第142話「方広寺鐘銘事件」
慶長十九年七月二十六日。
この日、徳川の大御所こと
その命令とは、
再建された方広寺の鐘に刻まれた銘文の国家安康と君臣豊楽という二つの文言に対して家康は、国家安康は自身への侮辱を、君臣豊楽は豊臣に対する信奉を表していると主張し、方広寺の再建に際して決められていたあらゆる催事を延期させた。
これが、現代に伝わる大坂の陣、その
現代では、この鐘銘事件は豊臣を疎ましく思っていた家康の云い掛かりという説が強く唱えられ、当時の豊臣には徳川へ歯向かう意図は無かったとも伝えられているが、その実は違っていた。
この銘文は
無論、銘文が刻まれたのはこの鐘銘事件が発生する数カ月前であり、秀頼及び豊臣の中枢にいた徳川へ恭順を示す穏健派の家臣は一切関わっていない。
これは、民の暮らしと心の安寧を憂えると同時に徳川への不満と自身への不甲斐なさを募らせていた信繁と豊臣の中にいた一部の反徳川強硬派が結び付いて刻んだものであり、ある意味では早計とも云える策だった。
銘文を口実に豊臣の
先ず信繁は一番信頼出来る
羅刹の剣士とされる人物の評判が大坂とその他の地域で明確な差異が生じていたのは万が一の事態を憂えた信繁の策による効果であり、羅刹の剣士は大坂に住む民にとって英雄でなくてはならなかった。何故なら、もし銘文が
だが、信繁らの打った早計に秀頼は応え、自らの意思で奮起した。その決断は同じ豊臣の血を継ぐ者として
その
この秀頼の奮起によって鐘銘事件は信繁の思惑通りに事が進む。
家康は銘文に対して意見を発したこの日より更に
それは…
一つ、秀頼自らが江戸へ行き将軍
一つ、秀頼の実母である
一つ、秀頼が大坂城を退去すること。
以上の三つである。
これらは使者として家康と会見した豊臣家の者が秀頼へ進言したとされているが、その実はこの機に豊臣家を単なる大名へと降格させようとした家康の命令だった。
この命令を受けた豊臣家の有する権力の中枢にいた穏健派の家臣は家康への対応に苦心し、蜂起を促す強硬派との意見が割れた事で豊臣は揺れに揺れた。しかし、その穏健派の動揺を抑え、強硬派との足並みを揃えさせたのは誰あろう秀頼であった。
徳川から豊臣へ無理な命令が下される以前より、秀頼の胸中には確かな覚悟と意志があった。
そして、慶長十九年某日…
方広寺鐘銘事件に端を発した激動の秋。
豊臣家の家臣が結集し、徳川からの最後通告と云える三つの命令に対してどう応じるか、その会議が開かれていた。
「なぜこんな事になってしまったのだ…」
「徳川へ逆らっては生きて行けんぞ…」
「一体誰があんな真似をしたのだ?豊臣では公文に
「もはや是非もない。あの銘文を刻んだ張本人を罰して三つ全てを呑まずに済ませる様に許しを乞うしか豊臣の生きる道はない」
「何を云うか貴様ら!亡き
「そうだ!小早川の裏切りによって豊臣を守り抜けずに死んだ石田殿の無念を晴らすのは今だ!」
「
「なに!?貴様ら穏健派には小早川と通じてよからぬ行為をしていた者もおったのだろうが!未だにその罪を背負いながら仕え続けている者が石田殿を罪人と云うのか!?」
「貴様らこそ何を云うか!小早川の裏切りにはあのよ…」
「
その一声で穏健派と強硬派の云い争いを止めたのは
この男、
史実での治長は穏健派の中心人物であり、勝ち戦とも云えた大坂冬の陣で早々に和睦を受け入れた事が後の大敗を招いたとされる分析から、大坂の陣で豊臣方に属していた正式な家臣では一番の愚者とも評されるが、それは勝った徳川方が作り出した偶像であり、この治長こそが旧知の信繁と共に家康へ宣戦布告を行う計画を練り、その中で銘文を刻んだ強硬派の中心人物であった。
「…小早川殿が裏切者であるならば端から東軍に属していた私はそれ以上の裏切者だ。石田殿を罪人と申すならば私は天下の大罪人と云えよう。だが私は、当時も今も豊臣家の為に行動してきたつもりだ!それは恐らく死んだ両者も
治長は手にした刀を抜くとそれを畳に突き刺し、抜き身の刃の前に座した。
その気迫は凄まじく、治長を斬ってまで異を唱える者はなかった。
「
「
静寂に包まれた部屋へと姿を見せた秀頼は白装束を身に纏っていた。
あの日より剃髪し続けている頭に白装束を纏う秀頼の姿は、まるで罪を犯した故に頭を丸め、その罪を背負って切腹を行う者の様だった。
「皆の者よ、よく聞け!
秀頼と共に姿を見せた茶々の言葉に家臣一同が動揺を隠せなかった。
その理由は、これ迄の秀頼は自ら語る事をせずにその意思を茶々が代弁し、それに対してただ「その通りです」と答えるだけであったが故に、秀頼自身の言葉で何かを語ることが珍しかった為である。
だが、この日の秀頼は違った。
自らの言葉でそれを伝えようとしていた。
そして、茶々の言葉よりやや間を空けてから秀頼はゆっくりと口を開いた。
「余は民の為に徳川を倒す!!!」
ただそれだけだった。
徳川を倒す…
たったそれだけの言葉でその場にいた全ての者の
豊臣の世の再興、民の安寧、権力の復興…
描いた未来に多少の
家臣は秀頼の奮起を待ち望んでいた。
それは、父である秀吉が創り上げた世を奪い去った徳川家康と徳川家との決戦を行うという宣言だった。
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