第118話「孤独と自由」

 秀頼ひでより茶々ちゃちゃを気絶させた事によって慶一郎けいいちろうと秀頼は二人きりになった。

 同じ血の宿命を背負う二人は予期せぬかたちで対面し、他の者に介入される事なく二人だけで語り合う瞬間が訪れた。


「……まこと、すまないね。また見苦しい所を見せてしまった」


 慶長三年八月十八日に父であり天下人であった秀吉ひでよしが死んで以来、実に十六年ぶりの涙を流した秀頼は二十歳を過ぎているとは思えぬ少年の様な顔になっていた。

 慶一郎は義兄あにの言葉に何も答えず、ただ黙って優しい眼差しを送りながらゆっくりと首を横に振った。その慶一郎に対して微笑みを返す秀頼の眼差しもまた優しかった。

 ほんの少し前迄の秀頼とは全く異なる秀頼がそこにいた。

 肉体からだこそ大きいが、その眼差しはまさしく純粋にして無垢むくな少年そのものであった。

 秀頼の肉体は大きかった。

 たけ六尺五寸あまりという時代に削ぐわぬきょを与えられながらもその大きさをかせぬ立場にまれ、豊臣の衰退と共に肉体は大きく膨らみ心魂こころは小さく萎み続けた。

 目方めかたにして四十三貫超に達する秀頼の肉体には、死ぬ日を待望して生きた日々のおうのうで満ちていた。

 だが、秀頼は遂にその大きく膨らんだ肉体を捨て去り、溜まりに溜まった懊悩を吐き出す瞬間を得た。


「…さてと、未練が強くなる前にやってくれないか?死ぬ日が来るのを待ち望み、君の噂を耳にした時には君にだったら斬られてもよいと思ったが、存外僕も俗物の様だ。やっと訪れたこの瞬間になって少し未練が生まれてしまったよ…」


 

 確かに秀頼はそう云った。

 自身に成り代わって世を安寧で満たす者を待っていた男が未練と云った。生まれて初めて感じた未練だった。

 死への未練…即ち生への

 秀頼は二十年あまりの人生の中で初めて生きていたいと感じ始めていた。それは、自身が死ぬ事に対する他者の想いに触れたが故の感情であった。

 この日、秀頼は生まれて初めて自身の死によって心魂こころから悲しむ者がる事を知った。自身が死んだところで世の人々は意に介さなくとも、ただ一人、茶々だけは悲しむという事に気がついた。


秀頼ひでより殿…あなたは何故、私になら斬られてもよいと云うのですか?この大坂の地に流れる立花たちばな慶一郎けいいちろうの噂の何があなたを決心させたのですか?立花たちばな慶一郎けいいちろうに何を見て世の中を託そうとしているのですか?」


 慶一郎は訊いた。

 自身に対する秀頼の信望、その原因りゆうを明かさんが為に問いただした。

 立花慶一郎という人物がさも他人であるかの様な物云いをする慶一郎の言葉遣いは既に敬語となっていた。


「君には…立花たちばな慶一郎けいいちろうには一切のしがらみが感じられない。死ぬも生きるも完全なる自由。誰にも縛られず、誰にも操られず、誰にも止められない。善も悪もない。ただ一つ自らにって決断し、自らにって生きる」


「そん…」


「そんな事あるよ」


 秀頼は慶一郎の云おうとした言葉を遮った。


『そんな事はない』


 慶一郎は、自分がそれ程に達観した人間ではないと否定しようとした。しかし、秀頼がそれをさせなかった。


「ははは、遮ってしまってすまないね。けれど、そんな事はあるんだよ。生まれながらに柵と不自由にる僕にはわかる。例え君自身がこれ迄の君の生様いきざまをどんなに卑下しようとも、それは君の責任せいじゃない。君にも悩みはあるだろう。君にも辛い事はあるだろう。けれど、君は自由と共に生きている。自由を抱いてきている。自由を愛し、自由に愛された孤高の剣士。…それが君さ」


「………」


 慶一郎は何も云わず、秀頼の言葉を聞いた。

 秀頼の発する言葉の一つ一つが慶一郎を包んでいた。


「恐らく…君は長い間僕よりもずっと深い孤独を感じていたのだろう。何があったのかはわからないけど、僕よりも若く見える君のかおには君の歩んできた人生みちが宿っている。悲しみ、悩み、苦しみながら孤独に包まれて生きてきた君の人生じんせいがね。どんなに孤独でも苦しくても君は誰かを他由たよる事をせずに自由を貫いてきた。君には自分自身を背負うからこその自由が共に在る。自分自身を背負えずに誰かに背負わせようとして生きてきた僕の人生じんせいとは重みが違う…」


 秀頼の云った通りだった。

 慶一郎は僅か数カ月前迄は圧倒的な程の孤独に包まれていた。

 自身に懊悩し、世の中に懊悩し、生まれた事と生きている事に懊悩し、孤独の中でただ独り生きていた。

 だが、慶一郎は運命に巡り合った。

 早雪さゆきという女と出逢い、宿命と戦う覚悟を決めた。

 その決断をさせたのは紛れもなく慶一郎自身であり、自らに由った決断だった。


「……秀頼ひでより殿」


「なんだい?」


「私は本来右利きです」


「へえ、そうなのか。右利きなのに左手で刀を扱うとは珍しいね」


 唐突な慶一郎の言葉に秀頼は素直な言葉を返した。


「故あって普段は箸も筆も刀も左手で扱う様にしていますが、右手での剣の鍛練を欠かした事はありません」


「それが、どうかしたのかい?」


「いえ、どうもしません。ただ、私が左よりも右の方が得意である事を伝えておこうと思っただけです」


 そう云うと慶一郎は右手で鞘を持ち、納刀した状態まま身体からだの右側に据えていた刀を左手で持ち直し、身体の左側へ据えるとそっと右手を柄に添えた。

 そして…


「はあっ!!!」


 風を斬り裂く様な音の後で何かが地面に落ちる音がした。

 運命の日…

 時刻は亥の刻に差し掛かっていた時の事だった。

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