第五章(上)

 翌朝の寮内。陽子と鬼越の部屋。

 陽子が朝起きて洗顔の後にシャワーを浴びて部屋に戻ってきた。本日は部活動もあり寝過ごすような時間帯でもないので、インナーは陸上用のレーシングウェアである。朝シャン後はこの格好のまま部屋に戻るのだが、最初は目撃された寮生にはぎょっとされたが今は何もいわれない。

 中では鬼越が着替えの途中で上半身がワイシャツ姿、次に身に付けるスカートを取り出している処。

「かわいい」

 スカートを穿く直前に遭遇した陽子は、下着が白地に黄色のストライプが描かれものだったのでついそんな言葉が口を出た。

「なんだ見つかってしまったか」

 鬼越は無防備な姿を隠すように手早くスカートを身に付けた。

「小僧たちからの贈呈品だからな。せっかくの行為を無駄にしてしまっては義に反する」

 陽子は「鬼さんは律儀だねぇ」と苦笑しながら自分も制服を出して身に付け始めた。


「あの川面の上を走っている機械は何だ?」

 通学路になっている川沿いの道を歩いている鬼越が、水面の方を見ながら隣の陽子に訊いた。鬼越は制服の上にいつものパーカーを着ているがフードは被っていない。隣を狼女が歩いている時はそこまでカモフラージュしても仕方ないと気付いたらしい。

「ん? あー、あれは水保の戦車だよ」

 鬼越の視線の先に、車体の半分を水没させて川面を航走する物体を発見した陽子が説明する。

「すいほのせんしゃ?」

 しかし陽子の簡素な説明だけでは分らない鬼越がオウム返しに更に訊き帰す。

「ごめんごめん、正確にいうと水上保安庁の水陸両用戦車だね、あれは」

「というとあれが『かいじん』とやらを倒していった駆逐兵器か」

 鉄車怪人掃討のために陸を走ってきた処は、鬼越も初弾命中の後に素早く人波の後ろに隠れたので確認しているが、水面を走る姿はまた違った雰囲気だったので同一のものとは気づかなかった。

「そうそう」

 陽子が詳しく説明する。

 今から15年前にこの国は鉄車帝国の侵略を受け、それに対抗するように現れたチャリオットスコードロンの戦いの舞台となってしまったのだが、その戦いが終結した後も様々なものが残されてしまった。

 大型河川に出没する水の魔物と呼ばれる異の存在も、その時の負の遺産の一つである。鉄車帝国が繰り出した超巨大水陸両用戦車型怪人が戦闘に破れて首都内湾内に水没したのだが、その影響で首都内湾、同沿岸部鉄岸周辺、同河川水系に妖しげな魔的存在が出没するようになったといわれている。そしてそれは水の魔物と呼称された。

 それらを巡視、駆逐するための組織として作られたのが水上保安庁である。そして今二人が見ているのがその水保の主要装備である水陸両用戦車だ。

 なぜ水陸両用戦車であるかというと、水の魔物との駆逐戦となった場合、河川敷に乗り上げての戦闘になることが多いのと、活動領域が首都内湾内と沿岸部、そして沿岸部鉄岸を乗り越えた河川のみであるので、船舶よりも小型である戦車の方が行動に適しているという理由。

 そして時折現れる鉄車帝国兵が変身する鉄車怪人への対応もこの組織の任務のひとつである。

 川面を巡回する水陸両用戦車の砲塔ハッチは開かれていて、戦車長が顔を覗かせていた。

「水保の戦車というものは女でも乗れるものなのだな」

 顔を出して直視による警戒を行っている戦車長が髪の長い女性だったのに気付いた鬼越が再び訊いた。

「あの人、多分この前怪人をやっつけてくれた戦車の人だよ」

 遠くに見える顔が、四日前の戦闘で怪人に止めを差した戦車の砲搭上にいた女性と同じ顔であるのが陽子には分かった。多分彼女の戦車はこの地域が担当場所なのだろう。

「水保っていうのはこの国にある軍隊の最後に出来た組織で、しかもほとんどの装備車両が水陸両用戦車だから、普通の戦車乗りになりたい男の人は陸保とかに行っちゃうんで、結果的に女ばっかりの組織になってしまったって何かに書いてあったね。中学の教科書だったっけか」

 陽子が記憶を頼りに説明する。

「女ばかりの組織とは我らにとっても好都合だな。二人とも鬼と狼である前に女であるし」

「この先就職先に困ったら二人で水保に行く?」

「お前はその出っ張った顔でガスマスクとか着けられるのか?」

「そんなこといったらミユキ女史はヘルメットとか被れるんですかい?」

「……」

「……」

 二人とも「口やら耳やら尻尾が車内でぶつかりまくっている狼女」や「角が車内配線に引っかかって右往左往している鬼女」の姿が想像できてしまった。

「……保留だな」

「……それがいいと思う」

 のんびり川を下る水保の水陸両用戦車を遠くに見ながら、二人は「ぶふぁー」と盛大に溜め息を吐いた。

「そういえば、この前はヒトミちゃんが捕まっちゃったけど、鉄車怪人って良く子供とか若い女性とかそういう弱い人たちを人質に取るんだよ」

「中々卑怯なやり方だな」

「うん。で、この前はボクとミユキで何とかしちゃったけど、本来はそんな風に戦車の発砲前に人質に取られちゃった人を助けるための白兵部隊の人たちっているんだよね。数は少ないけれど」

 戦車が砲撃に入る前に、救出任務を行う担当部署があることを陽子が教える。

「なるほど、外へ出ての腕力かいなぢから勝負の仕事もあるのだな。それならばアタシらにもできそうではないか」

「うーん、でもボクは辞退かな」

「辞退?」

 お前にも似合いの仕事ではないのか? といった風に当惑の表情になる鬼越。

「ボクはとりあえず普通の女の子として生きていきたいと思ってるから。今やってる陸上を大人になっても続けられたらと思ってる」

 自らが普通から外れているというのに、水の魔物やら怪人やらを相手にする仕事になんか就いてしまったらますます普通ではなくなってしまう。

「お前の方から誘っておいてお前の方から辞退とは、お前も中々卑怯だな」

「……う~ん、めんぼくない」

「まぁアタシの場合は元々がトーマスホガラの探索で手一杯だからな。副業でも水上保安庁の仕事などやっておられまい」

「その話なんだけどさ、こういうことをボクの方からいうのも変なんだけど」

 高校への通学路を再び歩き出した陽子が、話を変えるように訊いた。

「なんだ?」

「ボク以上にトーマスホガラのことを知っていそうな狼人おおかみびとがあと二人いるんだけど、そっちの方には行くつもりはないの?」

「あと二人? ……ああ、お前の父上と母上か」

 まだ15年しか生きていない陽子に比べれば、はるかに長い時間を生きてきた両親が故郷の土地にはいる。自分よりも有益な情報を知っていそうな者の場所には行かないのだろうかと、陽子も単純な疑問として考えた。

