第115話「姫ちゃん」

「なにっ!?むうっ!?…だってさ!アハハハ!よかったねキミ達、ボクに殺されなかったお陰で間抜けな反応が出来たね」


 音もなく又兵衛またべえ義太夫ぎだゆうの前に現れたその者は二人を嘲笑うかの様にそう云うと、距離を取って二人と向き合った。


「…義太夫ぎだゆう、お前アイツが近づくの気づいたか?」


「否。彼奴あやつが声を発するまで接近する気配すら気づかなんだ。お主こそどうだ?他人ひとの虚を衝いて間合まあいを詰めるのはお主の得意わざであろう?」


の業は互いが互いの存在を認識している状態で隙を衝く業だ。相手の無意識の中に俺がいて、尚且つ他事ほかごとを気にしている状態の相手でこそ虚を衝ける。そこに俺がると相手が認識しなきゃ決まらねえ…だが、アイツのはそうじゃねえ。俺達はアイツの存在を認識するどころか俺達以外がここにいるなんて思っちゃいなかった。だったんだよ…そんな状態の奴に虚なんざねえ。俺の業とアイツのやった行為ことわけがちげえよ……」


 二人は突如現れたその者を見据え、間合を保った状態ままで互いに互いを確認した。その者の接近に気がついたか否か、ただそれだけの確認であったが、言葉を交わす二人には死地へ赴く戦人いくさにんの纏う緊張感があった。

 特に又兵衛は、自身の得意業であり慶一郎けいいちろうにも通用した意識の中にある無意識を衝いて間合を詰める業とその者が行った行為の決定的な差違ちがいについて語り、その行為の困難さと異常さを説いた。

 この時、又兵衛は現れた者の実力ちからを認めて心魂こころから一切の邪念かざりを捨てた。即ち自らの武に対する自信や慢心、そして矜持までを全て捨て去り、強さをまと強者もののふではなく、その身に唯一、のみを纏う武士もののふとなった。


 


 又兵衛のその行為は、勝てる望みを無くした末の捨身すてみではなく、勝ちへの望みを求めるが故の捨自すてみだった。

 捨自すてみとなった又兵衛は無意識に口調が変化し、自身を俺様ではなく俺、相手をおめえではおまえと云っていた。

 又兵衛が捨自すてみとなった最大の原因りゆう、それは突如現れたその者が云った言葉通りの事実を事実の侭に受け入れた事に起因していた。

 その言葉とは、「その気ならキミ達二人はもう殺されてる」という言葉である。


「あ、あなたもしかして…!?」


「ん?ありゃりゃ…キミは姫子きこかい?」


義太夫ぎだゆう!」


「応ッ!」


 突如現れた者に姫子が言葉を放った事が合図となった。

 姫子の言葉にその者が応えた瞬間に又兵衛と義太夫が同時に飛び掛かった。


「オラァっ!!!」


「ぜあっ!!!」


「フフ、遅いよ……」


「ぬうっ!消えた!?」


 義太夫の扱う両手の小太刀による左横薙ぎと又兵衛の右横薙ぎによる同時攻撃はどちらも当たらず、そのかわす動きの素早さ故に義太夫は一瞬にして相手が姿を消した様な錯覚に見舞われた。


「上だ義太夫ぎだゆう!」


「残念。もう後ろにいるよ」


「な!?ぐおっ!!」


「又べ…っ!!?ぬぐううっ!!」


 二人の攻撃を躱したその者は又兵衛の認識よりも早く動き、又兵衛が上だと感じて声を発した瞬間ときには既に真後ろにいた。そして真後ろから又兵衛の背中へ左手で掌底を放ち、右手で義太夫の後頭部を鷲掴みにして床へ組伏せた。


「ぐごおあああああああああ!!!」


 地鳴りの様な声が辺りに響いた。

 それは、義太夫の叫び声だった。

 人間離れしたきょが生み出す怪力無双を誇る義太夫が細身のその者によって片手で床へ組伏せられ、為す術もなく自らの頭を潰されていく苦痛に悶えていた。


「ぐ…かはっ……こ、このクソヤロウが…くはっ…ぎ…義太夫ぎだゆうを放しやがれッ!!」


 又兵衛は掌底による一撃により息が詰まらせながらも義太夫の頭を掴むその者へ向けて叫んだ。

 徒手による打撃をたった一撃受けただけで呼吸も儘ならない自身の不甲斐なさとほんの数秒立合たちあっただけで思い知らされた実力差…

 かつてない屈辱を感じながらも又兵衛は友の為に立ち上がり、戦人いくさにんの意地を突き通す気概を見せた。だがそのじつは、心魂こころに反して肉体からだは動かない為に声を発するのが精一杯なのであった。

