書かれた白い板の前にスーツ姿の男性が現れて、今後の説明をしていた。

「それでは各自、自分のクラスの教室に入ってください。とりあえず席は出席番号順で。その後の席替えに関しては各担任の指示に従ってください」

 スーツ姿の男性――一年生を統括する主任教諭だった――の指示を受けて、生徒たちが校舎の中に入っていく。

「……あ」

 気付いたら委員長の隣にいた狼の彼女は消えていた。やはり狼だけあって身のこなしが早いのだろうか。

「……」

 しかし彼女が自分と同じ新一年生であるのは分かった。同じ学校に入ったのだからどこかで出会うこともあるだろう。

 委員長がそう思いながら自分のクラスに入ると――

「あ、さっきの人。同じクラスだったんだね」

 いた。

 さっきの狼の彼女がいた。

「ボクは犬飼陽子って言います。よろしくね」

 それが犬飼陽子もふもふとの出会いだった。


 後で回想してみて、委員長は犬飼陽子と接触のあった時はまったく動物アレルギーが起こらなかったのに気付いた。

 それもそのはず、犬飼陽子はあんな見た目だが半分は人間なのだ。人間に生まれて人間アレルギーというものは基本的にありえない。多分半分人間である部分でアレルギーが中和されているのだろう。

 動物好きなのに動物アレルギーな彼女は、その気持ちを満たしてくれる存在と遂に邂逅したのだった。

 こんな難儀な体質に生まれて15年目、奇跡が訪れた。

 犬飼陽子と同じクラスになれた。それで一生分の運を使い果たしてしまったのだとしても、それで良いと思った。狼の彼女と最低でも一年間は一緒の教室にいられるのだから。

 この高校にして心底良かったと委員長は涙した。


 狼の彼女、犬飼陽子は前の席に座る女の子と話をしていた。

 聞いた話によると前席の彼女の生家は神社で、彼女自身も幼少時から巫女をしているのだという。

 ある意味特殊な環境で生まれ育った人間なので、生まれながらに特殊な狼人の彼女とは波長が合うのだろう。

 狼人の女子生徒がいるという事実に関しては、15年前――委員長たち新一年生が生まれた年だ――から首都内湾には水の魔物と呼ばれるもの、その湾岸部周辺地域には鉄車怪人と呼ばれるものが出現するようになったので、狼と人間の中間の生徒が一人くらいまぎれていても然程驚かなくなっていたし、他の生徒も概ね受け入れている。

「……」

 ガールズトークに花を咲かせる狼人と巫女の二人を、委員長は羨望のまなざしで眺めていた。

 入学式の翌日に席替えが行われ(担任教諭は型にはまった出席番号順があまり好きではないらしい)かなりランダムな感じで配置が決まった。

 委員長は席が決まる間「犬飼さんのとなり犬飼さんのとなり」と念を送っていたのだが、委員長自身は最前列、陽子は教室後方の席になった。やはり彼女と一緒のクラスになれた時点で運の全てを使い果たしていたのだと、改めて思うのだった。

 委員長自身はあんまり視力が良くない方だったので場所自体は都合がいいのだが、陽子の席からはかなり離れてしまったのには大いに不満が残る。

 しかも陽子の隣の席は本当にたまたま空席となった。

 教室内にはいくつか空席があって、水上保安庁からの出向生徒をこのクラスが受け入れる時のためとも、今後転校生が来るかもしれないからそのためとも説明された。

 一体それが実行されるのはどれだけの確立なのだろうと、委員長は心の中で涎を垂らしながら、陽子の隣りの空白を羨ましげに見ていた。

 だがしかし、席が離れていても、お喋りをするということに関してはそれほど障害ではないはず。休憩時間ごとに陽子の方へ行けばいいだけだし、隣りが空席なのもそこに座ってお喋りするのにちょうど良いスペースでもある。

 しかし、しかしである。

(……話題が見つからない)

 今まで生きてきたほぼ十五年間を、動物を愛でることと、触れられない動物たちの代わりにぬいぐるみで思いをはせることだけで生きてきた委員長としては、そのものズバリの動物の話題しかない。

 そんな話題を狼人である陽子に向けるとどうなるか?

