祖母の部屋に絵麻はいた。祖母の部屋は独特の匂いがした。消毒液と、かすかなアンモニアと、そして、老人特有の甘ったるい匂い。

「絵麻ちゃん、手を握ってあげて」

 母親の声に、絵麻は内心で首を振った。

 いやだ。触りたくない。

 意識なくベッドに横たわっている祖母の手はシーツの上で組まれている。その手はしわだらけで、絵麻にニワトリの足を連想せた。

 いやだ。ここにいたくない。

 次に気がつくと、火葬場だった。棺桶が炎に包まれている。

 祖母はいなくなった。でも、あの部屋はまだ残っている。あの家に、まだ。

 いやだ。

 足元に横たわる猫の死体を、絵麻はじっと見下ろしている。

「消してやろうか」

 絵麻が振り返ると、そこには黒くてもやもやとしたものがいた。

「オレが食べてやる。そうしたら、そいつはきれいさっぱりなくなってしまう。血も肉も、骨も、腐臭も、すべて食べつくしてやる。そいつが生きていたことも、なくなってしまうくらいに。さあ、そいつを持って、こっちに来い」

 死んだ肉体が、死んだという事実とともに、きれいさっぱりなくなってしまう。それはとてもいいことのように、絵麻には思えた。死体の方へ向けた絵麻の足元を、チリリンという音とともに、何かが通り抜けた。いつの間にか、猫は息を吹き返していた。

「待って!」

 絵麻は猫を追って走り出した。

 交差点を飛び出した絵麻の体は、激しい衝撃とともに吹き飛ばされた。ブレーキの音が耳に残った。

 人垣の向こうに横たわっている自分の体を、絵麻は少し離れた場所から、ぼんやりと眺めていた。そうか。私も死ぬんだ。絵麻は道路に流れる自分の血を見つめた。

「死は誰にでも訪れる」絵麻の隣に穂村が立っていた。「それをなかったことに、か。そいつぁ、できない相談だぜ。なあ、梅子」

「この子、絵麻ちゃんを守ろうとしてたのね」

 反対側に立つ梅子が言った。

 足元を見ると、猫が絵麻を見上げている。

 絵麻は手を伸ばし、猫の頭を撫でた。チリリン、と鈴が鳴った。

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