第147話「柳生兵庫助」

 柳生やぎゅう利厳としよし。通名は兵庫助ひょうごのすけ

 石舟斎せきしゅうさいの号で知られる柳生やぎゅう宗厳むねよしの孫である。

 宗巌をもってして柳生と称された利厳は、幼少時より祖父の宗巌から直々に剣術を学び、二十歳を迎える頃には、江戸にて徳川宗家の武術指南役となる叔父の宗矩むねのりを遥かに凌ぐ剣の力量うでを有していたとも伝えられている。

 利厳は慶長から改元されたばかりの元和元年になってその剣の力量から尾張徳川家の武術指南役となるが、同じく柳生を出自とする宗矩の柳生家が既に江戸で徳川宗家へと仕えていた事から、尾張徳川家に仕える利厳の柳生家は尾張柳生家、宗矩の柳生家は江戸柳生家として其々は区別され、剣術に於いても本来は同一おなじ流派でありながらも尾張柳生流と江戸柳生流は異なる流派とされた。この尾張柳生と江戸柳生は其々の長である利厳と宗矩が不仲であった為に交流がなかったと云われている。

 また、利厳の武才ぶさいは剣術だけに限らず、薙刀なぎなた術やそう術にも才覚を発揮しており、どちらも真っ当な流派に師事して皆伝を賜ったと伝えられている。




早雪おまえさんには訊いていない。俺はジン殿に訊いている。よもやジン殿に自らの行動を決める自由がないとは云わんよな?」


「く…それは……」


「参りましょう」


「け…ジン殿!それはなりません!」


 早雪はその決断に思わず慶一郎けいいちろうの名を呼び掛けた。兵庫助にどの様な意図があるかはさておき、早雪は兵庫助が慶一郎を誘って何処かへ行くという事態はどうしても避けたかった。

 だが、慶一郎は事も無げにそれを了承した。


「ただし、行くならば早雪さゆき殿も共にだ」


「俺はジン殿だけでいいのだが……いや、わかった。二人とも着いてこい」


「…早雪さゆき殿、これでいいですか?」


「いいわけがないでしょう。…ですが、こうなってしまった以上は成行なりゆきに従います」


 耳打ちした慶一郎に対して早雪はやや不機嫌そうな態度で答えた。しかし、その不機嫌な態度は慶一郎を案ずるが故である。

 この日、慶一郎は丸腰だった。 なるべく目立たない様にする為である。

 一方の早雪は普段いつも通り短刀を隠し持っていたが、相手は兵庫助であり、兵庫助の出方次第では慶一郎の身に危険が迫る。

 そして、仮に兵庫助と死合しあいするに至った場合、兵庫助が噂通り柳生一の実力ちからを持つならば早雪は自身では到底敵わないと考えており、短刀を慶一郎に渡したとしてもその結果は予測が出来ないどころか、勝手の違う武器えものを扱う慶一郎に部が悪い。

 それ故に早雪は慶一郎が兵庫助と共に行く事を拒んだ。

 だが、慶一郎はその早雪の想いを知ってか知らずかあっさりと兵庫助の誘いに乗り、成行なりゆきの侭に早雪も共に行くという事になった。

 こうして、慶一郎と早雪が兵庫助に連れられて辿り着いた先は剣術道場だった。


「人が活動している気配が感じられないが、ここはもう使っていないのか?」


「…ここはかつて吉岡流という流派が剣術を教えていた道場だ。今では門下生もいなくなり、時折我ら柳生の一門が使っている。と云っても前回使った日より二月ふたつきは経っている故に人の活動する気配など消えているがな」


「吉岡?…まさか、吉岡よしおか憲法けんぽうの吉岡流か!?」


早雪おまえさんは意外と詳しいな。いや、それはどうでもいい。その吉岡だ」


 吉岡憲法とは、吉岡流剣術を創始した吉岡家の当主となった者に世襲されている名である。

 その吉岡憲法を当主とする吉岡家及び吉岡流剣術はかつての将軍家である足利家の剣術指南役として仕えていた事で広く知られている。

 この時代から数百年に渡って柳生一門が剣術の象徴となり得たのも十五代続く将軍家の剣術指南役を担っている事による影響が大きく、足利家が権力ちからを保持していた時代の剣術の象徴は吉岡流であったと云っても過言ではなかった。

 しかし、象徴では無くなったとは云えど慶長年間に於いても吉岡流が名門流派である事には変わりはなく、時代の奔流に圧された足利家が名を落とす一方で、吉岡流はこの時代にも名を馳せていたのである。