 多分それは陽子のことをあからさまに動物扱いしてしまうような喋り口調になってしまって、その結果嫌われてしまうのは目に見えている。それだけは断じて避けたい。委員長自身も、自分が陽子に触れたくて目を爛々に輝かせながら話に突入していくのが自分でも目に見えて分かる。それは絶対に押さえ込まなければならない。

 陽子とお近づきになるには何か違う話題を考えなければ。そしてその違う話題に没頭して「陽子に触りたい」という気持ちを抑制しなければ。実は自分にも巫女の彼女のような特殊な環境があったような気もするが、今さら母に頼むのもなんなので、自力でなんとかするしかない。

 そんな風に思い悩みつつ、入学してから数日彼女を追っていて、一つ気付いたことがある。彼女は非常に暑がりなのだ。

 それもそのはず全身に毛の生えている獣人なのだから、それは当たり前だ。

 自分の体熱を下げようと胸元を広げてぱたぱたしているのはもちろんのこと、スカートの裾をひらひらさせて風を入れていたりする。もちろん男子がいない方向に向かってだが、女子高でもないのにちょっとやりすぎだ。

 だがその一連の行動を見ていて、委員長には思いついたことがある。

 多分明日にでも委員会決めが行われることになる。

 そこで風紀委員になれば、彼女の公序良俗を指摘することで、何かと話題を持つことができるようになるかも知れない。委員長もそれは良いアイデアだと思った。

 だが、更なる考えが委員長の頭に巡った。

 いっそのことクラス委員になれば、風紀の乱れ以外でもオールマイティに面倒を見ることができるようになるのではないか。何かにつけて彼女と接触できるようになるのではないか。

 そうして委員会決めの当日。

 裸眼でもとりあえず問題は無いのだが、視力が弱いのは事実なので軽めの度の眼鏡を本日臨むに当たって、昨日眼鏡ショップで用意した。そして腰まで伸びた長髪を、二股の三つ編みへとヘアチェンジ。

 委員長はまず形から入ってきた。高校に入ってから地味な女の子が派手な娘とイメチェンする場合は結構あるが、真逆をしてきた生徒はそうはいないだろう。そこまで気合が入っていた。

 本日は一時間目の授業は全部ホームルームに消費される。クラス全員の所属委員会を決めるのだから。

 そしてその冒頭、まずは進行役が必要であると第一にクラス委員の選出が行われた。

 担任教師のクラス委員の立候補を募る声が教室内に響く。

「はい」

 スッと静かに上がる右手。

 全員がその手の主に注目した。

 そこにはどこからどう見ても典型的三つ編み眼鏡委員長となった彼女がいる。委員長オブ委員長となった委員長の立候補に異論を差し挟むものはいなかった。

 そうして委員長は委員長となったのである。

 その後の委員長としての活動は前述の通り。

 陽子の体を触りまくって思いっきり抱きしめたいという感情を必死に自制しつつも陽子に接触する彼女は、その反動からか妙に手厳しくなってしまった。しかしそれでも自分の正体がバレて更に嫌われてしまうよりかはマシであると、委員長も変にギクシャクしたままなのは崩さないし崩せない。

 ある意味で健気だが、ある意味で変態街道まっしぐらである。


 委員長が委員長となると、その立場上自分のクラス以外の学校関係の話題を耳にするようになった。

 各クラスのクラス委員が集まってのとある会議の時、陽子が寮内では一人部屋で暮らしているという情報を耳にした。

 陽子が寮生活であるのは委員長も前から知っていた。巫女の彼女との会話で話していたのを聞いていたからだ。お互いの生活環境を教えあうのは初期の会話の基本でもある。

 この高校指定の寮は生徒の情緒成長を考慮して二人部屋が基本だと委員長も聞いていた。陽子の処遇に関しては、やはり特殊な存在ではあるので一学期は様子見として一人部屋扱いとなっているのだと言う。そして他の生徒も慣れてきたと思われる夏休みに入った時に、二人部屋にする予定となっているとのこと。

 そう、教室内でもその隣の席は空いているというのに、寮の中でも犬飼陽子の隣りは空いていたのだ。

 彼女の隣りの二つの空白を思い描いた時、委員長の頭の中にまたしても一つの考えが降りてきた。

 自分が入寮して「自分は委員長なのだから犬飼さんと同じ部屋に住みます」と立候補してしまえば良いのではないのか?

 せっかく自分はやりたくもないクラス委員となったのだ。そうまでして手に入れた特典は、自分のクラスの生徒の面倒をみますといえばなんでも許される力。今こそその委員長パワーを発揮する時が来たのではないのか?

