第120話「運命の夜明け」

「ここまで来れば後はもう一本道だから迷わずに外へ行けるだろう。…ところで慶一郎けいいちろう、君は彼に女である事を打ち明けないのかい?或いは何か隠さなければならない理由でもあるのかい?」


 運命の対峙を終え、大坂城の地下より外部へと繋がる隠し通路から城外へと出る直前の事だった。

 案内を終えた秀頼ひでよりが慶一郎に耳打ちをし、喜助きすけに対して女である事を明かさない理由を訊いた。


「確かに理由と云えるものはありました。ですがそれももう無くなりました」


「無くなった?」


「はい。もし私が義兄上あにうえの代わりに豊臣を継ぐ者となった場合、私は男ではなくてはならなかった。…ですが、もうそれも必要ありません。今の義兄上あにうえならば豊臣の当主として立派に人を率いてくれると信じていますから」


 男上位の武家社会という中で女が頂点に立つ事の難しさを鑑みた場合、例え喜助であってもその秘密を明かす事は出来なかった。


「…精一杯やってみるよ。それなら尚更明かした方がいいんじゃないか?」


「いえ、理由が無くなったとしても敢えて明かす必要もない事ですので」


「ふうん…それならまあいいか」


喜助きすけ殿はあの日、私が女であっても気にしないと云ってくれた。急いで明かす必要はない。隠す理由が無くなった以上は何れその日が来るだろうが、今はまだ男同士の関係でありたい…)


「それにしてもすげえな…こんな入り組んだ地下通路が巡らされているとは、案内がなければ何日探迷さまようはめになるかわかんねえぜ。空間こそ水戸の地下よりも狭いが、入り組み方は水戸の比じゃねえ。秀吉さるの大将は用心深かったんだな」


喜助きすけ殿、秀頼ひでより殿の前で秀吉ひでよし公を猿などと云うのは失礼ですよ」


「ははは、気にすることはない。僕の父上はあの信長のぶなが公からもっと酷い通称で呼ばれていたらしいからね。確か…」


禿鼠はげねずみ


「そうそう、それだよ慶一郎けいいちろう。詳しいね」


「母がよく云っていました。昔、大坂の城には禿げた鼠が棲んでいて、孤独な闇を畏怖おそれるその禿鼠はすみ金色こんじきに染めて毎夜毎晩そこで哭いていた、と。それが秀吉ひでよし公であると知ったのは母が亡くなってから何年も経った後でしたが」


「へえ、お前の母ちゃん風流な事云うな」


「風流?今のが風流と云うのですか?ふふ、相変わらず喜助きすけ殿は奇妙おもしろいですね」


 喜助の感性に慶一郎が笑みを溢した。

 その笑顔に喜助と秀頼も笑顔を返した。


「…禿鼠に比べれば猿なんて可愛いもの。父上もきっと喜助きすけくんが猿と呼んだ事を許してくれますよ」


「そうか?ま、本人がいねえんだから許すも許さねえもねえけど、息子のお前がそう云うならそうなんだろうな。それよりも色々やっちまったからお前の茶々母上の方が怒ってんじゃねえか?」


 茶々ちゃちゃの事を敢えて母上と云って深刻さを和らげようとした喜助のこの言葉に秀頼は真剣な表情かおで話し始めた。


「…二人共、此度の一件は料理屋を強請ゆすった役人の事や母上の送った光雲こううんさん達を斬った事も含めて僕が全て何とかする。悪い様にはしない。いやさせない。それよりも二人はこれからどうするつもりなんだい?大坂ここへ残ってへ備えるという手もあるよ。勿論、暮らしは僕が保証する。そうそう、喜助きすけくんが気に入ったという河豚ふぐ料理も秘密で用意させる事も出来るよ」


「河豚とは魅力的だ。ありゃあうめえなんてもんじゃなかった。だが、一先ずは京都に行かねえとなんねえんだ。知り合いと四日後に京都で落ち合う約束だからな。行かなきゃアンタよりももっとデケエ義太夫ぎだゆうっていうおっさんと他人ひとに悪態をくのが生甲斐いきがいみてえな又兵衛またべえっていう人に怒られちまうよ。ま、その後どうするかはまだ決めてねえがな。…慶一郎けいいちろう、俺はお前に着いてくぜ」


