第105話「河豚料理」

「なにっ!?消えたと申すか!?きいいー!警備の者達は何をやっておるのじゃ!その侵入者は恐らく彼奴あやつ…いや間違いなく彼奴に違いないのじゃ!送り込んだ刺客達が戻って来ぬのはあの男がまだ生きておるからなのじゃ!即刻捕らえよ!急げ!急ぐのじゃ!奴を捕らえねば拾丸ひろいまるが斬られてしまう!急ぎ捕らえて打ち首にするのじゃ!殺せ!必ず殺せ!今すぐ立花たちばな慶一郎けいいちろうを殺してその首を持って来るのじゃ!彼奴の首を持ってこなければ今宵の警備を担当した者共は皆打ち首じゃ!そこの男!お前もじゃ!死にたくなくばあのを殺して参れ!そこの女!お前もじゃ!お前もお前も!男も女も関係ない!さっさと行くのじゃ!城内に残る全ての人間で奴を捕らえるのじゃ!」


 城内の様子を報告にきた男に対して理不尽な言葉を投げ掛けたのは茶々ちゃちゃである。

 二の丸内に何者かが侵入したと聞いた茶々はすぐに慶一郎を思い浮かべ、秀頼ひでよりの幼名である拾丸の名を呼びながらその身を案じた。茶々は侵入者が慶一郎である事を知っていた。否、知らずともわかっていた。

 侵入者が慶一郎だとわかっている茶々は、その目的が秀頼の暗殺であると感じ、得も云われぬ不安感にさいなまれ、近くにいる者達に理不尽な怒りをぶつけたのだった。

 この日より二日前、茶々と慶一郎は城外にて会っていた。

 それは、秀頼を訪ねる為に大坂入りした日の事…慶一郎がその方法のを考えていた時だった───


(この先はどうするべきか…義兄弟だから会わせろと云って通る筈がない。だが、私は一刻も早く義兄上あにうえ会わなければならない。運命はもう動き出している。悩む猶予ひまなど与えてくれない……)


 江戸へ行かず、大坂へと来た慶一郎は有無を云わさず秀頼のもとに推参するか、それとも真田家あるいは後藤家の人脈つてを頼って正々堂々と謁見を求めるか、如何にして会談の場を作るかについて考えていた。

 しかし、慶一郎は自分がどんな方法を選択するにしても悩んでいる時間はないものと結論付けていた。それは徳川との戦に向けて動き始めている運命の奔流を感じていたが故の結論だった。


「うおっ!?なんだこりゃ!?おい慶一郎けいいちろう、おめえも喰え!この河豚ふぐとかいうやつ滅茶苦茶旨えぞ!それに…くあー!こいつぁ酒に合うぜ!」


 慶一郎の隣で河豚料理を喰いながら酒を呑んでいるのは喜助きすけである。河豚は古くから大坂で愛食されており、名物の一つと云っても過言ではない。

 喜助は初めての河豚料理に舌鼓を打ち、目の前で箸を止めた状態ままの慶一郎に対して河豚を喰うことを奨めた。二人は大坂迄の道中ではまともな食事をせずに直行した。そうして大坂に着いた早々に宿探しをしようとした慶一郎に対し、喜助は「宿探しもいいが、先ずはちゃんとした料理を喰って腹ごしらえだ。腹が減っては戦に勝てねえだろ?」と提案し、慶一郎はその提案に対して「腹が減っては戦には勝てない。云い得て妙ですね。…わかりました。ただし、日暮れも近いのですから手短に済ませましょう。酒は一杯だけですよ?」と了承した。

 しかし、喜助の喰っているこの河豚料理、書簡などによる物的証拠はないが、当時既に喰う事を禁じられていたと云われている。その原因りゆうは云わずもがな河豚の有する毒であり、禁じたのは豊臣とよとみ秀吉ひでよしであるという逸話も残されている。


「……いえ、私は念のため河豚は喰わない事にしていますので。良ければ喜助きすけ殿が私の分も喰ってください」


「おっ!?ありがてえ!じゃ遠慮な…おい待て。念のためってのはどういう意味だ?」


「あ……いえ、何でもありません」


「何でもねえわきゃねえだろ。おめえ今、何かに気づいてっつったろ?今のは念のためについて指摘された事に対して思わず漏らしちまっただ。隠しても無駄だ。さっさと云え」


 喜助の指摘した通り、慶一郎は思わずその言葉を漏らしていた。喜助が河豚に毒があると知らずに喰っている事に気がついたからである。

 先に云った「念のため」という言葉とその直後に出た「あ」という一文字、それらの言葉は慶一郎がに放っていた言葉だった。これは、喜助きすけが慶一郎にとって真実ほんとうの意味で気の置けない仲になっているという証であった。