「里の方からはお前が今いるこの町の方を指定されたのだ。お前の父母がより確実に情報を知っているならば、お前の実家のある土地の方をまずは探索場所として里も指定しているだろう。文献にも『この町に犬の化身が~』という一文が記されていたのをアタシも見ている」

「ああ……そういうこと」

 そう説明されて陽子もなんとなく得心がいった。

「……そうか、ボク自体も元々勘違いされてたんだっけ、犬の化身の人と」

 体育館裏に呼び出された鬼越との最初の接触を陽子は思い出した。

「じゃあこの町のどこかに本当の犬の化身の末裔の人がいるってこと?」

「それ以前に『狼人=犬の化身』であるのかどうかも調べなければならないからな。何れにしろお前の両親の尊顔を拝しに行くのは先の話だ」

「もしそれが現実になって、ともだち連れてきたよっていって現れたのがミユキだったらさすがに驚くだろうなぁうちの親も」

「お前を友だといって連れ帰ったら、里の者はもれなく全員腰を抜かすだろうな」

 陽子もそれを聞いて「ぷっ」と吹き出してしまった。お互い良くぞこんな不思議な生き物同士で知り合いになったものだ。

「もっとも、トーマスホガラの侵入を許してしまってからは外部の者を一切立ち入りさせないようになってしまったがな」

「……そうなんだ」

 鬼越自体が今回の探索において始めて里から出てきたような雰囲気なので、その逆もまた何者も入れさせない強固な規律となっているのだろう。何しろ一時はその蒸気侍の所為で壊滅状態になってしまったのだから、二の鉄を踏むことはあるまい。

「そういう意味じゃミユキってさ、外の人みたいにおしゃれな格好とか普通に出来てるけど、そういうのってどこで覚えるの?」

 しかしそうなると、鬼越が一応は里の外の世界でも自然に行動できているのが不思議になってくる。

「勉強した」

 鬼越はその陽子の疑問に答えてくれた。

「お前たちでいうところの中学生となる年齢から、外に出ても不自然にならないような行動や格好を勉強させられた、みっちりと」

「みっちりと?」

「ああ、完璧だろう?」

 と、どっからどう見ても繁華街を歩いている派手な女子高生にしか見えない鬼越が言う。ある意味違う意味で目立ちすぎだが、それが実は鬼越の鬼の部分を隠す効果が出ているのかも知れない。一応は成功しているようだがそれでもどこか抜けているように思えるのは、持って生まれた鬼の習性を捻じ曲げるのは容易くないからだろう。

「でもさぁ、元になる情報自体がないとそもそも勉強できないじゃん? そういうのはどうするの?」

「……」

 陽子が少し深く訊こうとすると相手は口を噤んでしまった。

「あ、ごめん、秘密なら秘密でもう訊かないけど」

「いや、お前は我らとは近しい存在だ。教えても里の害にはならんだろう」

「……良いの? もしもの時はボクたち敵同士になっちゃうかもなのに?」

「もしもの時をそのように心配してくれるお前だからこそ、教えても良いと判断するのだ」

 鬼越はそう前置くと説明を始めた。

「我らのような普通の人間からは少し外れている生き物とは他にもいる訳で、そのような者の中でも情報に長けている者から買う訳だ、必要な情報を。こちらが望むものを用意してくれる場合もある、高くつくが」

 そしてそのような者だけには普段は閉ざされている門を開くのだろう。

 閉鎖空間の中に存在するコロニーというのは鬼越の故郷である鬼の里以外の場所でも、完全な密閉状態にあるコロニーというのは意外に少ない。極一握りの外部の者にだけ交通手段が解放されていて、それによって必要最低限の物資の供給が行われている場合が殆どである(そうでないならば完全閉鎖空間に住む者たちは石器時代となんら変わらない生活をしている筈である)

「……」

 陽子は鬼越の説明を聞いていてそのような買い物に必要な金銭の類はどうするのだろうと思ったが、直ぐに思いついたのでそれ以上は口にしなかった。

 鬼という種族は戦いの種族だ。どこかに傭兵として出向いて稼いでくるのだろう。そして多分それは人間同士以外の戦いで必要とされる戦力のはず。だから歴史の表にも出てこないし、鬼たちも里の外に余計な情報を出さずに済むし、戦いに行く者以外は里から出ないで済む。

(自分も周りにも他に狼人がいっぱいいたらミユキの里と同じような生活になっていたんだろうなぁ)

 幸か不幸か自分には家族しか同じ血筋はいなかったので、子供の頃から他の普通の人間の子たちに混じって生活している。もし自分たち狼人が一つの村落を形成できるくらいに人数がいれば、鬼越の里の者のように男も女もその膂力を生かして傭兵家業に身を投じていたのかもしれない、歴史の裏に隠された戦いの要員として。

 そしてこんな都会の高校に進学しようなんて思わずに里の中でほとんどの時間を過ごし、外に出るのは稀に来る特殊な傭兵としてのみで。

(そういう意味ではトーマスホガラさんっていう人を討つって目的が無ければ、ミユキも里の外に出ることは無かったんだよね)

 そんな不思議な縁を思いながら自然な動きで陽子は鬼越の横顔を見た。

「どうした、アタシの顔になにか付着しているのか?」

 いきなり横から見つめられた鬼越が不信の声を上げる。

「いやなんでもない――っていうか、ミユキってばさ、うちの部に仮入部してみる気はない? 一応ミユキとは部活仲間ってことになってるからね」

 鬼越のことを見つめていたのがなんだか自分も恥ずかしくなってきた陽子が、そんな風に話を逸らした。

「うちの部? これのことか?」

 鬼越はそういうと陽子のスカートの裾を掴んで躊躇なく捲った。インナーのレーシングウェアが丸出しになる。

「めくっちゃだめ!?」

 陽子は慌てるように鬼越の手を払いつつスカートを押さえて元に戻す。

「めくられてもいいようにその陸上競技服を着ているのではないのか?」

「そうだけども! でもそういうわけでもないけども!」

「どちらなのだ?」

「どっちも!」

 インナーがユニフォームであるならば自らスカートをぱたぱたしたりめくったり脱いだりするのは構わないのだが、たとえ同じ状態とはいえども他人にされると凄まじく恥ずかしいのは陽子も変わらないようである。こんなミテクレだが基本的には普通のお嬢さんです。