 足利から群雄割拠の時代を経て豊臣の時代となり、徳川へと移り変わる中でも吉岡流は色褪せる事はなく、京の武芸者では名を知らぬ者はない程の評判を得ていた。特に四代目吉岡憲法の名を継いだ直綱なおつなの剣術は秀でていた。

 幼少より父から吉岡流剣術を学び、それに加えて祗園ぎおん藤次とうじという生年も生誕も知れぬ無頼人ぶらいにんに小太刀術を学んで身に付けた剣術は過去の吉岡流とは異なり、直綱の剣術は歴代吉岡憲法の中でも異質であった。その異質な剣術は道場での試合よりも道端での死合しあいに於いてその実力を発揮されたとも云われている。

 だが、ある事件を発端きっかけに直綱と吉岡道場に悲劇が訪れた。

 それは、人の姿をしたとの邂逅であった。


「吉岡か…吉岡は四代目が決闘で敗れて埋没したと聞いたが?」


「なんだ、ジン殿も詳しいな。だが、それは少し違う。確かに四代目はによる不意討ちで死にかけたがその不意討ちでは死んではいない。死んだのはその少し後だ。そして、そもそも四代目は決闘なんてものはしていない。決闘に負けたなんてのは賊によって流布された空言そらごとだ」


「ではなぜ道場ここはこうなっている?」


「それもまた賊の責任せいだ。四代目が継いだ後の吉岡の流儀は来る者拒まずだった。敵味方問わずな。名を上げようと挑んできた武芸者を下準備もなくその場で倒してこその実戦剣術、という理念で稽古中も飯時も女を抱いていようとも何時いつ何刻なんどきでも四代目は勝負を拒まなかった。それが仇となった。四代目が決闘で負けたという噂を耳にした奴らが次々と道場へと押し掛け、半ば多勢に無勢で吉岡は潰された。さすがにみなごろしにはならなかったがな」


 ちまたは戦場なりというこの理念はまさしく常在戦場の心得である。

 如何なる瞬間ときでも気を抜かずにいる。それこそが四代目憲法である吉岡直綱の吉岡流であった。しかし、それを逆手に取った者がいた。


 


 何をしても生き残った者が勝ちであり、人道にもとる行為をしても生き残った敗者が一人もいなければその行為も無かった事に出来る。

 生き残ってこそ主張が通る。

 それが戦の道理である。

 その道理を直綱と吉岡道場に対して仕掛けた者がおり、それによって直綱は重傷を負い、後に押し掛けた者達によって直綱は殺された。その後、日々多勢の刺客が押し掛ける吉岡道場へ師事する者はいなくなり、やがて門下生不足で吉岡道場は存続不能となった。その時に吉岡道場を襲った刺客達の殆どが以前に道場破りとして訪れた際に返り討ちにあった者や吉岡道場の門下生によって取り締まられていた町の破落戸ごろつきであり、それらは機を見て仕掛けられた逆恨みであった。


「俺は四代目がどんな人物か知らぬが、お前が四代目を尊敬している事は何となくわかる。そして、お前が強い事もな。……四代目は誰に殺られた?違うな…四代目を襲った賊とは誰だ?」


新免しんめん武蔵たけぞう。諱は玄信はるのぶ。本姓は藤原ふじわらとも云われているが事実かはわからん」


新免しんめん武蔵たけぞう?聞いたことがないな。その者は強いのか?」


試合ためしあいよりも殺死合ころしあいに於いて秀でた者だと聞く。文字通り何をしても勝つという考えのもとにどんなことでもするというからな。尤も、俺の知る四代目はそれだけで不意を衝ける男ではないが……」


「…そうか。で、お前は俺にそいつを斬れというのか?」


「ジン殿、兵庫助ひょうごのすけ殿はその様な事は云っていな…うっ!?」


 早雪は最後まで云わずに口を接ぐんだ。否、慶一郎を視る兵庫助の眼が真剣ほんきだったが故に最後まで云うことが出来なかった。


「云っているんだな、これが。…ジン殿、吉岡を潰した男をお前さんに斬れるか?」


「さあな。相手の素性も知らぬ状態ままでは何とも云えん。知らぬ相手を斬れるか否か断言するのは早計だ。早計は隙を生む」


「相手の素性か。……宮本みやもと武蔵むさし


「誰だ?」


「その賊の現在の名だが、ジン殿は俗世に疎いのが欠点と云えるな。…だが、早雪おまえさんのその表情かおは ジン殿とは違って武蔵むさしを知っている様だな」


「み、宮本みやもと武蔵むさしを斬るだと…!?」


(この反応は兵庫助ひょうごのすけ殿の名を聞いた時と同一おなじだ…早雪さゆき殿が名に萎縮している。だが、兵庫助ひょうごのすけ殿はそれ程に名を馳せた者をと云い切る。武蔵むさしとやらの真のすがたは賊か傑物か…真実はどちらにある?いや、詮のない事か。問題は何故私にこの提案をしてきたか、その意図を読むことだ……)


