第四章

「……日の光が眩しいな」

「……こんがり焼けてますよミユキさん」

「……元からだ」

 お互い何をいっているのか判らないまま、陽子と鬼越の二人は寮の玄関を出た。

 鬼の家系に生まれし鬼女が最悪の相手と称した相手、クッキー作り。

 女子高生二人して日曜の朝っぱらからこんなにもズタボロなのは、その相手と死に物狂いの激闘を繰り広げた結果である。

 夕食の片付けの終わった厨房を頼み込んで借りての作業だったが、とりあえず何度も何度も失敗して、どうにか食べられそうなものができたのが深夜三時過ぎであるのは覚えているのだが、滅茶クチャになってしまった厨房を片付け終った時には果たして今が何時かわからなぬまま二人とも泥のように眠りにつき、ついさっき起きて洗顔と入浴を音速マッハで済ませ寮を出て来たところである。その激闘の成果が入った包みを陽子が抱えている。

 そんなになるなら買ってきて済ませればいいのではないのかと思うが、二人の頭の中からその考えは戦いの最中に抜け落ちていた。負けられない戦いだったのだ。

「……?」

 というわけで同部屋だというのに、お互いが何を着ているのかすら今気づいたような状態なので、鬼越の着ている私服を陽子はようやく今の時点で改めて見た。

 鬼越は軽くプリントが施されたシャツの上に昨日と同じパーカーで、頭からフードを被っているのも同じ。下半身は身体の線にぴったりな七分丈のスキニーパンツを穿いている。足元は素足にサンダルである。

「へー、意外におしゃれー」

 さっぱりとしたおしゃれ着。そんな印象。

「……そうか?」

「目の保養ですなぁ~」

 スラリと背の高い鬼越には良く似合う組み合わせだ。見ていて気持ちいい。まぁ人によっては顔と手足首の赤い地肌をどう判断するかによりけりだが。

「……女同士で目の保養も無かろう」

「そう?」

「目の保養がしたければお前が同じ格好をして鏡でも見れば良いだろう。手足の長さはお互い変わらん」

「冬場とかだったら着れるけどね。それに毛の生えた手足は見飽きてしまって保養にならんよ」

 片や陽子はノースリーブのシャツに短パンと言う、ある意味開放的なおしゃれ着であるが、ある意味このままマラソンにも出れそうな格好ではある。履いているスニーカーサンダルがそれを増長している。鬼越と同じく素足。

 彼女の上着を横から見ると腕の通り穴から見せブラ的な物が覗いているので、一応ブラジャーはしている様子なのだが、良く見れば肩紐の無いタイプである。紐ですら暑いのか。胸当ての役目よりも汗取りとしての役目の方が重要な気がする。

「お前の方は地元の小学生のような姿だな、男子の」

「うわははは、ボクも自分で身だしなみチェックする時はいつもそう思ってるよ」

 鬼越の感想に陽子は笑って答えた。暑いのが苦手な自分にとってはこの時期はこれが一番楽な格好なのだから、そんな風にいわれても自分も笑うしかない。

「さぁ急ご急ご、お遊戯会始まっちゃう」

「そうだな」

 鬼越もここへ来て幾らかは乗り気になっている様子。


 保育園へと到着した陽子と鬼越が会場となる部屋(昨日ハルがこらしめられたあの部屋である)に入ると、部屋の中は二つに区切られており、手前の客席スペースには大人たちが既にひしめき合っていた。早朝には場所取り合戦があったのか、舞台前の良い席にはハンディカムを構えた数人の男性が、プロカメラマンのような厳しい顔をして陣取っている。部屋奥の半分である舞台スペースには、書き割りで作られた簡易的な舞台袖が両サイドに立てられて舞台作りが済まされていた。

 陽子と鬼越は邪魔にならないように最後列に静かに座った。客席とはいっても椅子は無く直接床へのベタ座りである。

「それではお遊戯会を開始しまーす」

 しばらくして、保育士の一人の言葉と共に部屋の電気の半分が消された。奥の舞台スペースとして空けられた場所だけ明るく残される。舞台の方にはダンボール製と思しき壁面だけの家が移動してきて中央で止まった。隣には木や岩も一緒に着いてきていて、それらは園児が扮しており丸くくり貫かれた部分から顔を覗かせていた。

『泣いた赤鬼』

 保育士が立てられたスタンドマイクに向かってタイトルを告げ、物語が始まった。

(……)

 鬼越は保育士が朗読するモノローグを聞きながら考えていた。

『とある山の中に、一人の赤鬼が住んでいました。赤鬼はずっと人間と仲良くなりたいと思っていました』

 自分たちが登場する昔話にはあまり興味が湧かないので、その物語もタイトルだけを知っていたようなものだった。しかも自分自身が赤鬼であるので「アタシが泣くか!」と反骨精神が震えるのもあって、内容などは全く知らないでいた。