「もう、スカートめくった罰でミユキは今日の仮入部は決定だからね!」

「本日は授業終了後は巫女から聞いた銃の奉納された神社まで足を伸ばそうと思っていたのだが」

「反論禁止!」


 同時刻、保育園。

「お遊戯会のあとは何かと忘れ物とか多くて大変ね」

 先日の日曜日、お遊戯会が行われた保育園の朝。

 その施設の特性上振り替え休日ということもなく、普通に朝から園は開いている。保育士たちも昨日は休日出勤手当てが出ているので、それほど文句もないだろう。

 本日月曜日は朝の時間帯から預かっている園児達の面倒を見ながら、お遊戯会終了後の片付けの時に回収した忘れ物や落し物の選別を行っていた。

 人が集まるイベントとなれば、ここぞとばかりにアクセサリーを付けまくって現れる女性などいるわけなので、その一部が何らかの動作で外れてしまってそのまま落し物と忘れ物へとなっていくのである。

「このシルバーのブローチとか結構高そうなのにねぇ、無くなって分らないものなのかしら?」

 昨日軽く仕分けておいた箱の中から白色に輝くアクセサリーを取り出しながら保育士の一人が首を捻る。

「普段付けないものだからこそ、いざ紛失するとどこで無くしたのか分らなくなるって聞いたことあるわ」

「じゃあ無くしたものに気付いて落とし主が園ここに尋ねてくるのは半年か一年後かってことに」

「そうなるわね」

 人の多く集まる場所にはそうして多くの忘れ物て・落し物が集まってきてしまうのである。公共の施設などはそのようなものは期間を決めてそれを過ぎたものは売却処分ということをしているが、こういった私設の保育園の場合は半永久的に保管である。そして保管している者もいつしか忘れてしまう。

 歴史を紐解けばこのような経緯で表舞台から消え去った重要な物品などいくらでもあるのだろう。

「さて、これでひと段落かしら」

 保育士の一人はそういうと、選別の終わった忘れ物の箱を先日のお遊戯会の準備で使ったカッターなどを入れた工作箱の隣に置いた。

「今日から園の庭の工事が入るのよね」

 もう一人の保育士が掃除用具を出しながら訊く。

「ええ、午前中に重機を入れるっていってましたね」

「ちょっとうるさくなるわね」

「まぁ三日くらいの辛抱ですし」

「いや、男の子たちの方が」

 小さい男の子といえば電車などと同じで重機車両も大好きである。先日はその重機の所為で怪人騒ぎへと巻き込まれたが、そんなことも忘れてきゃっきゃと騒ぐ声が耐えないだろう。なにしろこれから数日はそれが目の前で動いているのが見れるのだから。

「まぁ仕方ないですね。これにハル君の嘘つき騒動が続いていたら大変なことになってましたね」

「ほんと、ヨーコちゃんたちには感謝だわ」

 自分たちの知らないところで感謝の言葉を送られていた狼娘と鬼娘であった。

 実は二人とも就職先に困ったら保育士とか良いのかも知れない。


 同時刻、河川。

「――ずいぶん風変わりな学生が歩いているわね」

 砲塔上のハッチから上半身を出して周囲の警戒を行っていた戦車長が、河川沿いの道を歩く二人の女子高生を見ながらいった。

「風変わり? もしかしてその子ってば全身銀色じゃないですか?」

「銀色?」

 操縦手にそう指摘された戦車長は首にかけていた双眼鏡で改めて二人を見てみると、片方は確かに制服で隠れている以外は全身銀色な女の子だった。腰の後ろで揺れている一房の何かも銀色だ。

「確かに綺麗な銀髪。しかも全身」

「この近くの高校に通ってる狼人おおかみびとの女の子ですよ、多分その子は。というかこの前の戦闘の時に現場に居ませんでしたっけ?」

「へぇ、狼人」

 戦車長はそう一言答えると双眼鏡を下ろして周囲警戒に戻った。そういえば指摘されてみれば、四日前に一体の鉄車怪人を処理した時に、周りにいた住民の中で全身銀色で制服姿の女の子が居たなと戦車長は思い出した。状況終了後の後始末は遅れてやってきた陸保の部隊の方に任せてしまったので良く覚えていなかった。

「……あの、車長?」

「なによ?」

「もっと驚かないんですか? 相手は狼人間ですよ!? そんな何事もなかったかのように!?」

 戦車長のあまりにもスルーな対応に操縦手がたまらずに突っ込んだ。

「お前ね、私たちが相手をしているのを何だと思ってるの、水の魔物に鉄車怪人よ。そんな妖しすぎるのを毎日相手にしてるのに今さら『狼人間が出ました』っていわれて一々驚いていられないわよ」

「……確かに」

「でしょう」

(といいつつもその隣を歩いている物凄く派手な女の子の方には驚いてしまったのは内緒だけど)

 戦車長は心の中だけで本心を呟いた。

 狼人の娘の隣には、これまたド派手な女の子が歩いていた。金髪に全身真っ赤に日焼けした肢体。頭頂には一対のヘアアクセが着いているのも見えた。しかしそんな組み合わせでも下品さは無く、一瞬だけ見えた横顔は清楚な雰囲気すら感じさせるものだった。風変わりという感想はそんな彼女も含めてのものだったのだ。

「……」

「しかも今日は水の魔物レギュラーじゃなくて兵士イレギュラーの方の警戒ですからねぇ、『またか!』って感じで」

「そうね、こう連続して現れるなんて珍しいわね」

 下の操縦手が水の魔物という言葉から、今日の巡視目的の話に繋げてきた。

 15年前に鉄車帝国は壊滅という形で消え去ったのだが、それでも組織を構成していた全てのものをその時点で消滅させられたわけではなく、俗に前進基地と呼ばれる場所には帝国所属の一般兵士が多く駐屯しており、その生き残りが稀に現れるのである。

