第136話「北方の集落」
琉球闘士で初めて烈士と称された人物である。その武は比類無く、一度戦場へ
だが、重明はある日突然に士族の身分を抜けて一介の民となった。
この重明こそが、
「士父よ、こんな
「理由は着いてから話す。
象山は名を改めた直後に重明から「旅支度をしろ」と云われ、王家や士族が暮らす首里城付近にある家から遥か北方の集落へと向かっていた。
現代の様に舗装されていない
首里城から実に二十里以上離れた琉球本島の北端付近に位置するその集落は、表向きは単なる琉球民族が暮らすだけの変哲のない集落だが、その集落を創った者は琉球王朝にも影響を及ぼし兼ねない重大な秘密を抱える者であり、重明は凡そ
「烈士
二人が着くなり集落を統治する族長が重明を迎えた。
族長の云うあの御方とは重明と共に約束を交わした倭人である。
「族長、親方はやめてくだされ。
烈士儀間親方。
当時の重明は四十歳目前ながらも一切の衰えを知らず、少なくともあと十年はその地位を
偶然出逢った倭人によって知らされた琉球王朝に纏わる秘密、その重大さが重明を動かした。王朝に仕える兵を抜け、王国に仕える士となり、士族という身分を抜けて権力の支配から脱却したのである。
本来ならばそう易々と士族を抜ける事など叶わないが、重明の人望と功績がその我儘を通させた。
兵として命令に従わなくてはならない立場ではなくなった重明だが、琉球王朝から距離を置きつつも生まれ育った祖国を捨てたわけではなく、士族ではない個人の闘士として常に琉球に留まり、侵略者達から琉球を
そして、そんな生活を続けて二年程が経った頃に重明は幼い象山と出逢い、自らの弟子とした。
重明と出逢った時、象山はある遊びを行っていた事で無自覚に武の才を示していた。その遊びとは、尾を木の棒などへ固定したハブの頭を指で弾くというものであった。
常人であれば動き回るハブの頭を指で弾くなど不可能に近いが、僅か四歳にして象山はハブの動きを完全に見切っており、この遊びは幼い象山にとって
「士父の云う通りだ族長。遠慮なく
重明には二十一歳になる娘がいた。
その娘の子が後に生んだ子、即ち重明の曾孫。この曾孫こそが、凡そ五十年後の京都で
尚、琉球王国に於いて親方という地位を賜った者は王家の姓である尚に次いで格式の高い向という姓を名乗ることが出来るが、重明は親方の地位を返上して士族を抜けた日より自身の生来の姓である儀間を名乗っている。
「老士?…
「そう感じたなら買えばいい。いつでも相手をしてくれる」
「ふっ…奴士が我士とやり合おうなど百年と四日早いわ」
「いや、士父こそ二年と六カ月早い。だが、どうしてもというなら…」
象山のこの言葉の直後、二人は同時に「酒で勝負だ!」と云って大声で笑い合った。
一見すると目上に対して無礼な態度を取っている様に思える象山だが、象山と重明は師弟でありながらも闘士としては対等の関係であり、特に戦場に於いては無二の戦友でもあった。この関係は重明が象山を弟子としたその日から、象山こそが自らを越える唯一の存在となる者と感じた重明が「弟子であれども闘士としては対等である」と教えたが故に築かれた二人だけの絆と云えた。
それから二人は談笑しながら族長の案内で重明と同様に約束を果たしに来た倭人が待つ家へと向かった。
その倭人は重明が親方を辞して士族を抜ける
倭人の名は
この永田徳本は、慶一郎と戦って
徳本は医学を追究する為に同じ
歴史には一切遺されていない徳本の裏の顔とは、武家の台頭により
『
それが徳本の持論だった。
表の顔は生を保つ手助けをする医師、裏の顔は死を与える暗殺者という生と死の両端を扱うことから表裏双方の顔を知る朝廷の者に徳本はこう称されていた。
死医…
死の医師を意味するその異名は
これが、歴史上では奔放に旅をして民を助けたと伝えられる永田徳本の知られざる裏の顔である。
表裏異なる顔を併せ持つ徳本は、生来の奔放さから密偵として従順ではなかったが、行く先々で医術を施すか或いは暗殺術を扱うことで各地の人間と独自の縁を結んでいた。
だが、琉球王国の北方にあるこの集落へ縁を持つのは徳本自身ではなく、徳本の先祖によって結ばれた縁だった。
徳本の生まれた永田家には、
第一尚氏とは、十五世紀中頃に
「中でお待ちです。…では、私は失礼します」
「うむ。話が済んだらすぐに彼の者の家へ行くが、遅くなりそうであれば明日にする。そう伝えておいてくれ」
重明は案内を終えた族長にそう声を掛けるとゆっくりと戸を開いて中へ入った。
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