第11話 ちょっとした冒険
「え? うそ?」
静香が言うように、店の前に停まっているトラックがじりじりと坂の下の方へと進んでいる気がする。運転席には誰もいない。荷台の扉が開きっぱなしなのを見ると、荷物を運び入れている最中なのかもしれなかった。
トラックの少し下った場所で、小さな子供が見せびらかすように手すりの上で遊んでいるのが見えた。もし、トラックが動き出したりしたら、かなり危ない。
「わたし、ちょっと見てくる。美紀は誰か大人の人を呼んできて」
「そ、そうだな。ちょっと行ってくる」
「ぼくー。そこ、危ないよ!」
美紀が大人を呼びにいくのを見届けず、夏帆ははしゃいでる子供に声をかけた。
母親らしい姿が見えないところをみると、買い物の付き添いに飽きてしまったのだろう。
夏帆もそうやって迷子になってしまった経験があるので、その気持ちはなんとなくわかる。
夏帆の言葉に、子供がきょとんとした顔で手すりの上で器用に立ち止まる。自分がどうして注意されたのか、よくわかっていないみたいだ。
「大きな車の近くで遊んじゃダメだって!」
「えー」
ばくん、という何かが外れるような音が聞こえた。
その音が何なのかを考えるよりも速く、身体が動く。歩道の手すりを飛び越えて、子供のいる方へダッシュ。
幸いなことに、停車しているトラック以外に車の姿は無い。
「夏目さんっ!」
背中から静香の声が聞こえる。いきなり動き出したトラックに驚いたのか、子供が足を滑らせて車道側に転がり落ちるのがはっきりと見えた。
大丈夫、まだそれほど加速はついていないはず。
言葉になる前の思考で直感しながら、駆け寄って子供を抱きかかえる。
ふっと振り向くと、もう数歩ほどの距離にトラックの無愛想なヘッドライトが迫っていた。時間が間延びする不思議な感覚。
反対車線にダッシュ――子供を抱き上げて足に力を込めたところで轢かれる。
歩道の方が近い――これもダメ。手すりを乗り越える余裕まではない。
二人一緒では。子供だけなら――? 手すりの上から何とかなる。
脳裏をフラッシュライトのようにほんの少し先の未来が飛び交い、そのうちの一つを選び取る。
抱き上げる、というよりも放り投げるような感じで子供を歩道へと下ろす。
その勢いで自分の身体も一緒に――とはいかなかった。
夏帆の身体だけが、その場に残る。後ろを振り向かずとも、すぐそこまでトラックが迫っているのがわかる。
魚眼レンズを通してみたような、歪んだ景色。
蒼い色がトラックと夏帆の間に割り込むように飛び込んでくる。
少し褪せたインディゴ・ブルー。アリエルの色。
『
初めて聞く、鋭く切り裂くようなアリエルの声。
アリエルの命令に従うように、トラックが反対車線の方へ方向転換。
誰もいない運転席のハンドルがひとりでに回っているのが見える。
ふわりと反対側のタイヤが持ち上がり、普段は見えない裏の部分が露わになっていく。
また、夏帆の中でいくつもの未来がトランプをシャッフルするようにめまぐるしく飛び交っていく。その中の一枚はアリエルが横転するトラックのタイヤに殴り倒される場面。
夏帆に少しよく似た、短めの髪。まるで違う二つの姿が重なり合う。
「お姉ちゃんっ!」
イメージのフラッシュがはじけ飛ぶ。
夏帆は無我夢中で、青色の背中を手前に強く引っ張った。厚めのデニム地越しにも、はっきりと伝わる暖かい鼓動。
終わってみれば、一瞬の出来事だった。
暖まったアスファルトの熱を背中に感じていると、青い空が目に飛び込んでくる。
「あ、飛行機雲」
「妹たち――なわけ無いか」
場違いなこと言ってるな。そう思っていると、すぐ隣でアリエルも転がったままで同じようにヘンなことを呟いていた。
ややあって、魔法が溶けたように時間の感覚が戻ってくる。
ものすごい勢いで泣いている男の子。
ちょっと怪我させちゃったかも。ゴメンね。
「夏帆っ! 誰でもいいから、救急車呼んで!」
頭の上から美紀の声が聞こえる。ちょっと涙声だ。
「夏目さん、アリエルさん! 私の声、聞こえてます大丈夫ですよね」
静香の声も半泣きだ。美紀よりはちょっと落ち着いてるかな。
急に周りが騒がしくなってきた。きっと、事故を見ていた大人たちが騒いでいるのだろう。