 それはとてつもないアイデアだと思った。なぜ今まで気付かなかったのが不思議なくらいだ。多分自分には入寮という選択肢が無いと始めから思い込んでいたのだろう。かかる寮費に関しても往復の交通費に少し上乗せすればまかなえるので、然程問題でもないはず。

 その日の帰宅後、委員長はさっそく自宅通いから入寮しての生活への変更を母に願い出た。

 委員長が10歳になった時のとある母の告白から、母親との関係は妙に噛み合わない部分が出てきてしまったのだが、父親の行方がようとして知れない我が家では、結局母に頼むしかない。

「まぁいいんじゃない、家から離れて暮らすのも人生経験だろうし」

 いつものように居間でお茶を飲みながらテレビを見ていた母は、なんでもないことのように二つ返事でOKした。

 母親も急に「入院した」と連絡があって一週間くらい家にいなくなることもあり、その妙に開放的な家庭環境が作用しているのだろう。エライ酷い放任主義だが、今はそれがありがたい。

「母さんが困ったらちゃんと帰ってきてよ」と、一応はそんな風に念を押す母に「わかってるわよ」と、とりあえずお約束の返事を残して、一人暮らしに必要な荷物だけ担いで委員長は家を出た。動物の写真集やぬいぐるみの類は全部家に置いてきた。全てをあのもふもふに捧げるために。

 入寮における手続きは順調に進み、とりあえず委員長には一人部屋があてがわれた。今は陽子以外には一人で暮らす者がいないので暫定的処置としてこうなった。

 計画は委員長の思惑どおり進んでいた。

 委員長も一人部屋、陽子も一人部屋。邪魔するものは何もない。

 満を持して意気揚々と委員長は寮母の部屋に向かう。

「え? 陽子ちゃんと一緒の部屋になりたい?」

 ノックをして、出迎えてくれた寮母に用件を伝える。必要な台詞は極力簡潔になるようにまとめて、何度も練習した。

「そうです、私犬飼さんのクラスの委員長ですし、いつまでも一人部屋はなんですから私が――」

「ああごめんね心配してくれて。でももう決まったのよ」

 今では一字一句間違えずに暗唱できる未来の希望を掴むための台詞が、途切れた。

「……決まった?」

「うん、陽子ちゃんの部屋の相部屋の人」

 夏休み直前までは放っておくのでは無かったのか? それを可哀想と自分がみかねて同部屋になると立候補して、それで一連のストーリーはめでたしめでたしで終わるのではなかったのか?

「いやー、ほんとどうしようかと思ってたんだけど、陽子ちゃんと同じような感じの子が転校して来てくれて助かったのよ」

 寮母が語る陽子ちゃんと同じような感じの子。なんだその転校生イレギュラーは。同じ狼人でもやって来るのだろうか。

「で、ごめんね委員長さん。そういう理由だから。せっかく心配してくれたのに」

「い、いえ……」

 例えようもない脱力感を感じた委員長は「失礼します」と小さく告げて寮母の部屋を後にすると、自室に戻り扉を閉めた瞬間その場にどさりと倒れた。

「……なによ、転校生って」


 その転校生が翌日やって来た。

「……」

 最前列の席である委員長の目の前を通っていくその赤い姿を見て、委員長ももちろん度肝を抜かれた。

 狼人ではなく鬼がやって来た。そして確かに狼人の相部屋にするにはこれ以上ない適任の人選である。教師陣や寮側の余りにも真っ当な選択に、委員長はなにも文句がいえなかった。

 ――しかし

「斉藤の後ろが空いてるな。鬼越の席はそこだ」

 教師のその言葉に、委員長は目を剥いた。

 斉藤という生徒の後ろにある空白の隣は、陽子の席なのである。

 鬼越魅幸という赤鬼は登場早々、陽子の隣にあった二つの空白を埋めてしまった。

 他の生徒はその空白が埋められたことを、特に何も思っていないばかりか、安心感も漂ってくる。

 狼人の犬飼陽子は気さくで人当たりの良い人物だが、やはりその容姿で対応が若干引き気味になってしまうのは普通の人間であれば仕方ない。しかしこれからは鬼越魅幸という常に相手をしてくれる存在が現れたため「今後はあれに任せれば良い」という安心感だ。それとは別に新たに現れた鬼越に対するもう一つ増えた距離感という問題は出てきたのだが、今の時点では多くの生徒は気付いていない。

 そしてその距離感が既に憎悪にまでなっている生徒がここにいた。

(なんなの!? いったいなんなの!?)

 自分がわざわざ実家から離れて寮にまで入ったのはなんだったのか?

 確かに陽子の日々の生活には急接近できたが、一緒の部屋になるという最終目的はどうなるんだ!

