第143話「現れし者」

 慶長十九年七月二十四日。


 後世に於いて方広寺鐘銘事件と呼ばれる出来事が起きる二日前のこの日、慶一郎けいいちろう早雪さゆきと二人で宛もなく町を歩いていた。

 この日より更に数日前、 又兵衛またべえ義太夫ぎだゆうの二人は来るべき日に備えるとして其々に行動を開始し、京を発っていた。その為、この時点で京に残っているのは慶一郎と早雪と喜助きすけの三人となっていた。

 うつろの里で喜助が加わってからこの三人が本格的に行動を共にするのは初めてであり、その動向は慶一郎に委ねられていたが、その慶一郎は少なくとも七月中は京に留まり、後の動きはそれ迄に起きた事象によって変えようと考えていた。

 慶一郎はこの時、既にを感じ取っていた。

 真田を通じて豊臣や徳川の動きを聞いたわけでも京に来てからの日々で何かを知ったわけでもなく、慶一郎は本能的に機を感じていた。

 今月中に必ず何かがある…

 そう感じた慶一郎は現在の自分にとってのでその何かを、時代の動き出しを待とうとしていた。

 時代の奔流に乗って動き続けたこの数カ月間に於いて、凡そ半月の待機期間を設けたのは英断と云えた。

 豊臣や真田の者は無論、徳川の関係者も又兵衛や義太夫も行動をしている最中、動かずにが出来る事、それは慶一郎の将としての器を示していた。

 何かがあると感じながらもその何かに対する確信がない状態ままに行動を開始した場合、その動きの為に後の動きが阻害される結果になる事も推進される事もある。

 だが、確信がない以上、その判断の是非はある種の運に左右されるこの状況に於いて最も重要なのは決断である。

 決断とは即ち、自らの事である。

 物事に対峙した際、何も選ばない事こそが将として一番あってはならない行動であり、何をするにしても何もしないにしても選択する事、その決断力の有無にこそ将としての資質が問われている。

 そして、慶一郎は待機を選択した。

 その待機期間の只中のこの日、喜助が弓具の手入れをするからと云った為に慶一郎達は二人で町へ出た。喜助の弓具はうつろによる特注品であるが故に他人がそれを手伝おうにも邪魔になると考慮かんがえた為に二人は喜助だけを残して出掛けることにしたのである。

 町を歩きながら早雪は信繁のぶしげの現状や回復の見込みついて語り、慶一郎はそれをただ聞いていた。


「む…!?」


慶一郎けいいちろう殿、どうかしましたか?」


 不意に慶一郎の表情が険しくなり、それまでは穏やかだった二人を取り巻くが一瞬にして張り詰めた。


「…早雪さゆき殿、少年に恨みを買う様な覚えはありますか?」


「はい?」


 突如訊かれたその言葉に対して早雪は状況が呑み込めずに答える事が出来なかった。しかし、答えられなかった事こそが何よりの応えであり、慶一郎は即座にそれを理解した。


(やはり早雪さゆき殿ではないか。となるとこの殺気にも似た気を帯びた視線は私に向けられているものか…それにしてもこの感覚は僧祈そうぎ那由多なゆたに近い。視線の主は明らかに大人ではない……)


早雪さゆき殿、散歩もいいですがそろそろ酒でも呑みませんか?」


慶一郎けいいちろう殿、突然何を云い出すのですか?あなたは酒がにが…!!」


 早雪はそこ迄云ったところで慶一郎の言葉に込められた真意を理解した。

 酒が苦手な筈の慶一郎が自ら進んで酒を呑もうと云う道理がない…即ち道理に合わない。


 


 それは早雪だけに理解可能な合図であり、密かに異常を伝える為の合言葉だった。


「わかりました。この時間から呑むのであれば蕎麦屋などはいかがですか?ここから少し離れていますが良い店がありますから」


「…では、そこへ案内してください」


「はい」


 慶一郎と早雪は人目を避ける様にして華やかな町から離れ、人気ひとけのない場所へと移動した。

 慶一郎へ視線を送っている者は確かに二人の後へと続き、三人の他に誰もいない事を確認した時点で、その気配を感じ取れていない早雪が真っ先に口を開いた。


「ここならば他人に迷惑をかける心配もないでしょう」


 廃寺はいじへと続く藪の中で早雪がそう呟くと慶一郎は無言のまま頷いた。それを確認した早雪は声量を上げて自分達を着けている何者かに呼び掛けた。


「先ほどから着けている者よ!誰かわからぬが直ぐに出てこい!我々に何の用があるか知らぬが話くらいは聞いてやる!」


早雪さゆき殿、それでは相手を逆撫でしてしまいます…)


 勝ち気な早雪らしい物云いだった。

 早雪のその言葉に応える様にその者が姿を現した。


「オレだよ、早雪さゆき。まさか忘れたとは云わせねえ」


「お、お前は…!?」


 早雪はその者に見覚えがあった。否、見覚えがあるどころかその者をよく知っていた。

 慶一郎に視線を送りながらも早雪にその気配を悟らせなかったその者は、身の丈五尺あまりの背には似つかわしくない大きな鉈を背負っていた。


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