ゆっくりと身体を起こそうと、力を込める。夏帆の身体の動きに気づいたアリエルも、一緒に起き上がった。
「夏帆、動かないでいいから!」
「大丈夫。ちょっと転んだだけ。アリエル、怪我してないよね? お姉ちゃんは?」
何かヘンだ。急に怖くなってきた。
自分の一部がすっぱりと切り取られるような喪失感。
「美紀、お姉ちゃんは!」
「夏帆、落ち着いてって。お姉ちゃん? アリエルさんのこと?」
「違うよ! アリエルは大丈夫なのわかってる。お姉ちゃん……? あれ? わたし、お姉ちゃんなんて居ないよね?」
上半身を起こして、座り込んだまま夏帆は首を捻った。夏帆の姉弟は弟が一人いるだけだ。
どこから、お姉ちゃんなんて言葉を思いついたんだろう。
ちょっとした記憶の混乱だろうか。
なのに、なんだろう。この心細さは。
道路が溶けて呑み込まれてしまいそうな不安定な気持ち。隣を見ると、アリエルが胡座をかいて、胸ポケットからタバコを取り出していた。
バツが悪そうな顔で、そのままタバコのケースを胸ポケットに押し戻す。それだけで、なぜかすごく安心する。
「いいよ。吸っても」
「ホント?」
「一本だけなら」
アリエルの顔を見て、急に現実感が戻ってくる。
勝手に動き出したトラックに轢かれそうになった男の子。助けようとしたけど、自分で思うほどにはうまくいかなくて、アリエルが助けてくれた――
「あの子、大丈夫だった!?」
「夏帆、急に動いたらダメだって。大丈夫、ちょっと擦りむいたみたいだけど、元気だよ。ほら」
美紀が指さす先で、女の人が泣いている子供をあやしていた。夏帆が起き上がったのを見て、安心したのだろうか。おずおずと近づいてくる。
「あの、ありがとうございます。お怪我、大丈夫でしたか?」
「わたしなら大丈夫です。あと、アリエル……?」
「ん。全然平気。もう一本吸ったら、もっと平気なんだけど」
「ダメ。アリエルは吸い過ぎ。えっと、わたしたちなら大丈夫です。あの、子供さん怪我してたりしてませんか? わたし、何も考えないで乱暴なことしちゃって」
笑いながら答える夏帆に、まだ若い母親は涙ぐんだままでさっきまで子供が遊んでいたあたりに顔を向けた。
一緒になって夏帆も見てみると、トラックが掠めていたらしく手すりが大きく歪んでいる。
黒々としたタイヤの跡をたどって視線を移動させていくと、トラックが横転して煤だらけのお腹をさらけ出していた。
足下にはぶちまけたような細かい透明な粒。
なんとなしにいくつか拾ってみて、初めて砕けた窓ガラスの成れの果てだと理解した。
「うあ。すごいことになってる」
「うわ、じゃないよ。とにかく、病院に行くまで大人しくしてて。アリエルさんも、本当に本当に大丈夫ですか?」
静香の声が二種類のサイレンの音にかき消される。
一つはパトカーで、もう一つはたぶん救急車。ばたばたと急に慌ただしくなって、白いヘルメットを被った人が話しかけてくる。
「君、名前は? これ、何本?」
「あ、はい。夏目夏帆です。えっと、三本」
そんな感じで受け答えしている間に、あれよあれよと救急車に乗せられる。
念のために精密検査を受けなくてはいけないらしい。そんな大げさな、と思うけど二人の顔を見ていると、断るのも何だか悪い気がする。
夏帆はアリエルと顔を見合わせて、苦笑いを浮かべた。
笑いながら、夏帆はアリエルが垣間見せた不思議な魔法のことを思い出していた。トラックはまるで王様の命令に従うように、アリエルの声に従ったように見えた。
いや、女王か。
そして、居るはずのない姉のこと。
勘違いというには、あまりにも確かな幻影だった。あれは何だったんだろう。綺麗に重なった二つの記憶の端っこがほころんでいるような、そんな感覚。
「お姉ちゃん、か」
誰にも聞こえないように、夏帆はもう一度呟いてみた。
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ちょっとしたアクシデントが起こり、少し不思議なことが起こりました。
次回 第12話 冒険の後始末
明日の13時30分過ぎに更新予定です。
少しでも気に入っていただければ、嬉しいです。
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