 席に着いて「よろしく」と隣りに陽子に挨拶する姿を、委員長は目から炎でも噴出すような勢いで凝視していた。

「……」

 しかしそんな風にして陽子の隣りをことごとく奪っていった鬼越魅幸は、転校してから五日目の朝に唐突に姿を消していた。

 実家に戻って藁を集めて、五寸釘用人形でも作ろうかと思ったが、怨みをこめる前に相手がいなくなってしまった。

 陽子と鬼越が暮らす部屋に毎日念を送っていたのが通じたのだろうかと、本気で思った。

 クラス委員長権限を用いて入手した話によれば、正式に退学の手続きを経ていなくなったという。

 つまり、完全に消えた。

「……」

 しかし、鬼越という赤鬼が突然消えたあと、一人の人物の元気も消えていた。

 赤鬼が消えた後、陽子は誰にも触れられないような、悲しげな雰囲気をずっと醸し出していた。

 あれは誰かが側にいて何かを伝えてもどうにもならない、自分ひとりで何とかしなければならない空気であるのが誰にでも分かった。事実、前席の巫女の彼女も必要最低限の会話しかここ数日陽子と交わしていないのを委員長も知っている。

 鬼越の突然の退学はもちろんクラス中の話題になっていたが、唯一理由を知っていそうな彼女があんな状態なので、誰も訊けなかった。入学当初から仲の良い巫女の彼女も、それでもお喋りすらためらわれる雰囲気なのか、後席の狼人をそっとしておいてあげている。

 委員長ももちろん話しかけることも出来なかった。

 クラスをまとめる長としての仕事として、元気の無いクラスメイトの世話をする――そんな名目で近づくことも出来ただろうが、そんな心の隙間に入り込む余地すら見せない。

 委員長に出来たことは、放課後になって気の抜けたような顔でランニングする陽子を、遠くから見つめることだけだった。

 それでも一週間経ったら、何か少しでもいいから話題を見つけて話しかけようと思っていた。そして寮母に再び頼んで相部屋にしてもらう手続きを。陽子もそれくらい経てば、一人の時間をもてあまし始めるはず。

 だが、委員長は――この陽子の元気と赤鬼の二つが消失している時間を、未来へと進んだ時間軸の中で悔やむのである。この一週間の中で彼女を篭絡できていればと。この一週間の内に彼女と同部屋になっておけば良かったと。

 赤鬼が消えた一週間後、その赤鬼がひょっこり帰ってきたのだ。

 何の前触れもなくいなくなった鬼越は、何の前触れもなく復学した。本人的には再転校という手続きにしてもらったらしい。心機一転、もう一度最初から始めたいからとのこと。

 そして陽子自身も花が咲いたかのような笑顔を取り戻した。その笑顔が帰ってきたのは委員長も嬉しいが、しかし納得がいかないのも事実。

 しかして、銀色の彼女の隣りは再び赤色で塗り潰された。

 そして今度こそそれは消えないように強固に塗り固められた。

 私の気持ちを良いように翻弄するあの鬼。許せない。絶対に許せない。

「……ゆるさない」

 寮の自室で一人ぼっちになってしまった委員長が呟く。

 もう委員長は部屋を出たくなくなった。もうすぐ夕飯の時間だが、一食抜いたくらいで死にはしない。それよりも陽子と鬼越が笑顔で会話している場面に出くわすかもしれないという状況に、入り込むのが辛い。

「あの赤鬼ゆるさな……――鬼? ……そういえば保育士さんが」

 保育士から聞いた、怪人の正体が黄色い鬼だったという話。

 色の違いはあるが種族としては同種だろう。

 ならば、同じ鬼である鬼越だって、怪人になってしまう可能性があるのでは。

「だったら……今の内に退治しておけば良いんじゃない?」

 委員長の体内にどす黒い何かがこみ上げてきた。せっかくもらった情報だ。他人に話すのではなく自分のために使うのなら違反ではないだろう。

 もう藁を束ねて恨みに人形を作るだけじゃ済ませない。

 鬼は退治されるもの。

 そう、退治されなければならないのよ。

 ――正義の味方に。

 そして正義の味方は――我にあり。

「鬼は、退治されるもの」

 そう改めて口に出して、自分の意思に念を押す。

 鬼は退治されるもの。それは確かに正義の使途がいうべき台詞であろうかも知れないが。今の委員長の顔は例えようもなく悪人のそれだった。


 土曜日授業終了の午後。

 委員長は寮には戻らず、電車とバスを乗り継いでとある場所を訪れていた。

「一ヶ月ぶりくらいかしら、帰ってくるの」

 そう、ここは委員長の地元である。のどかな景色が広がる。

 一応は町という括りになっているが、畑や果樹園なども至るところにあり、彼女の実家も御多分に洩れず、家の目の前は作物を育てる土地となっている。

 そんな彼女の家が所有する畑へと委員長がやってくると

「――!」

 何の前触れもなく強い風が吹く。委員長の脚を下からなぞる様に吹き上がった突風は見事に彼女のスカートを舞い上がらせ――その中の黒いインナーを晒させた。

 意外にも委員長はブラックなセクシー系の下着を着用しているのかと思いきや、それはオーバーパンツの黒である。

「……まったく、なんでうちの前に来ると必ず風が吹くのかしら」

 乱れた裾を直しながら委員長が溜め息を吐く。ビル街であれば常にそこにはビル風が滞留しているであろうが、この辺りにはそんな高い建物がある訳でもなく、また山から吹いてくる風にしても遠くに見える山並みからこの辺りまで風が届くこともありえない。土壌的に風の起こりやすい土地なのだろうかと思うのだが、委員長も良く分からない。