『そこで「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておきました』

 保育士の朗読に合わせてダンボールの扉を開いて、赤い全身タイツに虎縞のパンツ、顔も赤く塗って角付き金髪カツラを被った園児の一人が立て札(に扮した園児)を持って出てきた。

 主役登場であり、その可愛らしい姿に小さく歓声が上がる。陽子もその姿が隣の鬼越をそのまま小さくしたような感じだったので「ぷっ」と小さく吹き出してしまっていた。大きな違いといえば園児の方は伝説どおり髪質をアフロにしているくらいか。

『しかし、人間たちは疑い、誰一人として赤鬼の家に遊びに来ることはありませんでした。赤鬼は非常に悲しみ、信用してもらえないことを悔しがり、終いには腹を立て、せっかく立てた立て札を引き抜いてしまいました』

 赤鬼の園児が腕組みをして家の前をうろうろし、しばらくすると足を踏み鳴らし癇癪を起こし、先ほど置いた立て札(に扮した園児)を再び掴んで家の中に放り込む。子供であるのでつたない部分はあるが、それなりにしっかりとした演技力だ。将来は役者志望の子供なのかもしれない。

『そんな一人悲しみに暮れていた頃、友達の青鬼が赤鬼の元を訪れます』

 そして朗読と共にもう一人の主人公である青鬼が現れるが

(小僧?)

 鬼の立場からしたらそれはあまりにも在り来たりな話なので眠くなってきていた鬼越が、そのブルーに彩られた姿を見て一気に目が覚めた。

 昨日保育士からの要請で指導を行った一人の園児が、先ほど登場した赤鬼と全く色違いの格好で登場している。

(え? ハル君が青鬼役だったの!?)

 陽子もその事実は知らなかったらしく小声で驚きを表している。

『赤鬼の話を聞いた青鬼はあることを考えた。それは――』

 保育士の朗読が途切れたタイミングで青鬼――ハルの台詞が入るのだろう。

「……」

 しかしハルの口からは何も出てこない。

「……」

 彼はそれでもなんとか声を出そうとして口をあけるのだが、昨日までは何も見ないでも全部暗唱できていた台詞が全く出てこない。

 確かに狼女と鬼女との遭遇は彼から邪気を全て取り去った。彼はごく普通の素直な園児に戻った。しかしあまりにも普通に戻りすぎてしまったため、これだけの大舞台での大役を果たせるだけの度胸までも取り去ってしまったらしい。

 突然停止してしまった舞台に客がざわつき始めた。多くの人の目が止まってしまった理由であろう青鬼役の子供を見る。これぐらいの年齢の子であれば人の目など気にしないで行動できるが、昨日の接触が彼を変えてしまっている。

 彼はその青い化粧の上からでも分るほどに青ざめていた。目も少しうつろで小さく震えていた。

 昨日までの自信に溢れた彼の姿はそこにはない。

(まさかハルくんが青鬼役だったなんて……第二の主役っていうか真の主役みたいなもんじゃない。こんなことならこらしめるのは先送りにしておいた方が良かったね)

 少しやりすぎてしまったように思う昨日のことを思い出して、隣の鬼越だけに聞こえる声で陽子が囁く。

(いや、それでは小僧のためにならん。他の小僧と小娘たちのためにもならん)

 鬼越も陽子にだけ聞こえる声で言う。

(増長したままでは調和の取れた舞台にはなりえない)

 事実、ハル以外の園児たちは100パーセントに近い演技を全員が発揮しているのだろう。主役の赤鬼も木や岩に扮した者も大道具を動かす者も、自分にまかされた最高の演技をしているように思う。

 これがハルの悪戯が続いていれば、もう少し暗い雰囲気の舞台となっていただろう。そしてハル一人だけが自信たっぷりに青鬼を演じているのを他の子たちは嫌味に感じていたはず。

 しかし今はそれは無い。ただ一人を除けば舞台はスムーズに進行している。だからその一人が頑張れれば。

(これは、鬼のお姉さんの出番かな、もう一度)

 陽子はそういうとなにごとかを鬼越に耳打ちした。

(……そんなことをして逆に迷惑がかからんか?)

(だいじょぶだいじょぶ。それにたまには)

 陽子は悪戯たっぷりな笑顔を見せてこういった。

(悪役がイイモノをやるのもいいでしょ?)