 慶一郎は早雪の反応による人物像と兵庫助の口振りによる人物像の差異に疑念を覚えたが、今はそれよりも兵庫助の真意を熟孝かんがえた。

 なぜ頼むのか?

 そして、恐らくジンが立花たちばな慶一郎けいいちろうであると知りながらそれを追及しない理由はなぜか?

 兵庫助の思惑がどこにあるか様々な可能性を鑑みて慶一郎は口を開いた。


「俺でなくてはならないのか?」


「………」


 慶一郎の一言が兵庫助を黙らせた。

 それは、剣の力量うで云々ではなく「のか?」という問いだった。

 確信を衝いたその問いが兵庫助の沈黙を生んだ。その沈黙は真実を云うか偽りで誤魔化すかを悩んでいるが故の沈黙だった。

 そして、沈黙を破った兵庫助は慶一郎の問いへの結論こたえを出した。


「……いや、斬るのは俺でなければ誰でもいい。剣に覚えがあり、吉岡よしおか憲法けんぽうに手を貸してくれるならば素性は問わない」


「五代目だと!?あの吉岡に五代目がいるのか!?」


 早雪は興奮した様子で訊き返した。それもその筈である。

 何れ迎えるであろう徳川との決戦に於いて豊臣方は関ケ原同様に西を中心とした軍勢となる。そうなった場合、京の吉岡一門が味方いるか否かで白兵戦の武力と指揮に差が生じる。数としては微々たるものであったとしても実戦剣術の吉岡一門が加わる事はの豊臣方には大きな朗報となる。

 この事を早雪は瞬時に判断した。

 これは、早雪が自身でも気付かぬうちに信繁のぶしげが心掛けている対極的な考えを持つに至っていた証だった。


「ああ。俺は先日五代目となったばかりの友人に頼まれて強者もののふを募っている。それも単独ひとりで多勢と死合しあえるまこと強者もののふをな」


「真の強者、か」


「ああそうだ。真の強者だ。現在いま武蔵むさしには百人以上の弟子がいると聞いているからな。力量うでを持つ程度では足りんさ。そうだな…そこいらの武芸者を十人相手取って平然としていられるくらいの使い手が欲しいところだ」


「相手の軍勢は強者もののふ揃い。尚且つ多勢に無勢の戦闘たたかい、という事か。…五代目とやらの目的は吉岡の仇討ちか?」


「いや、違う。五代目は仇討ちを目的としていない」


「では何故現在いまになってその賊を討とうする?討伐と云っている以上は仇討ちだと思うが?」


「名目上は討伐ってことになっているが、奴は是が非でも武蔵むさしを討つ腹ではない。不本意な噂によって名を落とした吉岡の名誉を挽回する事が目的だと云っている。つまり、武蔵むさしが行った空言の真偽を明らかにし、世間に吉岡との一件の真実を明かせば許すと云っている。そして、現在いまになってそれを実行するのはだそうだ」


「殺すのが目的ではない、か。しかし、 死を迎える準備とすると五代目は病なのか?」


「くはは。残念ながら五代目は病とは縁がない。恐らくは戦に赴くのだろうよ。いのちけの戦へ向けてやり残した事を済ませたいというところだろう。尤も、この時世に戦というのも妙な話だが…」


「戦へ向けてやり残した事…それが戦とそう変わらない規模の戦闘たたかいとは奇妙おもしろい人物の様だな、五代目は」


「ああ、奇妙おもしろい奴だ」


「待て待て待て!勝手に話を進めるな!ジン殿!あなたは自分という存在、その立場をお忘れですか!?」


 早雪は今にも武蔵討伐へ向けて出立しそうな雰囲気の二人に強引に割って入ると慶一郎に釘を刺した。言葉くちにはしなかったものの、「そんな事をしても百害あって一理なし」と云いたげな早雪に対し、慶一郎は笑顔を返した。

 その笑顔が早雪を不安にさせた。

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