その時、僕は龍を見た

三ツ沢ひらく

【飛】

 ぱちり、と乾いた音が鳴った。僕は猫背をさらに丸くして、壁際に追い詰められた鼠のような状況に小さく息を吐く。この小さな盤面上の無限の可能性の潰し合いで、僕を追い詰めるのはいつだって貴女だ。


 ▽


「負けました」

 いつものように、俯いて投了した。眼前の八十一マスは憎らしいほどに美しい形で僕の敗北を示している。ほっそりとした白い指が僕の指した飛車を取って、そのまま視界から消えていった。

遊飛ゆうひくんは本当に振り飛車が好きだねえ」

 五寸七分の将棋盤の向かい側で笑うのは、はす向かいに住むご近所さんであり、僕の将棋の師でもあるかおるさんだ。

「お願いします、香さん。もう一局」

「だめ。もう帰りなよ」

「香さんー」

 そそくさと片付けを始める香さんにだだをこねると、じっとりとした目線を返される。

「もう日が暮れてんの」

「知ってます」

「私はもう疲れてんの」

「それも知ってます」

「あのねえ」

 頭を抱え始めた彼女を横目に、僕は駒を並べ直す。なんの特徴も特技もない凡人である僕がどうして香さんとの対局にこだわるのか。そして僕がどうして香さんに一回も勝てないのか。その理由は至極簡単だ。

「プロ棋士の香さんに一回でも将棋で勝てたら、付き合ってくれるって約束。忘れてませんよね。あ、まさか逃げるんですか?」

 香さんは僕のその言葉にぐぬぬと声を漏らし、そのまま対面に戻ってきた。昔から挑発に弱いところは変わっていない。

「いくら休職中とはいえプロが中学生こども相手に逃げるわけないでしょ!」

「じゃあよろしくお願いします」

 はす向かいに住む香さんは、今をときめく現役のプロ棋士。

 対する僕はなんの特徴もないただの中学生。そして、ほんの五つや六つの頃からこの人にどうしようもなく惚れてしまっている。


 ▽


 結局、僕の振り飛車は香さんの居飛車によって持久戦に持ち込まれ、数えきれぬ敗北がさらに積み重なっただけとなった。

「振り飛車以外覚えてから出直してこい!」

 蹴飛ばされるように縁側から追い出され、負け犬の僕は渋々はす向かいのアパートに帰る。

 ペンキの剥がれたドアを開けると、その静けさに耳鳴りがした。誰もいない部屋は酷く寒く感じる。香さんといると汗ばむ程に暖かいせいかもしれない。明かりとラジオをつけて、色褪せた畳に横たわる。父親は仕事で朝まで帰らないので、怠惰を注意されることもない。

 しばらくぼんやりとしてから、適当な惣菜パンをちぎって飲み込んで、シャワーを浴びて、寝る。朝が来たらつまらない学校に行って、帰りに香さんの家に寄って、将棋を指す。その繰り返しの間に時折、家を出て行った母親の背中を思い出したりもする。

 なので、香さんと将棋をしている時間は僕にとっての唯一の団欒を思わせるひとときで、僕の生命線のようなものでもあるのだ。もしも香さんの恋人になれたなら、将棋という理由がなくても香さんと一緒にいることができる。だから僕は香さんに勝ちたい。


 香さんという存在に、家族を求めていることは僕だけの秘密だ。


 ▽


 香さんは僕より十歳年上で、学生時代から可愛いことで有名だった。僕が物心ついた頃からずっとはす向かいに住む彼女は、文字も書けない僕に駒を握らせて、将棋のルールをいちから教えた。本格的に将棋を始めて八年、ずっと彼女の指導を受けている。

 その間に僕の家庭環境はすっかり悪くなってしまったが、香さんは歳を重ねて大人っぽく綺麗になった。棋士だったお祖父さんの影響で幼い頃から将棋の道を志し、気付けば彼女は狭き門をくぐり抜けて棋士になっていた。

 文字どおり草葉の陰から見守っていた近所の子どもだった僕は、まるで違う世界の人間に恋をしてしまったかのような絶望を抱きながら恋をし続けた。もちろん手が届かない存在だということはとっくに分かっていた。そのまま上へ上へと登っていく彼女を、まるで天女を崇めるかの如く思い続けていた。


 だから香さんの方から堕ちてきてくれたのは、正直意外だった。


 美人棋士として華々しく取り上げられた香さんは人気をさらい、下馬評に上った後はただひたすらに出る杭として打たれてしまった。

 実力以上の期待をされて、負けたら批判を受ける。そこに香さんの意思はどこにもなく、大きな悪意の渦に飲み込まれていくのを僕はテレビ越しに眺めることしかできなかったのを覚えている。