「……」

 ハルはまだ震えが止まらなかった。

 昨日はとんでもない一日だった。

 悔しいという気持ちを露ほどに思わないほどに、怖かった。

 バチが当たったのだ。園児の年齢でしかない彼は素直にそう思った。

 嘘をついてはいけませんと保育士の先生にもいわれていた。

 嘘をついたらバチが当たります。そうともいっていた。

 そして自分はバチを当てられた。

 あの時倒れてから再び目が覚めた時、狼と鬼の二人は消えていた。

 でも体の震えは止まらなかった。

 昨日行われた劇の最終練習の時も、今日の本番前に顔を青く塗られている時も、自分がどこにいて一体何をやるのかすら忘れるほどに震えていた。そして保育士の朗読から劇が始まり、自分の出番に来た時、体だけは本能的に反応した。書き割りから一歩前に出て舞台に出る。

「……」

 そしてハルの頭の中からは本当に何も無くなった。

 なぜ自分がここにいるのか。なぜ自分はこんな格好をしているのか。なぜ自分を多くの大人たちが見ているのか。全く分らない。

 それほどの衝撃だった。ハルの脳からこれだけの記憶を取り去るほどの力があった。

「……」

 どうしたんだ? あの子台詞忘れちゃったのかしら? 様々な声が聞こえてくる。しかしハルにはその言葉の意味することは分らない。自分自身がここにいる意味すら分らなくなっているのだから。

「……」

 しかしその時、観客のざわめきを全て吹き払うように一人の女性の声が部屋の中に響き渡った。


「ハル、がんばれ、鬼のお姉さんも応援しているぞ」


 囁き声ではない堂々とした女性――いや、女の子の声。

「――!?」

 急に名前を呼ばれて驚いたハルが声のした方を見ると、あの赤き鬼娘が観客席の一番後ろに座ってこっちを見ていた。

「……」

 ハルは驚きで目を丸くしてしまった。

 鬼が、応援してくれている。

 昨日自分のことをこらしめに現れた鬼が、今日は自分のことを応援しにきてくれている。

「狼のお姉ちゃんも応援するぞ! がんばれ!」

 そして隣には陽子もいる。園の仲間であるヒトミを助けてくれた優しいお姉さんだったけれど、やっぱり怖かった狼の女。そして鬼を連れてきたのもこの狼女だ。でも今は、彼女も自分のことを応援してくれている。彼女は最初の接触の時と同じように自分の味方に戻ってくれている。

 なんだろう……急に元気が出てきた。

 二人の応援の声を聞いたハルの頭の中に、一瞬にして現状を把握するための力が湧いてきた。今は劇の途中、そして自分は青鬼。この舞台のもう一人の主役。

 彼の記憶を奪うほどに影響を及ぼした力ならば、正の力として還元されれば同じだけの強い力を呼び起こせるはず。言霊に込められた強い力。それが、彼を元に戻す。

(……出来るな、ハル)

 鬼越はハルのその青い化粧の下の青いモノがスッと消えたのが見えたような気がした。

「……」

 もちろん、最後尾に座っていた人間が急に声を上げれば客席の者が気付かないわけがないので、他の観客がいっせいに二人の方へ振り向いた。

 赤鬼が座っていた。綺麗な金髪の赤銅色の肌をした女の子。鬼越はハルに声をかける際にフードを取っていた。これは鬼からの応援であると良く見せるためである。つまり鬼丸出しである。その角はヘアアクセで肌も焼いているのかも知れないが、これを赤鬼といわなくて何が赤鬼なのだといわんばかりの赤鬼である。唯一の違いといえば髪質がストレートなことだが、それをすっ飛ばしても赤鬼である。

 もちろん観客はその姿に度肝を抜かれたのだが、隣に以前からこの園の子達と仲良くしている狼娘を発見すると「あの女の子にはあんな感じの友達ができるのだろう」と、多くの観客はこの状況に納得した。「泣いた赤鬼」の劇をやるからせっかくなので赤鬼の友達を連れてきたのだろうと。そして陽子狼女という緩衝材が既にあったので、大騒ぎには発展することはなくそれも含めて「ハルくんを応援しよう」と陽子自身も提案したのだろう。

「みなさん、主役はボクたちじゃないですよ、舞台を見て!」

 その陽子に促され観客全員が再び舞台の方に目を向けると

「……」

 先程までとは全く違う雰囲気の青鬼がそこに立っていた。

 震えも止まり、化粧の下からも分った青ざめた表情も消えていた。そこはかとない自身も漂っている。

「……」

 ハルは大きく息を吸い込んだ。

 今まで敵だと思っていた存在が、急に味方になってくれた時、なんだか妙な安心感が沸いてくるものである。そしてそれはそのまま力へと変換されて――

「ぼくがにんげんのむらへでかけておおあばれをする! そこへきみがでてきてぼくをこらしめる! そうすればにんげんたちにもきみがやさしいおにだということがわかるだろう!」

 ハルは一気にそこまで言い切った。

 その長朗読の成功にどこからともなく拍手が上がる。劇の進行はストップするがそれもお遊戯会の醍醐味だ。それに元々ハルが黙ってしまって停止してしまった舞台だったのだ。それを取り戻すように拍手が打ち鳴らされ、鬼越も陽子も一緒になって手を叩く。