 しかも銃後に現れる兵士は、鉄車帝国怪人へと変身する能力を持っていたのだ。どんなテクノロジーでそのようなことが可能となったのかはいまだ不明である(しかも本拠地は壊滅しているのに、である)。そしてヒトミを襲った鉄車怪人もその中の一体だ。

 唯一の救いといえば、兵士から変身する怪人はかつてこの国を恐怖のどん底に陥れた本物の怪人(地上最強の個人戦力と呼ばれていた)ほどの力は無く、かなり簡易的な能力しか持ち得ないということである。本物は戦車砲の一撃で沈黙するようなヤワな相手ではない。

 だがそれでも脅威であるのは間違いなく、この国を守る軍の最優先警戒対象の一つに指定されている。

 今現在この川面を走る水保の水陸両用戦車はその目撃情報があったとして巡回を行っていた。


 同時刻、河川敷のどこか。

「……」

 砂浜の一つの岩陰から一人の男が周囲の様子を伺っていた。

 全身タイツに覆面という怪しすぎる格好。

 彼こそ、帝国崩壊後も活動を続ける鉄車帝国一般兵士の生き残りである。

 どこからともなくこの町に現れた彼の存在は、目撃した住民によりすぐさま陸保(陸上保安庁)へと通報され、それが沿岸部警備担当である水上保安庁へと連絡され、今現在水保所属の水陸両用戦車が東京湾内を走り回っているという状態である。

 しかし15年間もの間ずっと潜伏していたのが遂にバレた――というわけでもなく、元鉄車帝国所属一般兵士は、気付いた時にはこの国のどこかに放り出され、殆どの記憶も曖昧なまま、かすかに残った記憶を頼りに破壊活動を続ける……といった様相であるらしい。

 まだ見つかっていない秘密基地に生き残りの兵士が冷凍睡眠保存されていて、そこでは兵士の簡易型怪人への改造が行われていて、それが終わった者から順にこの国へと送り込まれている――とは予想されているが、推測の域を出ていない。怪人となって倒された兵士もその時の記憶が殆ど残っていないらしいので不明のままである。

 鉄車帝国がこの国への再侵攻を企てているのならば、怪人へと変身できる兵士がまとまった数が揃った時に一気に攻め入れば良いと考えられるが、それをしないのは、管理者がいなくなって無人となってしまった秘密基地に残されたコンピュータがプログラミングに従って自動的に行っているから、と考えられている。まるでこの国この世界がこのまま平和に溺れてしまいわないように投与されるカンフル剤のように。

 この秘密基地の発見も急務であるが「本当に秘密基地と呼ばれる施設が存在するのか?」という疑問も解消されていない(生き残りの兵士が現れるメカニズムに関しては予想でしかない)ので、殆ど進展の無いまま現在に至っている。

 現状では、一人ずつ現れる兵士の変身する簡易型鉄車怪人を、その都度駆逐するのが限度だ。

「……」

 記憶が曖昧なままの鉄車帝国兵士が、その本能に従って周囲警戒を行っている。

 一般兵士とはいってもその一人一人が一騎当千の力を持つ、凄まじい戦闘員であったりもする。その高い闘気に従って行動する彼らを、水保も陸保も対物センサーなどの光学機器で発見することができない。いくら優秀な索敵用の機械とはいえ、その感度を越えてしまえば探索は不可能である。彼らが見つかってしまうのは、本当にたまたま目視で見つけられた時だけなのだ。それだけ高い戦闘力を持つ。

 鉄車帝国はなぜこのような有能な人材(しかも下級兵士ですらこの戦力である)を集め得るに至ったのか。その力を土台としてもっと戦力を蓄えておけば一気にこの国この世界を制圧できただろうに、なぜ未成熟のまま帝国は侵攻を行ったのか。そして未成熟とはいっても凄まじい力を持った鉄車帝国を討ち滅ぼすことに成功したチャリオットスコードロンとは何者だったのか。

 多くの謎が残されたままこの国は平和な時間を進んでいる。

 そしてその平和な時間を少し汚そうとしている彼は、ある目的のものを探していた。

 彼は目を覚ました時に、兵士としての支給服である全身スーツのベルトの後ろに、一つの道具が差し込まれているのに気付いた。それは始めて見る機械だったが、その使い方はなぜか頭の中に入っていた。この機械を起動させるにはある触媒が必要なのもなぜか分った。そして彼は周囲の様子を伺いながら、見つからないように少しずつ移動を続け、その触媒を探していた。

 日が中天に昇りそこから徐々に下降を始めた時、一つの施設の庭に、ようやく目的のものを発見した。

 兵士がしばらく物陰から様子を伺っていると、今まで稼動していたそれは急に停止して、操縦席から男が降りてきた。休憩の為に下車した処であるらしい。

 完全に停止した目標を前に、彼はどう行動を起こそうかと考える。

 そして、時間が少し動いた後に、それは起こる。


 高等学校、放課後。

「さぁ行くよ」

 ホームルーム終了のチャイムが鳴り担任教師が退室した後の教室内。本日の全授業終了後のざわめきの中、狼人おおかみびとの女の子が嬉しそうに立ち上がる。

「……」

 そんな嬉しそうな陽子とは対照的に、沈んだ空気の赤鬼が一人。彼女はいつでもクールな雰囲気ではあるが今は少しその冷たさ加減が違う。

「ほら、ミユキも急いで!」

「……本日は授業終了後は巫女から聞いた銃の奉納された神社まで足を伸ばそうと思っていたのだが」

「なにそのコピペ台詞? 今さらなにいってんの! 仮入部届け出しちゃったでしょ!」

「……まぁそうなのだが」

 なぜ昼休みの時間帯の時、あんなにも素直に陸上部仮入部届けを出してしまったのだろうと、今さらながら述懐する。部活動は学生生活の一部であるという、里にいた時に学んだ高校生として不自然にならない為の行動で学んだ教えが頭のどこかにあったのだろう。