 この時、又兵衛は既に悟っていた。

 その者と又兵衛達の力量には気概だけでは決して埋まらない程の差があり、この場の生殺与奪の権利は目の前にいる華奢なその者が有している、そう認めざるを得なかった。


 殺される…ここが俺の死に場所なのか…義太夫が殺される…それを見せられた後で俺も殺される…死ぬ………

 死ぬ?俺が?こんな事で俺が死ぬのか?

 死ぬ…俺が弱いから死ぬ…のか?

 そうか…どうやら俺は弱かったみたいだな…世間はまだまだ広い…慶一郎とコイツはどっちがつええのかな…?


 ほんの一瞬未満の出来事だった。

 圧倒的実力差を感じ、友と自身がこの場で殺される現実を意識した又兵衛の頭の中に死に対する想いが去来し、又兵衛は死のを感じた。

 そして…


「があああああああ!!!」


「うるさいな。このおっきいのをったらキミもすぐに…っ!!?………コイツは驚いた。まさかこの瞬間に完全な無を為すとは…無言で投げてたら或いは当たってたかもね。フフ…奇妙おもしろいよ、キミ。ここで殺すのは勿体無いな……」


 又兵衛は手にした刀を投げていた。

 それは、身動きが取れない又兵衛が無意識に行った最期の足掻きだったが、その足掻きは思わぬ結果を招いた。

 投げた刀は義太夫の頭を潰そうとしたその者目掛け一直線に飛び、結果的には肩を掠めただけで壁へと突き刺さったが、この僅か十秒程前に又兵衛と義太夫による同時攻撃をいとも容易たやすく躱していたその者が、自身に向けて投げられた刀の接近に直前まで気がつかずに当たりかけた。

 その原因りゆうは、又兵衛達と対峙しているその者が高度な読合よみあいを得意とし、相手のを感じて相手が動き出す前に動きを予測する事で先の先を取っていたが、刀を投げた瞬間の又兵衛は完全な無意を為して動いたが故に又兵衛の攻撃の点を察知する読合に僅かな遅れが生じた事だった。


「……ごちゃごちゃ云わずにれよ。俺を殺せ」


「…キミは死にたがりなのかい?ボクは見逃してあげようとしてるンだよ?」


「要らねえよ、そんな情け。やっと呼吸も整って少し動ける様になってきたんだ。さっさと殺さなきゃ俺は素手でも襲い掛かるぜ?」


「バカ云わないでよ。キミが立って喋るのがやっとな事くらいわかるよ。ボクはね、人間のがわかるンだよ。どこを怪我しているか、どこを患っているか、どこが弱いのか…視ただけでなんとなくわかるンだ」


「そのわりに我輩の事はわからぬ様だな…ぬうんッ!!!」


っ!!?くっ!」


「ぬがっ!!……ぐふ!」


 又兵衛と語り合う間に頭を押さえ付ける右腕の力が僅かに弛んでいった事で義太夫は抵抗する力を取り戻し、両手で右手首を掴むと力任せに握り潰そうとした。しかし、その瞬間に義太夫の肉体は宙を舞い、天井へとぶつかって床へ落ちた。


「…フーン、キミもボクを驚かせてくれるンだね。おっきい分だけ他の奴よりチョット骨が頑丈かたいだけかと思ったけど、まだ意識があるとはね。どうやら単に骨が頑丈いだけじゃなさそうだ。フフ…キミ達、真実ほんとうに奇妙いよ。キミ達はもっと強くなれるよ。それも短期間でね。だから今日は殺さないであげる」


「見下すんじゃねえ!今ここで俺を殺さなきゃお前は俺がこの手で殺す!必ずだ!」


「いや……我輩が……殺す…必ずな……」


「フフ…必ず殺す、か。キミ達には必死の方がお似合いだよ。でもまあ、その言葉は覚えておこうかな。次はキミ達がボクを必ず殺してくれると信じているよ。それじゃボクはもう行くよ。強くなったらまた会おうね。…あ、そうだ。姫子きこ、キミがこの二人とどういう関係かは知らないけど、どうやらアレをやったのはこの二人じゃないみたいだね。をしようと思って匂いを辿ってきたのに無駄足だったよ。いや、愉しめたから無駄ではなかったかな」