『――という策でした。これでは青鬼に申し訳ないと思う赤鬼でしたが、青鬼は強引に赤鬼を連れ、人間たちが住む村へと向かうのでした』

 ある程度拍手が収まったと判断すると、保育士は朗読を再開した。

 その後ようやくにして場面は転換し、人間の村の描写となる。赤鬼の家の扉に「村の家」と表札を貼って再利用するお遊戯会らしい展開に笑い声が漏れ、そうやって徐々に暖まってきた舞台の上を、逃げ惑う村人役の園児たちが走り回り、それを青鬼のハルが追いかける。

 そして赤鬼の登場。定められた空手の演舞のような戦いを赤鬼と青鬼は繰り広げ、急所に最後の一撃を食らった演技を見せた青鬼ハルが膝をつき、そのまま仰向けに倒れる。真に迫った良い演技だ。

『作戦は成功し、おかげで赤鬼は人間と仲良くなり、村人達は赤鬼の家に遊びに来るようになりました。人間の友達が出来た赤鬼は毎日毎日遊び続け、充実した毎日を送ります』

 保育士の朗読の後ろで再び舞台転換が行われる。ボール遊びをしている赤鬼と村人役の園児の後ろで、仰向けに倒れたままの青鬼が二人の園児によってそのままずるずる引っ張られて下手側の舞台袖に回収される姿が再び笑いを誘った。

『だけど、赤鬼には一つ気になることがありました。それは、親友である青鬼があれから一度も遊びに来ないことでした。いま村人と仲良く暮らせているのは青鬼のおかげなので、赤鬼は近況報告もかねて青鬼の家を訪ねることにしました。しかし、青鬼の家の戸は固く締まっていて、戸の脇に貼り紙が貼ってありました』

 そして最後の舞台転換が行われ、家の表札が「村の家」から「青鬼の家」に取り替えられ、その隣に新しく貼られた手紙に主人公の赤鬼がそれを見入るシーンになる。

 舞台の下手の方の電気が落とされその舞台袖脇に青鬼が姿を見せた。彼にスポットライト代わりの大型ランプの光が当てられる。彼はもうここにはいない。それは赤鬼の記憶の中の姿。

『「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。ぼくはどこまでも君の友達です」という青鬼からの置手紙でした』

 朗読が終わると同時に青鬼は静かに後ろに下がって舞台袖へと消えた。彼を照らしていた光も消える。もうそれだけで何人もの女性客が涙を見せていた。

『赤鬼は黙ってそれを2度も3度も読み上げ、涙を流しました。その後、赤鬼が青鬼と再会することはありませんでした』

 最後の朗読が終了すると赤鬼は振り向き舞台中央に来ると、客席に向かって叫んだ。

「あおおにー!!!」

 そこで舞台の照明が全て消え

『おしまい』

 という保育士の最後の言葉で締めくくられた。

 その瞬間、会場内が万雷の拍手と歓声に包まれた。女性客の嗚咽も複数混じる。

 再び舞台に電気が点り舞台袖や通路の奥に隠れていた園児たちが集まってくる。中央には主役である赤鬼と青鬼。

 そして全員揃って「ありがとうございました!」の挨拶で、更に大きな拍手に包まれた。

「……」

 しかし生まれてこの方ずっと鬼をやっている鬼本人はとても冷静な瞳で、その舞台の終わりを見ていた。

「一人の鬼を生かしたければ、もう一人の鬼が犠牲にならなければならないのだな」

 拍手と歓声に包まれる中を辛うじて聞こえてきた彼女の心からの言葉を、陽子は聞いた。

「……」


「みんな、今日は良くがんばったね!」

 今日集まった多くの観客が軽い保護者会があるとかでほぼ全員が一時的に席を外している中、唯一の一般観覧者であろう陽子と鬼越の二人が、舞台終了の興奮冷めやらぬままきゃっきゃと騒いでいる園児たちの下へ来た。

 周りでは保育士たちが舞台セットなどの片付けをしている。大道具係の園児もいるが、基本的には舞台中の道具の移動ぐらいしかできず(青鬼役のハルを引っ張って行ったのも大道具係である)用意制作片付けなどは全部保育士の仕事である。

「わー、よーこちゃんとみゆきちゃんだー」

 園児たちが二人の下にぱたぱたと集まってくる。鬼越の方も保育士から名前を教えてもらったのかちゃん付けである。

 陽子の周りに集まってきた子たちが「うぃーっ」「うぃーっ」とやり始め、誰かが尻尾を掴み「こら! ダメだっていってるでしょ!」と注意する光景がここでも繰り返される。

「……アタシの記憶違いでなければそれは狐と牛なのではないのか?」

 同じように「うぃーっ」とやり返している陽子に鬼越が突っ込みを入れる。

「うん、手はキツネで掛け声はウシだねぇ、ボクは狼なのに」

 空いている片手で尻尾を掴んでいる園児の頭を鷲掴みでグリグリした後に引き剥がしながら陽子が説明する。

「一つもあってないな」

「でもそれがこの園のヨーコちゃんスタイルですから」

 あははと笑いながら陽子が何気なく遠くを見ると、青鬼の格好のままの園児が一人遠巻きに見ているのに気付いた。

「どうしたのハル君、来ないの?」

 陽子が彼の名を呼ぶ。

「……」

 しかし呼ばれてもハルは動けない。

(やっぱり昨日の件で嫌われちゃったかな)

