完
彼が穴の中の違和感に気が付いたのはひと振り目の鶴嘴を振り下ろしてから間もない頃だった。
いつもより倍以上広く感じる切羽場での立ち位置を確かめるようにしていると、普段聞こえる事の無い水音が足元から聞こえてくるのだ。
セイムはいったん鶴嘴を壁の砂岩に立てかけて、足元を明かりで照らした。
驚いた鳥が暴れて、籠目の模様がしばし暗闇に映し出されて次第にぼんやりと消えていく。
「水だ」
足元の勾配3パーセントの岩盤の表面をうっすらと水の層が滑っていた。
セイムは揚水機の何らかのトラブルだと思い、すぐに荷物を引き上げて古びた大気機関へと向かった。
地上の日差しは強く、からりと晴れて、肌が焼かれるのはとても気持ちが良いと彼は感じた。
機械の騒音はいつもと同じように聞こえていて、その事が彼を一層不安にさせた。
殆ど走る様に揚水機にたどり着くと、その辺りには紐が張り巡らされ、目いっぱい掛けらた衣服が風に揺れていた。
ごくありふれた洗濯である。
セイムは洗いたての洗濯物を汚してしまわないように慎重にボイラーへと移動した。
すると、ボイラーは何食わぬ顔で動作し、燃料も圧力計もバルブも動力管に至るまで、何処にも異常は無いように見えた。
排水部から水の落ちる音も聞こえているが、彼は念のためそちらの様子も見に行くことにした。
その際、ビームの部分の様子も見たがやはりこちらも異常は見当たらないようだった。
洗いたての布の迷路を抜けて、たどり着いた排水口部でセイムは戦慄した。
ひりひりと照り付ける太陽が弾ける飛沫を虹色に彩る小さな昼下がり、ゆったりと張られたロープに架けられた白いシーツの端が風で持ち上げられて、その向こう側でリナが水浴びをしていたのだった。
さらに、それだけでは無かった。
「リナさん?石鹸を見ませんでしたか?体も一緒に洗ってしまおうかと思うのですけれど・・・」
時折浮かび上がるシルエットは、おおよそジゼルの物だった。
セイムは酷い動悸に見舞われたが、それでも、あの切羽場で学んだ経験をもとに動物的な反射を抑えて急に動かず、冷静に元来た道を静かにゆっくりと動いて戻ろうとした。
しかし、折りたたまれた影がスラリと伸びて、逆アーチ状のシーツの上からリナが現れた。
さらに彼女は、驚異的な勘の良さを発揮して、僅か2回の視点移動でセイムを見つけてしまったのだった。
彼女は悪戯な顔をして舐めるようにセイムの様子を見ようとして、視界の邪魔になっているシーツに指をかけ少しだけ降ろした。
彼女の首や、丸くたくましい肩と腕と乳房が少しあらわになったところで、セイムは呼吸を忘れた。
彼女の背後では、飛び散る水滴が虹色の光を放っていたが、髪の濡れた彼女は太陽の光ですらかき消してしまうほど眩しい命の輝きを放っているように思えた。
彼は恐ろしくなって後ずさりした。
だが、その場所が悪かった。
彼は
誰かが脱ぎ捨てた衣服を踏みつけて、反射的にその足をどかそうとしてバランスを崩したのだ。
恐怖と、驚きと、心細さから、セイムは猛烈に誰かの声が聞きたくなった。
リナはそんな彼の心を読んだのか『あ!』と口を開いたが、それは声にはならずに指先でセイムをちょいちょいと向こう側へと押した。
「リナさぁん・・・石鹸はぁ・・・?」
セイムは、躓きながら時折4つん這いになって谷底へと全力で駆けた!
さらりとした大気を両腕で交互に切り裂いて、心臓の鼓動に任せて思いきり深く速く息をして全力で!
光の溢れる世界は!
なんて素晴らしいのだろう!
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