第121話「天傑の虚無者」

 ながさか姫路ひめじ

 この者は慶長九年に家康いえやすへと捧げられた子供だった。

 供える子と書いて子供…供物となった子という意味合いの子供…即ち姫路は人身御供いけにえにされた子であった。

 事の発端は二代目服部はっとり半蔵はんぞうの三男として生をけた姫路の父親が殺死合ころしあいを常とする武家社会に嫌気が差して徳川家の家老から抜けて出家を決断した事だった。

 慶長五年の関ケ原の大戦おおいくさ以後、ほんの四半世紀前迄は戦国乱世と呼ばれる程に絶え間なく戦が起きていた事が嘘の様に戦は影を潜め、世は徳川の統治下で泰平が訪れていたかに思えた。しかし、武家同士による戦が起きていないその裏側では庶民による戦、即ち荒くれ者による略奪や一揆、僅かな食物を巡る貧困者同士のいさかいが耐えなかった。更には表面上は平静を装う武家同士の政治的な軋轢あつれきに伴った要人の暗殺なども頻発し、戦国乱世とは異なる状況かたちの戦乱が世に蔓延はびこっていた。

 表向きは泰平でありながらも実際は人々の精神こころは安らぎを得ずに荒れ狂っている状況で家康は江戸へ幕府をひらいた。それから僅か一年あまりという大切な時期に古参の家老として徳川の一角を担う服部家を継いだ者の弟が出家するという事実、それが他の家老達へ与える影響が大きいと考えた家康は出家に際して姫路の父親に条件を出した。

 この時に家康が出した条件は『二人の娘の内の一人を差し出せ』というものだった。

 父母が互いに三十歳を過ぎて授かった姫路と姫子きこ、八歳と四歳の愛娘の何れかを差し出せというその条件は両親にとって酷だった。何故なら、姫路の父親は嫡男ではないものの徳川家の家老として名高い服部家に生まれた者であり、徳川関係者でも一部の者しか知らない死衆ししゅうの存在を知っていたからである。

 家康の下へ子を送る行為こと、それは送られたが十中八九死衆ししゅうになる事を意味していた。姫路の父はそれがわかっていた。

 幼い娘の内の一人を引き替えとして殺しの連鎖から家族共々に抜けるか、家族共々に殺しの連鎖の中で耐え続けるか、姫路の両親はその決断を迫られたのである。

 であれば選択を放棄してしまいたくなる程の決断を両親が迫られていたそんなある日、姫路は自らの意思で両親に対して家康の下へ行く事を打診した。

 この姫路の提案に両親は反対しつつも内心では自らの言葉くちで娘にそれを告げる苦悩から避けられたと胸を撫で下ろした。それどころか、愛娘である筈の姫路が辛い人生みちを選択した事に対し、二人は表向きは揃って悲しみながらもその実は二人共に喜んでいた。

 おおやけに徳川家へと迎え入れられるならともかく、密約を交わして家康へと引き取られたとなれば死衆にされずともまともな人生は望めない。即ち、どう足掻いてもその末路はてには地獄が待っている。そんな状況へ愛娘を送り込みながら喜んでいる姫路の両親の歪んだ情念、その理由は姫路自身にあった。

 姫路はたぐいまれなる頭脳を持って生まれた傑物だった。それも単なる傑物ではなく傑物の中でも突出した傑物であった。

 その頭脳は僅か三歳にして大人顔負けの言葉や文字を扱い、五歳になる頃には既に詩書礼楽の四つの教養、文行忠信の四つの教訓、それら二つの四教を合わせた八教を誰よりも深く理解し、誰よりも深く考察かんがえている程だった。

 当初、姫路の両親はその頭脳を歓迎した。母は天からの授かり物として大いに喜び、父は時が来れば女でありながらも天下に名を馳せる存在になると確信していた。いつしか姫路の両親は姫路の才能に対し、天から与えられた無二の傑物であるという意味を込めてと名付け、姫路自身を天傑てんけつを持つ天傑者てんけつしゃと称した。