 さっきは自分と鬼越の応援で力を取り戻せたように見えたが、それも一時的なものだったのかと陽子も悲しくなってしまう。

「……」

 しかしハルは陽子も鬼越も嫌いにはなっていない。彼の中の二人に対する恐怖は完全に消え去ってはいないが、それは同じ人間であるならば目上の人間に対する尊敬に近いものであろう。彼は他の子達よりも早く、少しだけ大人としての経験をしたのだ。

 だから彼は怖くて近寄れないというよりは、自分なんかが一緒にいて良いのだろうかという気持ちの方が大きかった。

「どうしたハル、お前は来ないのか?」

 そんなハルに今度は鬼越が声をかけた。自分自身こんな行動に出るのはらしくないなと思いながら、ちゃんと頑張った者を褒めるのも先に生まれた者の義務であろうと思うので、彼を招いた。

「……」

 その言葉がハルの背中を押してくれたのか、彼は恐る恐る一歩を踏み出した。

「……」

 彼が少しずつ進むたびに、園児たちの垣根が開いていく。出来たその道の奥で鬼越が片膝を突いてしゃがんでいた。

「……うそついてごめんなさい」

 なんとか鬼越の前へと辿り着いた青鬼がペコリと頭を下げた。

「お前のその素直な姿、我が里の鬼どもにも見せてやりたいものだ」

 鬼越はそういってハルの頭をもじゃもじゃのカツラ越しに撫でた。

「ちゃんと心から謝れるとは小僧はおとこだな」

「……」

 頭をもみくちゃにされているハルは、嬉しいやらくすぐったいやらでじっとしているしかない。

「ほらそこでご褒美におでこにちゅっとか」

「そんなはずかしいことできるかーっ!」

 陽子からの揶揄に鬼越がフルパワーで突っ込む。その余波でハルの頭を陽子がするように思いっきりグリグリ掴んでしまったが鬼越は気付いていない。ハルだけが痛い褒美に我慢している。

「それにお前も当事者なんだからお前がしてやればいいだろう!」

「ボクがそういうことをすると『食べられるー』って多分みんな逃げちゃうよ」

「……まぁいい、褒賞ならちゃんと用意してあるだろう」

「そうだったね。はい、今日は鬼のお話の日だったんだから鬼さんの方から渡してあげて」

「……了解した」

 鬼越は手渡された紙袋を開き、中のものを「皆に贈呈品がある」と一つずつ手前の園児から渡していく。

 それをもらった園児たちは、最初は「わーい」と歓声を上げるが

「???」

 と、もらった者の頭の上にもれなくクエッションマークが浮かび上がる。

「なにこれようがん?」

 ある女の子はそれをマグマが凝固したものと形容する。もらった物の正体が全く分らない。

 一応は透明な袋に入れて可愛くラッピング(この辺りは陽子の裁縫の技術が生かされているらしい)されてはいるのだが、それでも隠し切れない激闘の爪痕が丸出しである。

「わかったいんせきだ!」

 ある男の子はそれを天から降ってきた岩石だと形容する。

「これよーこちゃんとみゆきちゃんがたおしたてきのかけら?」

 仕舞いにはそんな意見まで出てくる始末。いや、ある意味それが正解でもあるのだが。

「――……クッキーだ」

「くっきーっ!?」

 鬼越が申し訳なさそうにそのお菓子(?)の名を告げると、陽子以外の全員が異口同音で驚きの声を上げた。

「……金剛石並みの硬度になってしまったが、食べれぬものではない。口の中に含んでしばらく溶かしてから食べてくれ」

 とりあえず「はい、ほら」と紙袋から一つずつ出して一人一人に渡すが、もらった男の子の数人がぶーんどどどどどとそのクッキー(?)で遊び始めてしまったが「食べ物で遊んじゃいけません!」とはいえない雰囲気をこのクッキー(?)は醸し出している。これを鬼越と一緒に作った陽子は、以前ちゃんと食べられるフルーツクッキーを作っていたような気もするのだが、あの時は他にちゃんと料理が作れる人が周りにいっぱいいたわけで。