 信頼しているからこそ自然に出てしまった言葉、その意味について喜助から執拗に問い詰められた慶一郎は正直に河豚には毒があるという可能性について告げた。だが、それを聞いた喜助は「なんだ毒か。そんなら別にいいや」と事も無げに云い放ち、平然と河豚を喰い続けた。


「…なんというか、喜助きすけ殿らしい反応ですね。毒があるかも知れないと云われて気にも留めないとは」


「んあ?まあな。子供がきの頃に散々毒茸や毒草を喰って何度も死にかけたから今さら毒なんて気にしてらんねえよ。それにもし俺が喰ってるもんに毒があんなら俺の肉体からだが教えてくれる。だからこの河豚とやらは無毒へいきだよ。やっぱおめえも喰えよ。漬物つけもんと汁だけじゃ足んねえだろ」


「………いえ、私は喜助きすけ殿の食事を見ているだけで満たされてきたので今は結構です。帰りしなに握り飯でも作って貰いますから気にしないでください」


「そうか。なら遠慮なく」


 喜助は慶一郎の前にある河豚料理が盛られた皿を自らの前に引き寄せた。

 食に無頓着なうつろに育てられた喜助は幼少時より野草や茸を喰ってきた為、毒に対して耐性が出来ており、常人ならば中毒を起こす物であっても平然と喰える肉体からだになっていた。尚且つ、喜助きすけの持つ毒への耐性が通じない程の毒を有している物を喰った際には瞬時にそれに気がつくという能力も備わっていた。


「…ところで喜助きすけ殿、江戸へ行かなくてよかったのですか?米沢を発つ際に江戸へ用事があると云っていたでしょう?」


「ああ、あれか。ありゃあもう解決した」


「解決?」


「ああ、水戸でな」


「水戸で?…なるほど、そういう用事だったのですね」


「おう!そういう用事だったんだよ。だがもう済んだからおめえと大坂に来れてよかったよ。噂によると大坂はうめえ喰いもんが多いらしいからな」


(大坂へ食事を楽しみに来たわけではないのですが、喜助きすけ殿のその気楽さが救いになります)


 あの日、慶一郎が大坂行きを決断きめた山小屋で慶一郎達は朝を迎えるまで誰一人眠らずに語り明かした。そして、明るくなると同時に行動を開始して二手に分かれようとした。

 喜助は予定通りに義太夫ぎだゆうと二人で江戸へ、慶一郎は大坂へ向けて歩みを進めようとした。しかし、朝になって意を唱えた者がいた。又兵衛またべえである。

 本来、又兵衛は慶一郎と共に大坂へと来る筈だった。その理由は又兵衛の持つ人脈である。

 既に牢人となっていたものの、かつて豊臣の中枢にいた黒田家に仕えていた後藤家当主としての伝がある又兵衛は豊臣関係者と少なからず繋がりがあり、又兵衛が慶一郎に協力するか否かは別として、その存在は大きく、慶一郎が秀頼との会談の場を作るきっかけとなり得る人物だった。だが、又兵衛は慶一郎と共に大坂へは来なかった。

 それは、慶一郎が喜助と義太夫に別れの挨拶を済ませた直後だった。

 二手に分かれ、互いに歩もうとした瞬間、突如又兵衛が「わりいな…気が変わった。俺様は江戸へに行く。だから喜助きすけ、おめえは慶一郎こいつと一緒に大坂に行け。大坂で慶一郎このバカが無茶しねえ様に見張れ。それと…こいつは俺様の愛用している扇子だ。この扇子をおめえに預ける。。わかったな?」と云って大坂に着いていく役目を放棄し、代わりに喜助にその役目を任せた。

 これは又兵衛の気紛れであり、運命の導きとも云える出来事だった。

 出立寸前になって慶一郎と喜助で来る事になったこの大坂の地で、二人はある人物と再会する事になる。


「くううー!なんてうめえんだ。こんなうめえのに何で他のところで喰えねえんだ?勿体ねえなあ」


又兵衛またべえ殿と喜助きすけ殿はどこか似ている気がする…喜助きすけ殿は又兵衛またべえ殿ほど計算高くはないが、根幹にあるものが近いのかも知れないな。だからこそ私も喜助きすけ殿も又兵衛またべえ殿をすぐに受け入れられたのだろう)


「この場にいる者は全員動くな!!」


 突然店の中に響いたその声はまるで、慶一郎と喜助が大坂入りした事に対して運命が応えた様だった。

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