「……」

 鬼越がその本日の予定であった神社の場所を教えてくれた巫女の彼女 ミカ の方に悲しそうな瞳を向けると『まぁ今日は諦めね!』と、そんな笑顔で返されてしまった。

「はいはい、急ぐ急ぐ」

 陽子に半ば強引に引き摺られるようにして、鬼越も教室を出た。

「こんなに他のことで時間を潰していて良いのだろうか」

 仮入部という名の陸上部への強制参加となってしまった鬼越が廊下を歩きながら最後の抵抗のように言う。

「良いんじゃない? ミユキはとりあえず女子高生なんだからまずはそっちの方を優先しないと。一応ミユキとは部活仲間ってことになってるからね」

 ~♪と、頭から音符でも吹き出すような勢いで陽子が言う。自分と同じような存在が、自分が属する部で仮入部とはいえ一緒に活動するのが嬉しくてしょうがないのだろう。

「……こんなことなら高等学校になど入らぬ方が良かった」

 陽子が出す音符が頭にぽこぽこと当たりながらの、ボソリと出た鬼越の本音。

 鬼越が高校への潜入を選んだのは、学生服という多くの者が見に着けているいわゆる制服と呼ばれる物に自分も袖を通しておけば、あまり目立たないで行動できるだろうという考えに基づくものである。

 そして不思議なもので、彼女の奇抜すぎる容姿もその制服のおかげでそれほど目立っていない。やはり「制服=不特定多数」なのだろう。普通の人間の感覚からするとまずは着用している衣服に目が行く。

 その意味ではカモフラージュは成功しているのだが、学生服という制服を着ている者はもれなく学生であるので、学生であるならば学校生活を優先しなければならないのは仕方ない。

(世の中には帰宅部というものがあるらしいのだが、それには一体どうやって入部届けを出せばいいのだろう)

 里では教えてもらえなかった(そこまでの情報が無かった)帰宅するだけの部というのは、いったいどうすれば入れるのだろうと熟慮する鬼越であった。


 放課後の校庭の一角。走り高跳びの練習に望む列の中に鬼越の姿があった。もちろんその集団の中には陽子の姿もある。

「次、仮入部の生徒――鬼越さん、か。じゃあ次、鬼越!」

「はい」

 順番待ちをしていた鬼越は、呼ばれると静かに答えて前に出た。上下とも学校指定のジャージである。ジャージの中身は下着だけの様子。急に仮入部といわれたのでこれしかなかったらしいので、もしジャージの下がずれてしまったら園児たちからもらったプレゼントが覗いてしまうことになる。

 そんな見た目だけは初々しい仮入部生っぽくなっている鬼越は、一つ深呼吸をするとそのまま走り出した。

「はっ」

 小さく気合を入れて加速しながら跳び上がる。そして体を捻りながら目の前のバーを巻き込むようにして宙を翔ける。鬼越は上位者向けの結構な高さのバーのクリアに成功した。

「……今の高さをベリーロールで?」

 しかしてそのジャンプ方法を目撃していた全員が目を丸くした。

「――いえ、飛び方など良く分からないので、棒を跨ぐようにして跳んだだけなのですが」

 転がったマットから立ち上がりながら鬼越が、バーの横に立っている顧問にそう答える。その言葉に更に皆唖然となる。

「……えーと、犬飼」

「? はーい」

 並んで順番待ちをしていた陽子は突然呼ばれて顧問の下へと走った。陽子はいつも通りのレーシングウェアだ(制服を脱いだだけとも言う)。

「お前が連れてきた新人、跳び方とか全然分らないらしいから、お前が色々と教えてやってくれ」

「?」といった風に鬼越の方を見た後「あ、そういえば」と手をポンッと叩く陽子。

「ミユキなら普通に跳べるかと思って何もいわなかったけど、今のベリーロールって適当に跳んでのクリアだったんだ」

 陽子も陽子で鬼越の身体能力の高さはなんとなく分るので、なんでもないことのようにいうが、その言葉で他の者は更に開いた口が塞がらなくなる。

「よし、あそこの鉄棒のところで教えてあげるよ」

「すまんな」

 二人はそのまま校庭の隅にある三段並びの鉄棒の所へ走った。

「……なんかすんごい新人が来ちゃいましたね」

 思わず練習が止まってしまった空気に、女子陸上部の部長が顧問の下へ来てそう言う。

「彼女たちの前では絶対にいわないけどさ」

 鉄棒を前にして何ごとか話し合っている二人を遠くに見ながら顧問が言う。

「見た目も力もバケモノだよ、二人とも」

 一番低い鉄棒に腰の部分を当てて鬼越が背面跳びのポーズをするのを、横から支えながら陽子が教えていた。鬼越の体を両腕で支えて背面跳びのポーズのまま少し浮かせて、何ごとか伝えている。

「犬飼の方はまだ無意識に力をセーブしている部分があるけど、仮入部生の方にはそれは全くない。常に実戦仕様……そんな感じ」

 普通の人間からすると、あんな指導方法で背面跳びが身につくとは思えないが、彼女らにとってはそれで十分なのだろう。やり方さえ分れば後は身体能力で補ってしまう。

「犬飼にしてもこれからあの仮入部生から色々学んでいけば、今まで失敗していたバーの高さなんて軽く飛んでいけるようになる、間違いなく」

「じゃあ我が高校の陸上部は大会で優勝しまくりということに?」

「いや、普通の競技会には出してもらえなくな……いや、自分で気付いちゃうんじゃないのかな、自分は一般的な競技会には出てはいけないってことに」

 部長の言葉に顧問は少し悲しいトーンで答えた。

「そしてそのために生まれてきたんだろうしな、我々普通の人間では届かない、どこかとてつもなく高くて遠い場所へ行くために」

「……」

「普通の人間の枠組みには入りきらない彼女たちは、もうすぐいなくなってしまう、自らの意思で。普通ではない場所へ行くために」

 顧問が人生の先達であるからこそ分ることを部長に語っていると、練習(?)を終えた陽子と鬼越の二人が戻ってきた。

「もういいの?」

 隣にいた部長がさすがに訊いた。

「跳び方の術法に関しては理解できましたので」

「……じゃあ、さっそく跳んでみて」

 既に自分の指導力を超えた部分にいるであろう鬼越に対して、顧問はその力を惜しみなく発揮しろと指示を出した。

 鬼越は「はい」と小さく答えて、スタート位置に着く。そしてバーに向かってダッシュを決め、そのままの勢いで跳び上がり体を捻る。多少荒削りだが初めてとは思えない背面跳びを見せた。