 ただ、毎回毎回謎の風にスカートをめくられるのも癪なので、いつの頃からかオーバーパンツをショーツの上に穿くようになった。他人にその痴態が見られる危険などほぼ皆無ではあるのだが、やはりどこか許せないものはあるのだ。

 風の悪戯が起これば、中身がそんな物でも眼福ものな光景であるのは確かでもある。だがそんな風が起こした偶然に嬉しがる者は周りにはいない。人っ子一人いない。首都艦の隣とはいえ、田舎な場所は田舎なのである。

 何かいるとすれば彼女の家が所有する畑の中心に立つカカシくらいのもの。

「……」

 畑の中心に立つソレ。

 異常なまでの存在感を見せ付ける――ソレ。

 リアルな人形とかそんな作りではまったく無く、十字に組み合わせた棒に適当な顔を付けて笠を被せ、軍手と衣服をあしらっただけのシロモノ。キングオブシンプルイズベスト。

 顔にしても点や棒だけを描いたぞんざいなものでしかないのだが。

(……なんか見られてるような気がするのよね)

 しかしその異常なまでの存在感により動物の類が寄ってこないので、委員長の家の畑は小さいながらにいつでも豊作である。

「……」

 委員長は積年の違和感を振り払うように、カカシをそれ以上極力見ないようにして家へと急ぐ。今日は大事な話をする為に家に戻ってきたのだ。こんなところで心が乱されてはいけない。

「ただいまー」

 畑を通り過ぎ玄関に辿り着く。山本と表札のかかる家の玄関を通る。靴を脱いで下駄箱にしまう。

「……」

 さっきのカカシほどではないが、ここにも違和感を感じさせるものが一つ長年置いてある。玄関を入って横にある下駄箱の上に鎮座ましましする鉄塊が一振り。

 バールである。

 釘抜きなどに使う大工道具の最上位バージョン。家屋の解体などに使う全長1メートルはあろうかという鉄の塊。

 かなり使い込まれた感じはするのだが、塗装の剥げなどはあまり見られない不思議な一品。玄関先のちょっとしたスペースに、本来なら木彫りの動物や花瓶に活けた花などを置いておくような所にそれはある。

 しかしただの置物という訳でもなく、委員長が気付くとたまに無くなっている時があるので家族の誰かが実際に使っているのだろう――家族といっても基本的には母親だけだが。

「ただいまー」

 玄関を抜け居間に入りもう一度ただいまを言う。

「おかえり」

 テレビを見ながらお茶を飲んでいた女性が振り向いた。委員長のそのほぼ唯一ともいえる家族の母親である。委員長に兄弟はいない。父親もいることはいるのだが殆ど家にはいない。別居状態という訳でもなく、母がいうにはあちこちを飛び回る仕事をしているという。前に「マグロ漁船の船員?」と委員長は冗談交じりに訊いてみたことがあるのだが「それに近い」と返された。そんな仕事であるらしい。

「どうしたの急に帰ってきて? なんか忘れ物?」

 娘の突然の帰還だが特に驚いた様子も無く「お茶でも飲む?」と、ポットから急須にお湯を入れ茶箪笥に手を伸ばし新しい湯飲みを取り出すと茶を注いだ。

「忘れ物っていうか……確かに忘れ物っていわれれば忘れ物なのかもしれないけど」

 娘の方も毎日そんな風にしているかのように、テーブルの向かいに座り、出された茶に口をつける。出がらしのいつもの味。美味くもなく不味くもなく、多分それは安心という味。

 急に帰ってきたのにいつもながらの雰囲気。委員長は入寮してから一度も実家には戻っていない。実家に戻る時間を消費するのなら、一つ屋根の下で生活しているあのもふもふを眺めていたい。

「……」

 しかし今日は特別な想い――一つの想いを胸に秘め、ここへ舞い戻ってきた。その理由の中心にあるのもあのもふもふ。

「……母さん」

「なによ?」


「――私、母さんの仕事、継ぎたい」

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