「あ…ダメ…い、行かないでおね…むぐ!」


 又兵衛と義太夫の二人を相手に圧倒的な武を以て格の違いを示したその者に対し、一切の恐れを抱かずに話す姫子の口をその者の左のてのひらが優しく塞ぎ、姫子の発する言葉を遮った。


「ダメだよ姫子きこ。その言葉はもう二度と言葉くちにしてはいけない。十年前に別れた時にボク達のえにしは切れたんだよ。サヨナラ、姫子きこ…アレがこの世からいなくなったんだ、もう二度とボク達が会うことはないだろう……」


 そう云うと、その者は音もなくその場から去った。

 その者が去ってから程無くして又兵衛、義太夫、姫子の三人は宿に起きている異常に気がついた。

 宿場町の中にあるその宿にいた全ての人間が三人を除いてみなごろしにされていた。

 その総数は客も含めて実に二十八人。その者は又兵衛と義太夫に察知されずにこれだけの人数を殺していたのである。


「クソ…いてえな…折れちゃいねえがこりゃ骨だな。…義太夫ぎだゆう、死んでねえだろうな?」


 宿の惨状を目の当たりにした三人は一先ず部屋に戻り、死体が発見されて騒ぎとなる夜明け前に宿を発つ事にし、それ迄は肉体からだを休める事にした。


「むはは…視界が揺れ動いて眼が霞むがまだ生きておるわ…だが、ちと頭が痛む。我輩も折れてはおらぬがな……」


「はっ、石頭が幸いしたな。…おいお嬢ちゃん、何者だアイツは?知り合いなんだろ?」


「あの人はひめちゃん…あなた達が探していたながさか姫路ひめじです」


「なにっ!?」


「なんとっ!?」


 姫子の言葉に又兵衛と義太夫は二人共に驚きを隠せなかった。それは、姫子の家に関わっているとして二人が探していた姫路が二人の想像していた姿とかけ離れていたからであった。


「あの野郎がながさか姫路ひめじだと!?んなわけあるか!俺様の知る限りながさか姫路ひめじってのはもっと…」


「もっと屈強な人、そう思っていました?」


「うむ。その通りだ。確かにあの者は我輩ですら手も足も出ないほどの膂力りょりょくを持ち、その力量は計り知れない程に凄まじかったが、噂ではながさか姫路ひめじという者は…」


「悪鬼羅刹、修羅の権化…人在らざる者、そう思っていました?」


「…まあな。俺様は噂を真に受けるつもりはねえが、視た者が震え上がると聞きゃああんなとは思わねえよ」


やさおとこ?それって一体…」


「優男というのはともかくとして、あの無邪気な姿はまるで若い女子おなごではないか。奴同様に女子おなごの様な容姿でありながら凄まじい実力ちからを持つ者をもう一人知っておるが、徒手であの実力ちからを持つとは流石に予測も出来ぬわ」


女子おなごの様な?あなた達は何を…」


「何って、お前の兄のながさか姫路ひめじだよ。あの野郎バカにしやがって…」


「兄として妹を気にかけていた様だが、両親や弟達が殺された事には無関心とはのう…如何に自身が家を出た後に生まれたとは云えども弟は弟であろう…兄失格じゃ」


ひめちゃんは兄ではありませんよ…」


「あぁん?おめえな、今更他人のふりをしても無駄だぞ。こっちもそれなりに調べてあんだ。それに何よりも死衆ししゅうが来たのが証拠だ」


「いえ、ひめちゃんが私の家族である事は間違いないですけど…」


「ではなんだというのだ?勿体振らず云うがよい」


「はい。ひめちゃんは私の兄ではなくです」


「!!!」


 長坂姫路が女であった。その事実に又兵衛も義太夫も沈黙するほかになかった。

 そして、二人は沈黙の中で姫路の抱える秘密と家康が姫路とその実家を闇に葬ろうとした真の原因りゆうを悟った。

 室内には微かにお香の匂いが残っていた。

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