「そうだー、みゆきちゃんにもちゃんとぷれぜんとあるよー」

 もちろんクッキー(?)をもらっている園児の一人であるヒトミが壁際まで行くと、そこに置いてあった可愛く包装された紙包みを持ってきた。

「はい、はるくんがわたして」

 そういいながら、自分ももらったクッキー(?)を大事そうに抱えているハルに渡した。ヒトミは園児の中でも陽子と同じくらい気の利く女の子のようだ。まぁ女子は男よりもよっぽど大人としての成長が早いというし。

「み、みゆき、ちゃん……これ」

 そうして恥ずかしがる幼い少年(青鬼)の手から赤鬼な娘へと手渡される。

「ありがとう」

 自分のことをみんなと同じように恐る恐るちゃん付けで呼ぶハルの姿が微笑ましくて、鬼越は小さく笑った。故郷の里にいる子鬼の誰かがくれたように思えて少し嬉しい。

「……」

 そのかすかな笑顔を見て、ハルが固まる。鬼越は怖い顔をしているとはいっても、綺麗な顔立ちであるのは確かだ。怒気の全く無い微笑の鬼越に見つめられて、ハルは赤くなってしまった。

「あけてもいいか?」

「……うん」

 鬼越が包みを開くと、白地にオレンジ色の縞模様とか、黄色と濃いブルーの縞々など、透明なビニールで包装された布がいくつか出てきた。

「?」

 包装の中で畳まれているので開くとなんの形になるのかはパッと見は分らないのだが

「縞パンだねぇ?」

 上から覗き込んで包みの中身がなんとなく推測できた陽子がそう称した。畳まれた状態の下着であるらしい。しかも全部縞柄であるらしい。

「……これはなんだ?」

「おにのぱんつ!」

 鬼越の改めての問いにハルの後ろにいた女の子の数人が声を合わせて答えた。

「きのうね、おにのおねえちゃんになにをあげたらいいかなってみんなとはなしたんだけど、だったらおにのぱんつだってすぐにきまったの!」

 それを聞いて陽子は思いっきり吹き出してしまった。

「そうだよね、ミユキは縞パン穿かないといけないよね、家系的に」

 陽子はおかしくてしょうがなく、腹を押さえてぷるぷる震えている。

「……ああいうのは虎縞、もしくは虎柄というのだが?」

「でも縞パンなのは確かじゃん」

「……こういうのはどこで売っているものなんだ?」

 いいたいことは山ほどある鬼越だが、せっかく用意してもらったプレゼントの詳細を訊かなければ礼に反すると、話を園児たちの方に振った。

「ひゃくえんしょっぷ!」

 女の子の一人が元気に答える。今日日の百円均一ショップ(税抜き価格)にはこんなものまで売っているらしい。

「おゆうぎかいがはじまるまえに、おんなのこたちとせんせいでかいにいってきたんだよ」

「ほら、ちゃんと園児のみんなで選んでくれたんじゃん、ちゃんと穿かなきゃ」

「せっかくの贈呈物を着用すること自体はやぶさかではないがな!」

 陽子の突っ込みに鬼越の全力の返し。

「それにしても男性から下着のプレゼントだなんて二人はもうそんなに親密な関係なんだね、隅に置けないなぁ」

「まったくだな」

 陽子の再びの揶揄に鬼越は棒読みで答える。ある意味ハルとは親密な関係になってしまったので否定できないのも悔しい。

「こんどよーこちゃんにもぷれぜんとあげるねー」

 一人の女の子がそんな提案をする。

「え? ボク? いいよ別に」

 鬼越へのプレゼントは鬼越をここに来させるための方便でしかなったので自分が貰うのは何か申し訳ない。

「そうおー?」

「う~ん、でもくれるっていうなら、食べ物がいいかな?」

 しかし子供たちの提案を無碍には出来ないと、陽子はそんな風にいう。食物であれば二人が用意したクッキー(?)や鬼越に用意した下着のように園児でも手の届く簡単なもので済ませられるだろう。

「たべもの? じゃあうしまるごといっとうとか?」

 しかし子供たちの感性は陽子の予想をはるかに超えていた。まぁ陽子が子供たちにキスしようと迫ったら「食べられる!?」と逃げ惑うのは確実なようだから、それぐらい大きな予想になってしまうのだろう。陽子も隣りの鬼越も思いっきり吹き出してしまった。

「牛丸ごと一頭って……まぁ食べ切れないことも無いけどさ、そもそも牛丸ごと一頭って売ってないでしょこの辺」

 じゃあ陽子の住んでた地域では売っているのかというと――売っているのだろう多分。

「みゆきちゃんこんどそれはいてるとこみせてよー」

 今度は別の一人の女の子が鬼越にとんでもない申し出に出た。それを聞いてハルが更に頬を赤くする。

「無理だな」

「なんでー?」

「女相手なら見せても構わないかも知れないが、ここには男もいるだろう? 女だけに見せては公平にならない」

「よーこちゃんはおとこのこのまえでもすかーとぱたぱたさせてたよー」

 怪人からヒトミを救出したあの日、ヒトミを暑さで目を回させてしまったが自分も相当暑くなったらしく、園児の前でスカートをパタパタさせていた事実を女の子の一人が告げる。