 喜助は慶一郎に今後の予定について答える様に促した。

 その喜助の言葉に対し、慶一郎は少しだけ間を開けてから答えた。


「…豊臣が徳川と事を構えるにはまだ少し時間がある筈です。その間に私はもう少し世の中を見て回ります」


「…そうか、世の中を見て回るか。ただ待つ事をせずに自分のやりたい事をする、君らしいね。その結果、徳川の世は捨てたもんじゃない。或いは僕の率いる豊臣は民に仇為す者であると判断したなら僕の敵になってくれて構わないからね」


「ええ、わかりました。その折には改めてその首を頂きに参ります」


「おいおい、それ真田の大将や他の皆にも言ってあんのかよ?特に早雪さゆきの奴に黙ってそんな勝手な事云ったら面倒くせえぞ…」


「これはあくまでも私と義兄上あにうえとの問題なので皆には納得してもらいます」


「また出たよ…義兄あにとして何とか云ってやれよ。こいつたまに物凄く自分勝手なんだよ」


「物凄く自分勝手か。ははは、それは奇妙おもしろいね」


「全っ然おもしろくねえよ…つかお前ら間違いなく義兄弟きょうだいだな。俺を小バカにしてんだか何だか知らねえが、二人揃ってその余裕な態度が似てやがるぜ」


 喜助は慶一郎と秀頼がどこか似ていると感じて正直な感想を伝えた。


「僕らは似ているのか…それはさておき、事が起きるまで暫しお別れだね」


「ええ、今日は話が出来てよかったです」


「僕もだよ。じゃあ、もう戻るよ」


秀頼ひでよりさんよ、ちょっといいか?」


 喜助は来た道を戻ろうとする秀頼を呼び止めた。


「なんだい喜助きすけくん」


「お前そのってのはやめろ。これからは少なくとも人前では僕なんて云うな」


「???」


「お前なんで不思議そうにしてんだよ。総大将が僕なんて云ってたら周囲まわりが困惑するだろうが」


 僕と書いてしもべと読める事からもわかる通り、僕という一人称は本来、自らを相手と対等または卑下している場合に用いるものであり、身分の高い者や人を率いる者が遣う言葉としては適していない。無論、喜助はそんな堅苦しい事は考えておらず、君主としてもっと堂々とした言葉遣いをしろという意味で云っていた。


「困惑?…ああ、そういう事か。僕が僕と云っていたらって事だね?」


「そうだ。だからここはやっぱ…」


「余が!豊臣とよとみ秀頼ひでよりである!!!」


「うおっ!?なんだよ急に…!?つかそれだよ!それでいいんだよ。やりゃあ出来んじゃねえか。体躯からだの大きさも相まって威圧感あるぜ」


 束の間の無駄話であった。

 そして…


「では、今度こそ余は戻る。世の中はまだ荒れている、気をつけて行ってくるがよい」


「おう!またな!その言葉遣いなかなか似合ってるぜ」


義兄上あにうえ、またお会いしましょう」


慶一郎けいいちろう喜助きすけくん、必ずまた会おう!」


 三人は三人共に「また」という再会の言葉を伝え合って別れた。

 その後、日が変わって七月四日のつ刻の中頃の事…


「…拾丸ひろいまる!無事か!?なっ!?そ、その頭は!?」


 秀頼に気絶させられていた茶々が目覚めるとそこには慶一郎の姿はなく、秀頼だけがいた。その秀頼の姿に茶々は驚愕した。


「母上、拾丸ひろいまると呼ぶのは金輪際お止めください。あなたの知る拾丸ひろいまるは死にました。この頭は一度死んで再度生まれた事の証。余はこれより徳川を廃して豊臣の天下を取り戻しに参ります!」


 慶一郎に髷を落とされた事で散切り頭となっていた自身の髪の毛を全て剃り上げた秀頼は堂々と宣言した。

 こののち、秀頼は豊臣家当主として正式に将兵を募り、豊臣と徳川による最後の決戦、大坂の陣へと備えていく事になる。


 同時刻、駿府城内───


 二人の人物が数十体の死屍しかばねに囲まれていた。

 一人が立ち、もう一人がひざまずく様にして座ったその状態で二人は会話をしていた。


「フフフ…数々の戦で勝ちをてきた徳川の精鋭も戦じゃなくて単純な闘争では存外大した事ないンだね。それとも将軍の座を譲ったアンタの所には雑魚しか置かせて貰えないのかな?…ねえ、どうする?ここで死ぬ?それとも生きる?もしも生きるほうを選びたいのならもうボクに構うのをやめなよ。アンタがボクを縛り付けようとして常に監視していた事くらい知っているンだよ。今回ボクを殺そうとした事もね」


