第148話「五代目吉岡憲法」

 新免しんめん武蔵たけぞう。またの名を宮本みやもと武蔵むさし

 本性は藤原ふじわらいみな玄信はるのぶである。

 武蔵の生涯にはその真偽がはっきりしない部分も多くあるにも拘わらず、現代に於いての武蔵は武芸者として英雄にも似た扱いをされており、一般的には武蔵こそが天下無双の強者もののふであると認識されている。

 だが、武蔵の武を語るには必要不可欠な出来事である幾つかの決闘に於いて、その伝記者によって様々な喰い違いがある。

 舟島の死合しあい、俗に云う巌流島の決闘では武蔵が肉体的に不利な年長者であり、相手が若さ溢れる年少者であったという事が一般的な認識だが、史料によっては相手が武蔵よりも三十歳から四十歳は歳上であったという事を表す物もある。

 また、京都の吉岡一門の関係者と推測される人物と争った際には、一対一の死合に勝利した武蔵に対して百人近くの吉岡の門下生による仇討ちが発生し、それを武蔵がたった一人で返り討ちにしたという凄まじい伝説があるが、それに関する客観的且つ正確な史料は一切なく、百対一での返り討ちはあくまでも武蔵側の関係者による伝記を基にした説である。

 何れにしても、武蔵が行ったとされる数々の決闘及び伝説については客観的な史料があまりにも少ない為、現代では史実と認識されている出来事ですらそれが実際に起きたか否か不明瞭なのである。

 だが、そんな武蔵について一つだけ揺るがない事実がある。

 それはの兵法書、『五輪の書』の存在である。

 武蔵が晩年になって書き記したとされる『五輪の書』の内容はあまりにも優れていた。書き記した書が優れていた事によりその著者である武蔵は剣術の達人であり、真偽の定まらない決闘も史実であるという見解が為された。

 そして、武蔵は伝説の剣豪となった…




早雪さゆき殿、お前さんは武蔵むさしに臆しているな?それ故にジン殿が結論こたえを出す前からジン殿が返り討ちにあった場合を考えている。違うか?」


「そ、それは……」


 図星であった。

 兵庫助ひょうごのすけの云う通り、早雪は武蔵の名に臆し、会った事もない武蔵を畏怖していた。


「やはりな。噂を鵜呑みすれば武蔵むさしは比類無き強者もののふと思ってもおかしくはない。だが、やる前から臆していては誰にも勝てんよ。それともお前さんの知るジン殿はそんなに弱いのか?」


「弱いはずがない。ジン殿の剣は柳生一と謳われるあなたにも勝るとも劣らない力量うでを持っていると私は思う。しかしそれでも…それでも相手はあの武蔵むさしとその門弟なのだ。万が一という事もある」


「ジン殿は万が一にも殺されることはならんということか…そういう事ならば本人に会ってから決めて貰おう」


「本人だと?」


「五代目と直接話した上で手を貸すに相応しい人物であると感じたならば手を貸し、五代目が捨て置く程度の人物ならば身を引く。これでどうだ?見たところ、早雪おまえさんは五代目に興味があるのだろう?一先ず会っておいて損はないと思うがな」


「それは……」


 兵庫助ひょうごのすけの言葉に口籠った早雪さゆきだったが、言葉よりもその態度がはっきりと応えていた。


「くはは。やはり気になっている様だな。理由は訊かないが、気になるならば五代目に会ってみるといい。無論、会ったからと云って俺も五代目もジン殿に強要はしない。だから早雪おまえさんもジン殿に強要はしないで欲しい。ジン殿が五代目に手を貸してやりたいと云ったらその意を汲んでやってくれ」


 兵庫助ひょうごのすけの言葉に早雪さゆきは揺れた。

 これ迄の話を聞いた限りでは当時の吉岡一門の門下生の一部が生き残っている可能性は高く、生き残った者達だけでも豊臣方の兵と出来るか否か、その結果は五代目の意見によって大きく左右される。それを考慮した場合、この件で五代目憲法に会う事は後の戦に影響する重大な出来事となり得る。

 だが、五代目憲法と会った事で慶一郎けいいちろうが武蔵討伐に加われば由々しき事態となり兼ねない。


 