 それを聞いた瞬間、立ち上がった鬼越の手刀が陽子の脳天にごすっと食らわされた。

「あいたーっ」

「犬飼ーっ!? おまえなにやってんだーっ!?」

「い、いや、園児たちの前なら良いかと……暑くてどうしょうもなくて」

 頭をさすりつつの言い訳。

「そんなところで灼熱の犬飼さんを発揮するな! この駄犬だいぬ!」

「そこはせめて駄狼だおおかみで……というかもう知ってるんだそのボクの謎あだ名」

「知らいでかっ!」

「おにーのぱんつはいいぱんつー」

 そんな二人のド突き漫才を見て興味が他に移ってしまったのか、一人の園児が歌い始めた。

「つよいぞー、つよいぞー」

 そうなれば小さい子の集団ならば引っ張られるようにして合唱が始まってしまうのは当然の成り行きな訳で

「じゅうねんはいてもやぶれないー」

「つよいぞー、つよいぞー」

「正に勝負パンツだね、勝つための!」

 嬉しそうに合唱する園児たちを見下ろしながら、陽子も嬉しそうに言う。

「まったくだ!」

 そして半ギレ気味の鬼越の絶叫。


「……疲れた」

 げっそりとした顔で保育園の玄関から鬼越が出てきた。パーカーのフードは既に被りなおしていて、脇には園児たちからのプレゼント(縞パン詰め合わせ)を抱えている。

「今日はこのまま残った時間は探索に消費しようかと考えていたのだが、そのために取っておいたはずだった体力と精神を削がれた」

「いや~、今日は楽しかったねぃ」

 鬼越の密かな疲労など全く気にしていない陽子が隣に続く。

「なぁヨーコ」

 玄関先で立ち止まった鬼越が軽く園の方を振り向きながら言う。

「なにかな」

「先日も思ったのだが、あの子らはなぜアタシを見ても怖がらないのだ? アタシは鬼だぞ、本物の」

 先ほど園児たちが演じた泣いた赤鬼の比喩でもあるが、鬼とは生まれながらにしての悪役である。「悪役であって悪人ではない」という矜持はあるにせよ、それを見た目で判断するのは難しい。

「それは子供だからだよ」

 腕を伸ばすストレッチをしながら、陽子がなんでもないことのように答えた。

「変な先入観とか全く無いから、心からの感情だけで判断してくれる。だから優しい気持ちの相手には近づいていくし、そうでない者の傍からは離れていく」

「……お前もその見た目で今まで苦労してきたクチか、流血沙汰も含めて?」

 軽く考えているように見えて意外に達観しているその言葉を受けて、鬼越が訊く。

「そりゃあもう。子供同士の喧嘩も入れていけば百や二百じゃきかないんじゃ?」

 肩を回しながら陽子が答える。

「こんな見た目だから、最初から悪意を持ってボクに接触してくる人間もいる訳で、いまだに相手が悪いのかボクがやり過ぎて悪いのか答えが見つからないのもあるし……」

 遠くを見ながら陽子が寂しそうに言う。彼女の場合、子供同士のいざこざによる過失を大きく越えるものも多くあるのだろう。子供ではなく大人が狼人の彼女を何らかの形で求める。最初から命を求める異端審問官とはまた別の脅威として、思い込みで行動する大人の方が性質が悪い。そんな手から自分自身を守らなくてはならない場合も彼女にはあったはず。

「ミユキの方はその……里ってところからあんまり出たこと無いってことなのかな?」

 基本的には自分の家族しか同じ血筋がいない(他にいるのかも知れないが陽子は現状では知らない)陽子は、鬼越がたまに口にする「里」という言葉が少し気になっていた。

「大体お前の想像通りだ」

 鬼越の答えも定型通りだ。

「……ボクたちも狼人の里ってのがあれば良かったのかなと思ったりするんだよね。同じ血筋の仲間がいてくれる安心感ってのは凄いと思うし」

「しかしそのような場所に収まってしまえば恒久的な平和との引き換えに、外の世界を知る勇気を持ち得なくなる。閉鎖空間とは安全との引き換えの亡びの兆候でもある」

 まとまった人数がいるのであれば異形の者同士だけでコロニーを作って暮らしてはいける。しかし数が少ない者は、数多くいる普通の人間の中に混ざっていかなければ生きて行けないという脅威に打ち勝つために、その中に飛び込んでいく勇気を持つことも出来る。コロニーという安全な閉鎖空間を持つ者にとってはその勇気を持つのは難しいだろう。