 だが、姫路は天傑者であったが故に両親からと認識される事となった。

 天傑が異質へと変化した原因りゆうは姫路自身だった。他者の想像が及ばない程に優れたその頭脳が姫路自身を苦しめていた。

 姫路は僅か五歳にして自身を含めた万物の存在と生物の死生についておうのうし続けていた。


 なぜ生きるのか…なぜ生きのか…

 なぜ死ぬのか…なぜ死ぬのか…

 なぜ私はここにるのか…なぜ私はここにるのか…

 なぜ私は私なのか…なぜ私は私以外ではないのか…

 なぜ人は物と違うのか…なぜ物は人ではないのか…

 なぜ人は物をのか…なぜ人は人をのか…

 なぜ…なぜ…なぜ………


 姫路の脳内あたまでは常に無数の疑問が生まれ続けていた。繰り返される自問自答と他問自答たもんじとうには結論こたえすらなかった。

 結論こたえに似たものが生まれた際にはその結論こたえに対する新たな疑問が生まれた。そうして新たに生まれて改めた結論こたえは更なる疑問を生んだ。

 際限なく繰り返される無限の問答の中でいつしか姫路はへと至った。即ち、生も死も自も他も万物の全てが何の意味を為さないであるという結論こたえを抱く虚無きょむしゃとなった。


 かつて、姫路と近い境地へと至った一人の人物が存在した。

 その人物は家康が徳川と名乗る前の松平家時代の死衆として存在した男であり、姫路とは異なる極致かたちの天傑を備え持ったその男は、松平から改名した徳川の代となっても他に唯の一人として跡を継ぐにあたう者が現れず、長い死衆の歴史に於いて唯一にして無二のおさとなり得た人物だった。

 その男が姿を消して凡そ半世紀…当時を知る者が死衆の中から全て消えて久しい現在いまになって尚も死衆の神として名を遺すその男は、人生いしを持つ事を許されない死衆という存在と自分自身の存在に疑念を抱き、自身が存在する現世うつしよと自身の存在を含めた万物をとした。即ち自らを含めた世の中の全てがからであるという結論こたえに至った。

 その男が全てを空虚とした年齢は奇しくも姫路が虚無へと至ったのと同じ五歳であった。

 やがて、その男は自身の結論こたえの先にある空虚以外の何かを求める様に死衆の掟を破った。男は生きながらにして死衆を抜けたのである。


 


 これは、死衆という存在の根幹にして最大の掟である。

 だが、その男は死を与えられた死人しびととなる前の生を保った生人きびととして死衆を抜けた。

 その後、死衆時代には云われるが侭に人を殺して生きていたその男は誰にも云われぬ儘に人を殺して生き続け、戦場の中に死場所しにばしょと空虚以外のを求めた。

 そうして空虚以外の何かを探し求めながらもがく男にはたった一つだけ生きる目的が存在した。

 それは…


 


 死衆となった者と死衆という存在そのものを全て根絶こんぜつして無に帰する事。それが空虚の中で殺死合ころしあいに身を置き続けたその男の唯一の目的だった。しかし、その男は戦乱の世の中でその目的を達成する事が出来ずに遂に姿を消した。

 死衆唯一の長、死衆の神として名を遺したの男の名は空身うつせみ

 空身が名を遺す迄は誰一人として死後も名すら与えられなかった死衆達だが、その中で初めて名を名乗る事を許された男が名乗った空身という名は、現世うつしよの中で生きる全ての者という意味を為す現人うつしおみから変化した現身うつせみと空虚の空、それらを合わせて自身と万物が空虚であるという意味を為していた。

 姫路と空身は年齢も性別も生まれ育った環境も何もかも違うが、その根幹にあるものはよく似ていた。

 虚無と空虚がよく似た意味を為している様に、それらに至った二人の心魂こころが抱いたもの、二人が欲したものは近かった。

 それは、虚無や空虚ではない何か…即ち虚無や空虚以外の全てであった。二人は天傑であるが故に五歳にして虚無や空虚以外の何もかもを感じることが出来なくなっていた。

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