 そして彼女はとうとう体と心を病み、今は休職している。僕と延々と将棋を指す時間があるのも、療養中だからだ。普通は心を病んでいたらその原因となったものを遠ざけるものかもしれないけれど、香さんは将棋から逃げずに僕と勝負をしてくれる。

 僕を負かすことが香さんの自信に繋がるのなら何度でもボコボコに負かしてくれて構わない。けれど一回だけでいいから勝ちたい。香さんのそばにいるのに理由が必要ない存在になりたい。


 その一回のために、僕は今日も飛車を振る。


 ▽


 その日、香さんの調子が良くないことに気付いたのは部屋に入ってすぐだった。調子というのは心の方のことで、香さんは時々なにもできなくなってしまう。そんな日は香さんの親が仕事から帰ってくるまでの間、僕が香さんの手となり足となる。

 香さんの絡んだ髪を丁寧にブラシで梳かす。朝からなにも食べていないというので、勝手知ったるキッチンでバナナをひと口大に切って彼女の元に持っていく。バナナの成分は心の疲れに効くとなにかで読んだことがあるので、親鳥になった気分でせっせと口に運んだ。香さんはそれをだるそうに咀嚼して、石のかたまりでも飲み込むかのように大げさに嚥下する。それを数回繰り返していると、香さんはぐったりと投げ出していた細い腕を伸ばして、僕の手を撫でた。

「ねえ遊飛くんは何歳になった?」

「十四です」

「はやっ。ついこの前までランドセル背負ってたのに。でもまだまだ若いねえ。これから、なににでもなれるね」

 まるで自分はなににもなれないような言い方だ。それを指摘する間もなく、香さんは続ける。

「将棋には無限の可能性がある。盤面は宇宙のように広く、戦略は海のように深い」

「香さんのお祖父さんがよく言っていた言葉ですよね」

 香さんを将棋の道に導いた人の言葉。香さんから何度も聞いている。

「なのにどうして君はひとつの手にこだわる? 狂ったように振り飛車ばかり。それが理解できないよ。将棋を楽しんでいるのか不安になる打ち方だ」

「知りたいですか?」

 戦略について問われるのは珍しい。そう言うと香さんはしばらく黙ってゆるりと首を振る。

「いや、やっぱりいい。知ったところで君には負けないしね」

 それを聞いて安堵している僕がいた。香さんにはなんでも知ってほしいと思うけれど、なにも知られたくないとも思うのだ。香さんのことは全て知りたいと思うのに。香さんが遠く感じるのは、幼い頃から知っているその姿とは別に、棋士としての姿がちらつくからなのだと思う。中傷に負けじと気丈に駒を進める香さんを思い出し、不意に言葉がこぼれ落ちた。

「香さんは、将棋をやめたいと思ったことはありますか?」

 香さんは光を宿さない目で僕を見る。

「ない」

 そのきっぱりとした物言いに僕は納得した。香さんの心身を無駄に疲れされているのは、将棋ではなく人間なのだ。香さんは将棋から逃げない。だから、将棋で挑む僕からも逃げない。ここにつけ入らない手は、残念ながら僕には残されていない。

「じゃ、香さん。今から一局お願いします」

「ええ? このグロッキーな姿を見ても言う?」

「はい、お願いします」

「マジか」

 逃げ場がないのは少しだけ可哀想だと思った。けれど僕は僕の本懐を遂げるために今日も香さんに勝負を挑む。


 貴女に教わったこの八年を無駄にしないために。


 ▽


「研修会はどうだった?」

「大変でした」

「ふふ。強い子いっぱいいたでしょ」

 木と木が鳴る音の隙間で他愛のない会話をする。香さんの紹介で見に行った研修会には、プロ棋士を目指す子どもが集っていた。僕のように地に足つかない凡人には敷居が高すぎるように思える。「みんな育ちがよさそうでした」と付け加えると、「君の感想は新鮮だ」と笑われた。

 指先が冷えないように手を擦りながら駒を取る。赤い半纏を羽織った香さんが、深緑色の半纏を貸してくれた。風の通る縁側に居座るのが厳しくなってくる季節にもかかわらず、僕たちは絶えず知略を巡らせる。