「ま、待て姫路ひめじ!誤解じゃ!わしがお前を狙うわけがないだろう!お前の家族の件はさっき聞いたが、あれはお前の事を妬む者の仕業なのだ!わしが必ずや黒幕を突き止めて処罰してやる!だからまずは落ち着いてわしの話を聞くのだ!…ほ、ほらおいで。我が最愛のひとよ……」


 座った状態ままで許しを乞うのは家康いえやす、その家康の前に立っているのは姫路だった。


「ヤメテよ気持ち悪いな…ボクはもうアンタの所有物じゃないンだ。二度と最愛のひとなんて云ったらアンタもアンタの大事な竹千代たけちよも殺すよ…わかった?」


 竹千代は後の徳川幕府三代将軍家光いえみつであり、表向きは家康の孫だが、その実は家康が息子の秀忠ひでただの妻である小督おごうに産ませた家康の実子にして秀忠の異母兄弟である。

 家康と小督、そして姫路…この世でたった三人のみしか知る者がいない出生の秘密を抱える竹千代は家康にとって単なる隠し子ではない。

 徳川の権力が一代ではなく引き継がれるものであると世に印象付けるという理由から、本来ならばその器ではないにも拘わらず将軍の座に置かざるを得なかった秀忠とは異なり、家康は竹千代を自ら望んで将軍に置こうとしている。しかし、万が一にも秀忠と竹千代による兄弟間での権力闘争が起これば他の大名に付け入る隙を与える事になる為、家康は表向きには竹千代を自身の孫として三代目の座を確約した。

 だが、徳川三代将軍の座を確約されているこの竹千代こそが、家康にとって自身の作り上げた徳川の正真正銘の跡継ぎであり、真のなのである。尚、竹千代の母の小督は、おごうまたは江与えよとも呼ばれている茶々の妹である。現代でよく知られるごうの字は江戸に因んで改名されたという説もあるが定かではない。また、家康がその愚鈍さ故に冷遇していた二代将軍の秀忠とは異なり、三代将軍となる竹千代へ将軍の座を与える事は早々に確約され、家康が自身の暮らす駿府へ共に住まわせて教育を施していた事は史実である。

 その竹千代の名を姫路が出した事でその言葉はまさしく脅迫として成立し、竹千代の生を保つを為に黙るほかすぺがなくなった家康は黙った侭でただ頷いた。


「…それでいい。アンタのそのおぞましい言葉が、声が、アンタ自身の存在全てが気持ち悪いンだよ。同じ部屋にるだけで吐きそうになるンだからさ、せめて黙っていてくれないと弾みで殺しちゃうかも知れないンだよ。…十年前にアンタの下へ来てからずっとボクはアンタに抱かれるのが死ぬほど嫌いで狂うほどいやだったンだよ。今までずっと従順なふりをしていたけどさ、ボクはアンタの夜伽よとぎをするのがいやで厭で仕方がなかったンだ。それでもボクは耐えた。舌を噛み切りたくなる程の悪寒、眼を抉り出したくなる程の現実、耳を貫きたくなる程の災厄に身を置いた状態ままでずっと耐えた。フフ、何故だかわかるかな?アンタにわかるわけないよね。…ボクはね。アンタ以上にが嫌いだったンだ。両親アレがいて妹がいて、ボク自身がいて、何一つ不自由なく生きていた頃の八年間ずっと憑き纏っていた虚無が厭だったンだ。だからボクは両親アレに自ら提案してアンタのところに来たンだよ。アンタの慰みモノにされるとわかっていながらね。尤も、来る前にはボク自身が夜伽という行為に対して嫌悪感を抱くとは全く想定おもっていなかったけどね……」


 約十年間、家康の下で云成いいなりとなって暮らしていた姫路の口から姫路自身の想いが語られたのはこれが初めての事だった。

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