「……」

 そして鬼越はバーの上を背中もお尻も10センチ以上の余裕を残して越えていった。それは陽子が日々挑戦する高さと同じくらい。

「すごーい! やっぱりやり方覚えたら直ぐに跳べちゃうね!」

 バーの横で見ていた陽子が鬼越の背面跳びに感嘆の声を上げる。しかしそうやって素直にはしゃいだ声を上げたのは陽子一人だった。

 ――普通の人間の枠組みには入りきらない彼女たちは、もうすぐいなくなってしまう、自らの意思で、普通ではない場所へ行くために――

 陽子以外の者の頭の中にはその言葉が響いていた。

「……」

 見事にバーをクリアしてマットに落ちた鬼越も、周りの空気の中からその言葉を感じ取っていた。

「よーし、ボクもがんばんなきゃーっ」

 しかして陽子一人だけが、普段通り。高飛び練習の順番待ちの中に、なんでもないことのように戻っていく。

 そしていつの日か気付くだろう、その時の何も知らない自分が、一番しあわせな時代だったということを。


「お前はまだ自分自身に持たされた力を、十割全て発揮しようとは思っていないのではないのか?」

 部活動の時間を終え、更衣室でシャワーと着替えを終えた鬼越が部室を出ながら言う。

「持たされた力?」

 同じようにシャワーと着替えを済ませた陽子が後に続く。部活終わりの陽子はただ寮に帰るだけなら普通の下着に着替えるのだが、本日は早朝に鬼越にスカートをめくられてしまったのが効いているのか、洗い立てのもう一着あるレーシングウェアを中に着ている。本能的防御が働いているらしい。鬼越に関しては昨日もらった下着のもう一種類の方である、黄色と濃いブルーの縞柄ショーツに穿き替えている。汗をかいてしまったので、とりあえず鞄の中に未開封のまま放り込んでいた贈呈品の一つに替えたらしい。

 ちなみに一人は新一年生、一人は仮入部員ということで、二人がシャワーを使ったのは最後。陽子に関しては特に抜け毛が酷いので、いつも一番最後にしてくださいとは部員全員にいってある。

 そうしてシャワー室と部室の軽い清掃を済ませて出てきた時に、陽子はそんな風に鬼越にいわれた。

「まだ普通でありたいと心のどこかで思っているのだろう、狼人おおかみびとであるのに」

 歩きながら、更に覆い被せるように鬼越が言う。

「ずいぶん厳しいこというね」

「アタシにフォスベリー・フロップというものを教えてくれた礼だ」

 鬼越が背面跳びを原初の言葉でいう。陽子に跳び方を教えられた時に軽く歴史的背景も説明されたのだろう。

「またきっついお礼だね」

 しかしそんなことを面と向かっていってくれるのは鬼越の他にはいないに違いない。その意味では他には変えがたい礼であろう、陽子にとっては。

「アタシは教えられたフォスベリー・フロップで跳んではいたが、なるほど両足の力を最大限に使うにはかなり有効な跳び方だが、その直前に跳んでいた自分なりの跳び方の方が自由だったし、もっと高く跳べるような気はした」

「……それは」

 確かに陽子も最初に跳んだ変形ベリーロールの方が、のびのびと跳んでいたようにも思う。そして鬼越はそれでクリアもしているのだ。

「型にはまった跳び方ではなく、お前自身もお前が跳びたいように跳べば更なる高さを跳べるのではないのか? わざわざ自分にフォスベリー・フロップという枷をはめて、無理やり『普通という自分』を演じていないか?」

「……」

 その言葉に受け答えが思いつかない状態で、陽子は今の自分を考える。

 鬼越が跳んでいくところを見た後に自分も跳んだとき、普段は使っていない筋肉が動いたような感じがしていた。いつもより伸びやかに飛べたような気がする。

 鬼越が跳んだ設定の高さよりも自分は高い高さを跳ぶので、結局いつものように尻尾が当たってしまってバーは落ちたが、それでもこんなにも気持ち良く跳べたのは始めての経験のような気がする。今日はやっぱりダメだったけど、明日から練習すればクリアできるのは確実に分かったような。

 それは無意識のうちにセーブしていた身体の枷が外れかかっているからだろう。今までは周りには普通の人間しかいないのだから、それに合わせて自分でも気づかないうちに力が加減されていた。

 しかし鬼越は背面跳びフォスベリー・フロップというもの自体で自分に枷をはめていると指摘する。

(……だってボクは普通の女の子として生きて普通の生活を送るのを望んでいるんだから)

 普通の世界の中で普通の女の子のように生きてきた自分。鬼越の登場によって、それが少し崩れた自分。

 鬼越の跳び方を目の当たりにして、体の方が勝手に学習してしまったのだろう。

 他の陸上部員は普通の人間であるから、陽子が無意識のうちに学び取れる要素というものは少ない。陸上競技とは素直に体力勝負で単純な力のせめぎ合いを極限まで争うものだからだ。

 だからこそ、普通の人間の限界を軽く超えてしまう鬼越がいたからこそ、それを見て知らずの内に学習してしまった今日の陽子は、いつもより身体能力が上がっていると感じたのだろう。

「自分に恐れているのだろう」

 鬼越が唐突に発した言葉に、陽子の心臓がどきりと跳ねる。

「……」

 あと少しバーの上を高く跳べるだけを望んでいたのに、このまま自分の身体能力が上がっていけば、もはや高飛びの棒など意味を成さなくなる。もうそれでは普通に陸上競技なんてやってられない。

「誰かが困っている時に、我らはこの拳一つ蹴り一つで何とかできるかもしれない力を持っている。それを忘れてはならん」

 鬼越がさらに言葉を重ねる。彼女は鬼として生まれてきたから正義の為に拳を振るうのは矜持に反する。しかし鬼は悪役であって悪人ではないことも分かっている。生まれながらにして悪人であるものなど存在し得ない。だから弱きものを守るために鬼もその強き力を振るう。陽子とヒトミを守ったように。

 強き者は弱き者を守れる力を持っている。それを正しく使うことは悪いことじゃない。そして狼人という亜人類である陽子はその力を持っている。

 陽子もその心根にある正義感に従ってヒトミのことを全力で助けた。それは自分の狼人としての身体能力の高さを信じてのこと。無意識の内では、陽子も普通の人間を越える生まれながらに持たされた力を使うのを躊躇しない。自分を異端の者として迫害する人間から脱出するには必要な力だから。

 陽子は後日、巫女ミカには「ボクみたいな普通の女の子じゃ全然敵わないよ」と、異常から通常への修正を行っている。意識的に無意識を解除しておかなければならないと、そう無意識に思ったからだ。

