第95話「江戸入り前日」
慶長十九年六月二十四日。
この日より、慶一郎は賞金首ではなく単なる町人に戻った。それは即ち、慶一郎にとって不本意な争いが減ることを意味していた。
「良かったな
(何故今更になって撤回する?水戸藩の一件で関わった
「おい
「え?ああ、すみません。少々考え事をしていました」
「へえ、珍しいな。お前が話も聞こえねえくらい考え事をするなんてよ。普段は話ながら別のこと考えてそうなのにな。…もしかしてまたあの野郎の事を考えていたのか?それともあの得体の知れねえ奴の事か?」
あの野郎とは藩主代理の男であり、得体の知れない奴とは
「…いえ、そうではありません。ですがあの二人が何者なのかは気になっています」
慶一郎は
「結局、藩主代理の野郎の正体も
「ええ、藩主代理の男が自分自身の事も何もかも忘れてしまう程の状態とは予測出来ませんでした。死んでいった者達…いえ、私が殺した者達の想いを考えるとあの結果で良かったと云えるのでしょうか…」
「…さあな。だが、少なくとも生き残った奴等…阿片を造らされていた町人にとってはあの結果は悪い結果じゃなかったと思うぜ」
「…そうですね。ありがとうございます。その言葉で迷いが消えました」
「おう、そりゃあいい。つかお前よ、いつもあんな真似してんのか?」
喜助は唐突に気になっている事を訊いた。
それは、水戸で藩主代理の男を引き渡した時の慶一郎の行動と以前にも何度か見た行動についての質問だった。
「あんな真似とは?」
「髪の毛だよ。お前あの野郎を引き渡した時に部下だか何だかの髪の毛を渡しながら何か云ってただろ?それだけじゃねえ、誰のかは知らねえが何度か埋めてんの見たぞ」
それは、水戸藩を相手取り戦ったあの夜の事だった───
「どうかね?そなた達にとって良い条件とは云えんかも知れぬが、我々としてはそなた達がこの男を探し出してくれたことに対する最大限の譲歩だ」
「………ここにいる町人達は皆が藩主代理の男の息の掛かった役人によって無実の罪によって捕らえられた者達です。手打ちにするならば我々だけでなくこの者達も放免にして頂きたい。それと、
「おい
水戸藩筆頭家老の
それに納得が出来ずにいた喜助は慶一郎に対して語気を強めて問い掛けたが、慶一郎は冷静に答えた。
「この決断に是非はありません。先程も云いましたが私達は負けたのです。本来ならば有無を云わさず条件を呑む以外に道はないところを私が
「だからって…おっさん?」
「
「…何が云いてえんだ?」
「戦とは、思想のぶつけ合い。だが、時に己の思想を曲げて我慢を強いなけば為らぬものなのだ。
「あ?急になんなんだよ?」
「これこそが戦をやる上で一番大切な総大将の器だ。総大将は時に我慢しなくてはならないものなのだ」
「!!?」
総大将…
その言葉で喜助は慶一郎の
慶一郎が宣言して始めた戦により敵と云えども多くの者を
この日、慶一郎の始めたこの戦の発端は水戸の民の為であり、戦の終結もまた水戸の民の為であった。
そして、戦を始めた側の総大将として引き際を誤れば戦は混沌に包まれる事を慶一郎は本能で悟り、それを終わらせたのだった。
「
「感謝します。では…奴をここに」
慶一郎が声をかけると町人に連れられて奥から藩主代理の男が現れた。
「キケケケケケ!!俺のオレオレオレオレ!俺の話をキケケケケケ!!」
「なんと!?この老夫があの暴虐非道の男の正体だと云うのか…!?」
中山は藩主代理の男の素顔に驚きを隠せなかった。
若く見積もっても七十代後半、或いは百歳近くに思える程の老夫に藩を我が物にされ、それに一定数の人間が従っていたというのは家老の中山にとっては屈辱とも云えた。更には
ざわめく水戸藩の者達を他所に慶一郎は口を開いた。
「
「うむ」
「最後に一つだけ…」
慶一郎は中山の前に座らせた藩主代理の男に近付くとバサラ、ユラ、ギドウ、三人の聾唖者の髪が包まれた懐紙を取り出した。
「理解出来るかわからぬがよく聞け。これはお前を慕う者とその者を慕う者達の髪だ。ここにいる者もいない者も役人達はお前に従ったのではない。利に傾いただけだ。だが、この髪の主…バサラだけは
話を終えた慶一郎は藩主代理の男の手に懐紙を握らせた。
藩主代理の男はそれを握りながら相変わらず狂った様に大声を出していた。
(バサラ…約束は果たしました。ですがあなたの
───髪の毛と共に最期の言葉を伝えるというその行為、それは慶一郎にとってバサラという存在との出逢いが重要なものであったことを表すと共にバサラの想いを届けるという特別な行為だった。
「藩主代理の男にした行為と
「贖罪だあ?」
「ええ…以前の私は殺めた者の亡骸を埋葬する事が出来ぬならばせめて髪くらいは見晴らしのよい場所に埋葬してやろうと決め、可能な限りそうしてきました」
「へえ、そうなのか」
「はい」
「…ん?待てよ。以前ってことは…」
「ええ、もうやめました。あの夜に水戸を獲ると宣言した時…いえ、もう少し前ですね。私が自分自身の宿命も運命も
「ふーん…よくわからねえが、要は気持ちの問題だろ?なら
「!!!」
慶一郎は喜助の言葉で気がついた。
決断に縛られて自分自身の行動を狭めることはなく、時には自由に決めることも必要であると…
「そりゃあ水戸に行く前に会った
「…なるほど、そうですね。ふふ」
(
二人は以後も会話しながら義太夫が手配した山小屋へ向かった。顔の広い義太夫は水戸を出てからずっと昼過ぎになると慶一郎達から先行して道を進み、三人が安全に宿泊出来る場を確保すると様々な手段を用いて二人に連絡していた。
この日は慶一郎の罪が消えた触状が発行された事もあり、道中にある茶屋の娘に「触状に描かれた者が髪型を変えてやってくるから伝えてくれ」と直接を頼み、その茶屋娘が慶一郎達に山小屋の場所を伝えたのだった。
江戸から程近いこの山小屋は義太夫の知人の住職が管理している修行僧用の小屋であり、無宿人や
この小屋で慶一郎は思わぬ人物と出逢うことになる…
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