 しかし、普通の者たちの中に入っていっても向こうが受け入れてくれない場合もある。もちろんコロニー側にしても人数が少なくなってくれば消滅する危険性もある。

 だが二人は、お互いの周りにあった世界で今まで生きてこれた。全く違う種類の世界を、同じような境遇の生き物が。

「アタシもトーマスホガラを討つというめいが無ければそんな勇気も持ち得なかっただろうな。そういう意味では自分以外同じ血の者が誰もいない場所へ、生家を離れて出てきたお前の勇気は凄い」

「……ほめられた?」

「褒めている」

「てへへへへ」

 余程嬉しかったのか、陽子がだらしなく顔を歪めて笑う。開いた口から飛び出した犬歯が中々怖いが鬼越はあえて突っ込まなかった。

「――ここの園児たちもそうなんだけどさ、悪いことをしたらちゃんと怒ってあげればもう悪いことはしない。でもそれを受け入れるには素直さというものが必要なんだよね。そして大人になるにつれてその素直さは失われる。素直なままじゃ生きていけないからね」

 顔を元に戻して真面目な表情になりながら陽子が言う。

「みんながみんなお互い分かり合って、一人一人が持っている力を全員が正しい方向に使えれば、戦いなんて起こらないんだけど」

 もう一度後ろに振り返りながら陽子が言う。玄関の向こうに自分たちも帰り支度をしている園児たちが見えた。

「でもそういうのが実現できる世界って、神々の世界っていうんだよね」

 陽子が溜め息交じりに正面に向き直りながら言う。

 昔の人々も理想の世界を追い求めて様々なことへ手を尽くした。しかし本当の理想は伝説や神話の中にしかなかったという皮肉。

「そういう意味じゃ、戦ったもの同士どちらか一方を根絶やしにしなければ本当の意味で争いは無くならないって考え、否定できないんだよね……」

 鬼越もトーマスホガラを討てという命をおわなければ里から出てくることも無かっただろう。しかしその出てきた理由が、トーマスホガラが鬼の一部を討ちもらしたからという矛盾。トーマスホガラが最初から鬼の血を絶やしていたら、鬼越自身が生まれてくることは無かったと鬼越本人が語っている。

 陽子と鬼越の出会いは、討つべき相手を根絶やしにしなかったから起こったもの。そして鬼越はその連鎖を止めるために、今度は自分が相手を根絶やしにするべく行動している。しかも討伐対象には陽子までもが含まれている可能性もあるのだ。

「……ボクはこのままランニングでもしてから帰ろうかなって思ってる」

 難しい話になってしまったので、場を切り替えるように陽子が言う。

「そうか」

 鬼越も空気を変えてくれたのを感謝するように、その一言だけで答えた。

「金曜土曜と部活がお休みだったからね。今のうちにちょっとはアゲておかないと明日週明けから続かないし」

「真面目だな」

「ミユキと違って今のところ走って跳ぶしかやることないし」

 勉強は? という問いに関しては、まぁスルーだろう。

「だからそのためのそんな格好か?」

「それもあるね」

 陽子がそういいながらその場でぴょんぴょんと軽く飛び跳ねる。走る前のアップだ。

「お前のように目標があることは良いことだ」

「ミユキだって目標があるじゃない?」

 すたっと着地しながら陽子が言う。

 最終的な結果が何をもたらすのかは何であれ、鬼越は目標を持って生きているには違いない。

「……アタシの場合はそれが既に生きて生まれた理由だからな。お前のように自分で選んだわけではない」

「でも、目標だよ。そのおかげでボクとミユキは出会えたんだから」

「……」

 陽子は「じゃあいってきまーす! またあとでーっ」と、無言になってしまった鬼越を置いて走っていってしまった。

「……」

 鬼越は彼女の腰で揺れるふさふさの尻尾が遠くなっていくのを見ながら、こう呟いた。

「もし、その目標が失われたら――アタシはどうするのだろう」


 人通りの無い川沿いの道を陽子は無言で走っていた。

 ただ走っているだけなのに美しい躍動感を感じさせる優美な走行フォームだが、当の本人にはそんな踊るような気持ちは全く無く、陽子の頭の中には鬼越が語った一つの言葉がずっと静かに響いていた。

『一人の鬼を生かしたければ、もう一人の鬼が犠牲にならなければならないのだな』

 彼女がその言葉を口にした時から陽子の片隅にはずっと残っていたのだが、一人になって走り始めたらその言葉が大きく吹き出してきて、今の彼女の気持ちをずっと支配していた。

 それは何かの暗示めいていて。

「……」

 自分――犬飼陽子も、彼女――鬼越魅幸も普通の人間ではない。普通の人間でない者が普通の人間たちの中に混ざり合って生きていくのを願うのなら、普通ではない者の誰かが犠牲にならなければならないのか。

「……」

 陽子は胸の中のもやもやを吹き払うように、もう一段階スピードを上げた。

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