 普通以上の力を無意識に使うようになってしまったら、せっかく普通の中に溶け込めて生きていけている今の生活が壊れてしまうかもしれない。

 陽子にとってはそれが一番怖い。

「……」


『一旦寮に戻って今夜探索に出るための再準備をする』と告げて鬼越は寮に戻っていった。

 陽子は「もう少し涼んでから帰りたい」と告げ、寮への帰り道とは反対の道を歩いて行った。鬼越は「そうか」と一言だけ残し寮へと帰っていった。鬼越の性格からしてこういう場面では、特に何も詮索せず放っておいてくれるのはありがたかった。

「……」

 一人となった陽子は川沿いの道を歩きながら考えていた。

 鬼越と出会えたのは嬉しいけれど、鬼越と出会わなければ自分は普通でいられたかも知れない。

 でも鬼越という存在はただのきっかけに過ぎなかったのだろう。

 鬼越との出会いは崩落事故のようなものであるとは思った。誰しもが抱える普通の生活の中にある危険が、たまたま自分の目の前に飛び出してきただけだと。

 だがしかし、自分はたとえいきなり頭上に何かが降ってきても、それすらも跳んで避けて、体に当たったら大惨事が起こったという事実すら無かったことに出来るのではないのか。

 突発的な事故に巻き込まれるのすら回避できてしまうのであれば、それはもう普通じゃない。自分自身の身体能力は、このまま行けばその普通を超えてしまう。

 そしてその力が自分自身で制御できなくなったとしたら。超常の力を無意識に振るい始めたら。

「……」

 三叉路を歩いていると、道路の一箇所が光に包まれているのを見つけた。上を見上げると夕方間近の午後の光を受けたカーブミラーが、日の光を反射させ地面に落としていた。

「……」

 上から見下ろしている鏡を見ると、そこには制服以外銀色をしている女の子が写っている。自分自身に呆然とする表情で。

「……ボクは、修正できる領域にいるのかな、まだ普通の女の子として生きていける……」


 同時刻、保育園。

「うつせみのじゅつっ!」

 一人の園児がそういいながら、クッションに園児服を被せたもの壁に立て掛けるとその場から走り去って、ロッカーの陰に隠れた。

「うはー、にんじゅつにんじゅつ」

 その場にいた園児の数人が、その昼寝用のクッションに園児服を被せたものを軽く蹴ったり殴ったりする。

 当園ではこの空蝉の術ごっこが絶賛流行中だが、本日はそれに興じている者は半数に満たない。

 多くの園児たちは男の子も女の子も、ガラス戸の向こうで作業する作業用重機を見ている。

「……」

 そして多くの園児たちと同じように、ハルの瞳も庭に搬入された油圧ショベルへと釘付けになっていた。

 それは前に怪人に襲われた時に見た建設用の大型のものではなく、庭園などの造成用にコンパクトにまとめられた小型のものなのだが、それでも目の前で動く本物の重機の迫力からは目が離せない。閉ざされた硝子の向こうで起動する重機を歓声を上げながらみんなで見ている。

 もちろん子供であるから時間が経てば飽きてくるのは仕方なく、途中で空蝉の術ごっこに加わったり、疲れれば眠ってしまったりもするが、それでもしばらくすればまた園児たちが動く重機の前に集まってくるというローテーションでその日一日は過ぎていった。

 他の園児たちとの良好な関係を戻したハル(この年頃の子供たちなので諍いがあっても仲直りのきっかけがあれば直ぐに関係は戻る。そして彼には狼女と鬼女との接触とお遊戯会という二つの大きなきっかけがあった訳だ)もその中に混じって造園作業中の重機を眺めていたのだが、造園作業中の庭の向こうの垣根、さらにその先の道路の向こうの電柱の影に、真っ黒い人のようなものがこちらの様子を伺っているのが見えた。重機を始めとして様々な物に遮られているはずだが、たまたま開いていた垣根の隙間からそれが見えた。

 そしてハルはそれを本能的に危険だと感じた。前に怪人が現れた時に、重機の陰にスッと消えた人影と同じような気がした。

「せんせい! どうろのむこうにあやしいひとが!」

 後ろにいた保育士のエプロンを咄嗟に掴むとハルはそう叫んでいた。

「なーにハル君、嘘ついちゃだめでしょ? またヨーコちゃんとミユキちゃんに来てもらうわよ?」

 しかし保育士からはそんな風にあしらわれてしまった。陽子と鬼越に本当の狼少年のごとくこらしめられてから二日しか経っていないので、まだ懲りてないのか? と思われてしまっても仕方ない。

「ちがうんだよ! ほんとにあやしいひとが!」

「ハルー、そんなこといってるとヨーコちゃんとミユキちゃんがまたくるぞー」

「こんどはヨーコちゃんにたべられちゃうんじゃないのかー」

 園児たちからわははっと笑いが零れる。他の園児たちもハルの言葉を信用していない。

「……」

 正に狼少年の教訓をハルは肌で感じた。

 誰も自分ことを信用してくれない。しかもそれは他の誰の所為でもない、自分の所為だ。

「……」

 ハルは油圧ショベルの動きに興じる他の園児たちの輪を抜けて、そっと室内から出た。保育士も他のことをしていたのか抜け出したハルに気付かなかった。

「……」

 自分で確かめるしかない。

 自分のこの目で見て、その正体を確認して保育士にいえば、それで信用してもらえるはず。

 ハルはその一心で玄関に行き、外へ出るために下駄箱から靴を出して履いた。靴を履いている時、庭から聞こえていた騒音が停止したのをハルは知った。これは午前中に一回、お昼にも一回あった。油圧ショベルを運転士が降りて休憩しているに違いない。

 ハルは静かになった園から外へと出た。

「――!」

 ハルが外に出た瞬間、電柱の後ろで様子を伺っていた真っ黒い人のようなものが小走りに走ると、そのまま楽々と垣根を飛び越え、着地した瞬間に手に持った懐中電灯のような機械を停止した油圧ショベルへ向けて照射した。


 同時刻、保育園、庭。

「せんせいだれかにわにはいってきたよー?」

「え、にわには……庭に入ってきた、誰か?」

 油圧ショベルが休憩のために停止してもまだその車体を見ていた園児の一人が保育士に言う。保育士が造園業者の別の作業員が来たのかと庭を確認すると、全身タイツに覆面という怪しすぎる格好の男が油圧ショベルに近づいていく処だった。しかもそれは記録映像などにも残っている鉄車帝国兵士の姿だった。その時は覆面とタイツが破れていたが本物も見たばかりだ。

