第146話「箸と刀」
「む……おい店主、これはどういう了見だ?この店は腐った饅頭を客に振る舞うのか?それともこの俺様を馬鹿にしているのか?」
腰に刀を携えた一人の男が饅頭が腐っていると文句を云い始めたのである。
「
「ええ。十中八九狂言でしょう」
客は慶一郎達を含めて八人おり、その内の半数が饅頭を喰っていたものの、文句を云った男以外の客に同様の主張する者はなく、尚且つ男は腐っていると主張しながらも既に五つの饅頭を喰い切っていたことから慶一郎達はそれが偽りであると看破していた。
だが、店主は男に対して何も云い返す事をせず、饅頭の代金を
「
「ええ。
その慶一郎の言葉の直後だった。
「店主!汁粉と饅頭のおかわりを頼む」
「お、お武家様…今は立て込んでおりますので少々お待ちください」
汁粉に饅頭を浸けて喰っていた無精髭の男が空の椀を差し出しながら荷造りをしている店主へと話し掛けた。その男は武家であり、
「そんな事よりおかわりを頼む」
「そんな事だと?貴様死にたいのか?」
「いや、まだ死にたくはないさ。死ぬってのは
無精髭の男が目の前に立つ男を無視して投げ掛けたその問い、その言葉は間違いなく慶一郎へと向けられていた。
「……恐らくは無痛だろう」
「くはは!恐らくは、ときたか。いや、まあそうだろうな。誰も死んだ事ねえから断言は出来んわな」
「ぬうう、無視するな貴様!この刀が見えんのか!?」
「ん?ああ、視えてるよ。それがどうかしたか?」
「愚弄しおって!叩き斬ってくれる!…むうっ!!?」
「…もう一度云う。その
刀を抜こうとした男の喉元には箸が突き立てられていた。
ほんの少し前迄の飄々とした態度からは想像も出来ない程の威圧感を放つ無精髭の男が
、持っていた箸で刀を抜こうとした男の動きを制したのである。
「うく……」
「喉に穴が空くのは痛えだろうなあ…どうだ?試してみるか?それともこの場は代金を置いて黙って立ち去るか?喉に穴が空いて死ぬかどうかはわからねえが、どちらにせよ即死ってことはねえから
凄みを帯びた無精髭の男のその言葉で一連の
これ見よがしに刀を携えていた男は饅頭の代金を置いてそそくさと店から立ち去り、汁粉と饅頭のおかわりを頼んだ無精髭の男は騒ぎを収めた礼をしようとした店主に対してそれを断ると、立ち去った男の為に用意していた饅頭と団子を全て買い取ると申し出た。
何の変哲もない箸で刀を抜こうとした男を制し、その男により迷惑を被った店への気遣いも欠かさないという無精髭の男のその対応には、店主だけでなくその場にいた客までもが感嘆した。
僅か数歩先の座席には自分の刀が置いてあるにも拘わらず、それを取らずに手にしていた箸を用いて決着を付けるという手際は
(あれではどちらが刀を持っていたのかわからないな。箸で刀を制するとは
慶一郎もまた他の客同様に無精髭の男に感嘆していた。それは、その行いも去ることながら無精髭の男が達している武の境地、その高さを感じ取ったが故に抱いた感嘆だった。
「お待たせしました。おかわりです。しかし、本当にお礼をしなくてもよろしいのですか?」
「いらん。美味なるは尊しだ」
「はい?」
「うめえもんは貴重だって事さ。さてと……ここに座らせてもらおうかな」
男はおかわりを手にすると真っ直ぐに慶一郎達の下へとやってきて、さも当然であるかの様に二人の座る席のすぐ隣の席へと腰掛けた。
そして、汁粉に浸した饅頭を一口
「
「なっ!!?」
男の唐突な言葉に驚いたのは慶一郎自身ではなく、傍にいた早雪だった。
「さあ?どうだろうな。そういうお前は体捌きからして柳生の者と見えるが、俺の読みは
「さあ?どうだろうな」
「ふっ…ふふふ」
「はっ…くはは」
無精髭の男と慶一郎は互いに相手を見定めるかの様に視線を交わし、共に笑い合った以後はもう何も語らなかった。
そして、慶一郎達が店を出ようと席を立った時だった…
「二人共、少し…」
「よし!まだ居たぞ!お前らぬかるなよ!」
「おうさ!」
「任せておけ!」
「ぶっ殺してやる!」
無精髭の男が慶一郎達へ声を掛けようとした瞬間、先程
その男達は其々に刀や槍を手にし、押し掛けた四人が
「出てこい箸野郎!先刻受けた侮辱のお礼に参ったぞ!」
「全く、ああいう手合はなぜ逆恨みをするのでしょうか……ジン殿、どうしますか?」
「どうもこうも、当人がいるのだから手出しは無用。そうだろう?」
そう云うと慶一郎は再び腰を下ろした。
「その通り。
「さあな。羅刹の剣士とやらに会ったら訊いてみるといい」
「答える筈もねえわな。んじゃ、ちょっくら相手してやるか。店主、すぐ戻るから代金は後でいいか?」
困った
無精髭の男が外へ出てから数秒後には阿鼻叫喚が響き渡り、その更に数十秒後には何事もなかった様子で数本の槍と刀を手にした無精髭の男が店内へ戻ってきてこう云った。
「店主、馳走になった。こいつは迷惑を掛けた詫賃として飲食代と一緒にここへ置いていく。ろくに手入れしてない粗悪品だが買い手はつくだろう。
「
(
「願いとあらば付き合…」
「なりません!それは絶対になりません!」
早雪は慶一郎が答える前に兵庫助の誘いを断った。それは、早雪が兵庫助という男の名を知っていたからである。それも単に知るだけでなく、その男について、世間に伝わる評判だけではなく武家のみが語る噂を耳にした事があった故だった。
『天下に柳生の剣あり』
これは、世間に広く知られた柳生一族についての評判を表していた。
当時、武芸者ではない町人ですらも柳生の剣術が優れている事を知っていた。全国各地に様々な流派があれども柳生一族及びその流派を学んだ者の評判は総じて高かった。
その理由は、柳生独自の稽古方法によって苛烈を極める稽古による身体的な鍛練と、門下生の末端に至る迄の全ての者の意識下に「柳生を背負う」という矜持を与える精神的な鍛練の成果だった。
特に精神的な鍛練による効果は大きく、門下生の
仮に剣の
柳生である以上は必ず勝つという圧倒的な矜持、
その教えは鉄則とされ、心魂の弱い者は剣術が優れていたとしても柳生門下には向いていないとして破門にされる事もあった。
そして、そんな柳生について、早雪が慶一郎を捜し始める前後になって世間へは広まっていない一説が武家に伝わり始めていた。
それは…
『天下に柳生の剣あり、柳生の剣に兵庫助あり』
という一説である。
この一説は
無論、この一説の真偽は同門による
だが、当の柳生一門は認めていなくとも、一度流布された噂は二度と戻る事はない。況してやそれを語ったとされる石舟斎が既に死んでいる以上は本人が訂正することも不可能である。
早雪は武家であるが故に兵庫助の武に関する数々の噂を聞き及んでいた。
曰く、柳生史上最強の鬼才。
曰く、鬼をも斬る鬼刃剣の使い手。
曰く、人を
それは鬼という一文字である。
人の姿を以て
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