 これ迄幾度となく慶一郎の強さを目の当たりにしてきた早雪だが、それでも武蔵という男の名が早雪を不安にさせ、慶一郎の人柄がその不安を強くさせた。

 現時点ではまだ慶一郎が武蔵討伐に参加すると決まったわけではないが、早雪の知る限りの慶一郎は相手の人柄に惹かれた場合に協力を惜しまない。即ち、五代目憲法が名門の跡を継ぐにあたう人物であるならば慶一郎は武蔵討伐に参加することになる。そうなれば慶一郎は死合を厭わない。

 相手が強大であろうと多勢に無勢であろうと退くことはない。

 それが、早雪の知る立花慶一郎という人物なのである。

 慶一郎の武蔵討伐への参戦、吉岡一門の豊臣への助力、様々な可能性と未来これからへの見通しが早雪の頭を過った。

 そして、早雪は結論こたえを出した。


「…わかった。会わせてくれ。だがこれだけは伝えておく。云われた通り私は強要はしないが、云いたいことは云う」


「くはは。それは当然だな。お前さん達がどんな間柄かは知らぬが早雪おまえさんにはジン殿がな存在と見える。…というわけだが、さっきから沈黙だんまりのジン殿、なにか異論はあるか?」


「ない」


(あるわけがない。早雪さゆき殿がどんな心境きもちで私を引き留めようとしているのかも五代目と会おうとしたのかもわかる。あとは私が五代目と会って決めることだ……)


「なら決まりだ。呼んでくるから二人とも暫し待っててくれ」


「ここに来ているのか?」


「ああ。武蔵むさしを相手にすると決断きめた日より泊まり込みで剣の鍛練をしている。今は肉体からだを鍛えている頃だろう」


 兵庫助は道場を出て離れへ向かうと直ぐに戻ってきた。

 道場へと近付いてくる豪快な足音と共に五代目吉岡憲法の声が聴こえてきたその時、慶一郎と早雪は吉岡憲法の名を継いだ人物が誰なのかを知った。二人はその人物の声を知っていた。

 やがて、道場の戸を開いて五代目吉岡憲法がそこへ姿を見せた。


「むおうっ!!?兵庫助ひょうごのすけよ、これはどういうことだ!?」


「ぐ!……五代目、耳が痛い故傍で大声を出さんで貰いたい。お前さんは体躯からだだけでなく声の巨大でかさも人並み外れていると自覚して欲しいな」


「むう…それはすまん。だが、この人物がなぜここにい…」


武蔵むさしなる人物と一戦交えるから手を貸して欲しいと兵庫助ひょうごのすけ殿から打診された。結局は五代目に会って決める事になったが、どうやら結論こたえ最初はじめから定められていたみたいだな。早雪さゆき殿、これはと判断して構わんな?」


 慶一郎は状況を呑み込めない五代目吉岡憲法の言葉を遮って云った。あくまでもジンとして振る舞いながら早雪へ訊いた。


はもはや是も非もないでしょう。手を貸すのは必定です」


「おいおい、お前さん達。二人揃っては五代目と顔見知りか?」


「ああ。まさか五代目吉岡よしおか憲法けんぽうがあなただったとはな。驚いた」


「……驚いたのは我輩のほうじゃジン。この兵庫助ひょうごのすけが町中で強者もののふを見つけたから会ってみろと云われた相手がお主とは…これもまた宿命というやつか?」


「さて、どうかな?何れにしても俺はあなたに手を貸す。吉岡流の五代目云々ではなく相手があなただからだ」


かたじけない。恩に着る。早雪さゆき、お主や皆の衆には迷惑を掛ける結果になるかも知れんが許してく…」


「許すも許さぬもない。あなたは我々の同志なかまだ。同志なかまが一念発起した事の後押しすら出来ずに我々の悲願が為せる筈がない。…そうですよね、ジン殿」


「ああ。同志なかまを見捨てて追う理想ゆめなど叶う筈がない。それが未熟あまい考えだと云われても俺は同志なかまを、友を助けずにはいられない。五代目…いや、義太夫ぎだゆう殿。このジン、持てる能力ちからの限りを以てあなたの剣となろう」


 五代目吉岡憲法は阿武隈あぶくま義太夫ぎだゆうであった。

 義太夫に対して慶一郎は強い言葉で意思を示し、凛然と協力を宣言した。

 慶一郎の言葉を受けた義太夫ぎだゆうは無言のままで頭を下げた。その人並み外れた巨体の頂点にある頭、その額を地に着けんばかりに下げて礼を尽くした。

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