「!?」

 保育士が気付くのと同時に兵士は右腕を掲げると、手に持っていた懐中電灯型の道具を油圧ショベルに向けた。そしてそこから光が照射される。放たれた光に包まれた油圧ショベルは粒子化し、そのまま機械の中に吸い込まれる。そして完全に取り込んだ次の瞬間、兵士を中心にして爆発的な発光が起こった。

「まぶしーっ!」

 多くの園児たちがそう悲鳴を上げる。そうしてしばらくして光が収まると兵士がいた場所には、一人――いや、一体の異形のモノが立っていた。

 戦車と呼ばれる陸上戦闘車両が後部を下にして持ち上がったような異形。鉄車帝国怪人。

 つい先日遭遇したばかりだというのに、この保育園そのものに本物の怪人が本当に現れてしまった。

「みんな、先生から離れないで!」

 即座に危険を感じた保育士はガラス戸から後ずさりながら園のみんなを自分の背後に集めるようにした。園児たちも悲鳴を上げつつも保育士の背中に隠れる。二回目の遭遇からか保育士も園児たちも少しだけ冷静に動けている。

「なんだ……って、え!?」

 休憩から戻ってきた造園業者の作業員は、自分が扱っていた重機が無くなっていて、代わりに戦車が直立したような化け物が立っている事実に仰天した。

 しかし彼の驚きはそこで終わってしまう。怪人がおもむろに振り上げた指先の先端が作業員の体を少しだけこすった。しかしその少しだけでも手馴れの格闘技者の拳を越える威力があるので、彼は思いっきりふっ飛ばされ園を囲う垣根に叩きつけられた。そしてそのまま失神する。

「きゃーっ!?」

「しょべるのおじさんが!」

 その惨状に多くの悲鳴が上がる園の室内へと怪人は頭部を向けた。そして庭と室内を隔てるガラス戸へと腕を上げると、そのまま振り下ろした。

「みんな下がって!」

 次に一体なにが起こるのか直ぐに悟った保育士は、背後にかくまった園児たちを背中とお尻で押すように室内を後退する。その勢いで園児の何人かが倒れてしまうが構っていられない。倒れた園児も助かりたい一心でそのまま這いずって保育士に続く。

 そして次の瞬間、怪人はガラス戸を割り破ってそのままの勢いで室内に入ってきた。

「きゃーっ!?」

 園児たちの悲鳴が室内を満たす。その声を震わすように歩行する怪人が床を震動させる。

「……」

 子供たちを守る一心でなんとか自分は悲鳴を上げるのをこらえていた保育士だったが、その威容が迫ってきた瞬間膝が砕けた。二回目であっても怖いものは怖い。たまらず尻餅を突くと、園児たちも一緒に床に転んだ。

「……みんな、先生から離れちゃだめだよ」

 それでもなんとか勇気を振り絞り、できる限りの園児を腕を回して守ろうとする。保育士が囲いきれなかった子たちはその背中へとしがみついた。

『……』

 室内へと侵入を果たした怪人は、しかしそれ以上の行動は取ろうとせず、恐怖で動けなくなった人間達を上から睥睨するだけだった。

「もぉ! なんで保育園わたしたちばっかり襲うのよぉ!?」

 園児たちを必死に守る保育士が、立て続けに二回も自分達が襲われた事実に、遂に心からの叫びを上げた。

 怪人とはこのように園児などの弱者を簡易的な人質として取り、目標となる相手の行動を制限させて攻撃するというのを戦法の一つとしている。その状態では自分自身の行動もある程度制限されているが、そこは怪人特有の防御力の高さで補っている。だからその体の特性から来る習性のようなものなのだろう、幼稚園バスや幼稚園、保育園そのものを襲うのは。

 しかし母体である鉄車帝国は既に壊滅し、帝国の悲願を達成するために蹴散らす相手であったチャリオットスコードロンも姿を消しているという、本来の目標を失っている怪人は何を目的として動くのか。

 彼が行動を起こしたとしてもそれは騒乱でしかないのだが、それでも彼が行動を起こすのは帝国組織の一人の兵士として、そして怪人となった自分に対しての、悪の戦士としての矜持なのだろう。

 怪人と成り果てた兵士は、しかして何を待つ――?


 数分後、保育園から離れた道路。

「……んはぁ……はぁ……」

 ハルは夢中で走っていた。

 怪人となった兵士が庭から窓ガラスを割って中に侵入するのを見た時、ハルは本能的に跳び出していた。

(しらせなきゃ……だれかにしらせなきゃ)

 彼の頭の中には逃げるという気持ちは無かった。彼が逃げたいと思ったのなら、園に戻って保育士の側にいるのが彼の知りえるもっとも近い安全な場所である。もしくはその場で何もできず立ち尽くしていただろう。本当に怖い時は何もできずに固まってしまうものだ。

 しかし彼は走り出した。怪人出現を誰かに知らせるために。

 この数日で起こった激動が彼をほんの少しだけ大人にし、彼に勇気を与える原動力となっていた。

「はぁ……はぁ……」

 保育園と隣接する家屋のどれかに飛び込めば早急に助けは求められたのだろうが、先ほど保育士や園の仲間に信用してもらえなかった現状が、彼にその考えを起こさせなかった。その意味でも彼は少し大人になっていた。

 自分のことを信用してもらえる人に合わなきゃ、自分の話を聞いてもらえない。

 ハルはその一心で全く人の気配の無い道路をどこへともなく走っていた。

 しかし、その自分の話を信用してもらえる人とはいったい誰なのか。

 それも全く分らぬまま、園からかなり遠い場所へと走ってきてしまっていた。彼の年齢からしたら既に迷子の領域である。しかしそれでもハルは走り続けた。

「はぁ……はぁ……は」

 そしてとうとう全力疾走で力尽きたハルは膝をついた。

「……は、」

 しゃがんで少し落ち着いた彼は、辺りを見回してみた。全く見知らぬ場所にいた

「……」

 ハルの瞳にじわりと涙が滲む。

 自分は園の仲間も保育士も助けられず、こんな何も分らない場所で迷子になって、いったい何をやっているんだ。

 結局自分は誰にも信用されない狼少年で終わるのか。

 そんな絶望に打ちひしがれた彼の耳に――

「どうしたのハル君、こんなところで一人で?」

 聞き覚えのある女性の声。自分のことをたしなめ、そして励ましてくれたあの声が響いた。

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