 香さんの作る囲いは美しい。八十一マスの中に美を見出すのはおかしいかもしれないけれど、他に表現できないのだから仕方がない。

「プロの棋士になりたいと思う?」

 ぱちり、香さんの指が盤面を滑る。

「僕は香さんの恋人になりたいだけなので……」

 ぱちり、僕はその質問の答えにならない答えを返す。その三手後に僕は投了した。

 そしてその八年続くいつもどおりのやりとりは、香さんの一言であっけなく終わることとなる。

「ねえ、最後の勝負をしよう。遊飛くんが勝ったら恋人になる」

「え?」

「その代わり私が勝ったらプロを目指して」

 ひやりとした風が頬を撫でる。香さんは酷く真剣な表情で僕の目を見ていた。そのまっすぐな視線から思わず目をそらしてしまう。

 プロを目指せ? 今この人はそう言ったのか?

「でも僕はもう十四歳で……」

 棋士を目指すためには奨励会に入りプロ試験を受けなければならない。しかしそれには厳密な年齢制限がある。それこそ小学生の内から奨励会の下部組織にあたる研修会に入ったり、アマチュアの大会での実績が必要だったりもする。プロ棋士とは潰しの効かない選択を早くにした強者だけがなれるのだ。

「まだ十四だよ」

 それでも僕に、そこに行けと言うのか。


 ▽


 八年間飛車を振り続けたのは、この一回にかけていたからだ。こいつには振り飛車しかないと思わせるため。普通に考えたらそんなはずはない、けれど八年という月日が味方している。これは僕のこれまでの将棋人生をかけた罠なのだ。馬鹿だと思われてもいい、たった一回だけ欺くことができればそれでいい。

 突然訪れた最後の勝負で、僕はついに飛車を振ることをやめた。好戦的に飛車をあちこち動かす振り飛車とは真逆の、飛車の動きを抑えてたっぷりと時間を使う居飛車。それは香さんが得意とする手だ。突然百八十度戦法を変えた僕に、香さんの手は止まる。

 揺れてくれ、そして隙を見せてくれ。八年かけて仕込んだ罠にはまって、崩れて、負けてくれ。香さんが弱っている今しかチャンスはない。

 時間をかけていつもと違う手を作る。香さんの指は少し震えていた。それは動揺からか、それとも。


「この八年間ずっとずっと、この時を待ってた」



 ▽


「え?」

 香さんのその言葉を聞いて、今度は僕が手を止める番だった。八年間待ったのは振り飛車という布石を打ち続けた僕の方のはずだ。首の後ろあたりがひやりとする。本能が、警鐘を鳴らしている。思考の全てを知られているような、嫌な予感だ。

「本気の君を、待ってたよ。でも私が勝つ!」

 香さんは熱いものを瞳に宿し、昔と変わらない挑発的な笑顔を浮かべていた。バチリと火花が鳴るように、駒が翻る。

 僕と香さんの相居飛車が初めて盤面でぶつかった。


 その時、僕は龍を見た。



 ▽


「負けました」

 僕の考えた八年の罠はあっけなく破られた。香さんの虚をつく戦法を取ろうとしたのが甘かった。彼女の持つ強い心を忘れてしまっていた。弱っている姿に惑わされていたのは僕の方だったのだ。

「ありがとう遊飛くん。私、目が覚めた」

 やけにすっきりとした表情で、香さんは言う。

「いつのまにか人の目を気にしすぎて、外野の声を真に受けて忘れてた。将棋を指すのが楽しいっていう気持ちを、今思い出したよ。だからありがとう」

「僕は……すごく悔しいです。八年かけた手だったのに」

「ふふ。約束忘れないでね。これから君はプロを目指すの」

「はい」

「あとさ、」


「プロになったらもう一回、あの条件で勝負してもいいよ」


 香さんはそう言って、少し照れた顔をこちらに向ける。その姿に昔のやりとりが鮮やかに脳裏に浮かんだ。


 幼い僕は道端で詰んだ花を握りしめて、香さんに渡した。一所懸命、好きを伝えた。そして香さんは笑いながら確かにこう言ったのだ。

「私に将棋で勝てたら、恋人になってあげる!」


 将棋には無限の可能性がある。盤面は宇宙のように広く、戦略は海のように深い。その可能性の潰し合いが、名前のない関係の僕たちを繋いでいる。


「次こそ僕が勝ったら、本当に恋人になってくれますか」

「いいよ、まあ結局私が勝つけど」


 五寸七分のその先に、貴女がいる。不確定な未来の約束の中でも、たったそれだけでいいような気がして笑えてきた。


 だから、そうやって油断していてくださいね。僕が貴女に追いつくまで。


(了)




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