第95話「江戸入り前日」

 慶長十九年六月二十四日。


 慶一郎けいいちろう達が水戸を発ってから四日が過ぎたこの日、慶一郎にとって朗報と云える出来事があった。凡そ二ヶ月半前に公布された立花たちばな慶一郎けいいちろうの首に金二百両の賞金を懸けるという触状ふれじょう、それを撤回する触状が突如公布されたのである。

 この日より、慶一郎は賞金首ではなく単なる町人に戻った。それは即ち、慶一郎にとって不本意な争いが減ることを意味していた。


「良かったな慶一郎けいいちろう。これで一先ずは宿に泊まれるな。町人が刀を持つのが気に入らねえって武士や武芸者は相変わらずだろうが、宿のあるじから寝首を掻かれる心配はねえ。それに偽名も使わねえで済むし、江戸での調査は少しは楽になるかもな。…と云っても殆ど使わなかったけど」


(何故今更になって撤回する?水戸藩の一件で関わった中山なかやま殿が根回しをしてくれたとは考えられない。そもそも単なる藩の家老程度の権力ちからではここ迄の根回しは出来ない。とすると一体……)


「おい慶一郎けいいちろう、聞いてんのか?」


「え?ああ、すみません。少々考え事をしていました」


「へえ、珍しいな。お前が話も聞こえねえくらい考え事をするなんてよ。普段は話ながら別のこと考えてそうなのにな。…もしかしてまたあの野郎の事を考えていたのか?それともあの得体の知れねえ奴の事か?」


 あの野郎とは藩主代理の男であり、得体の知れない奴とは長坂ながさか姫路ひめじと名乗った者の事である。


「…いえ、そうではありません。ですがあの二人が何者なのかは気になっています」


 慶一郎は喜助きすけの言葉に合わせるかたちで話を進めた。


「結局、藩主代理の野郎の正体も長坂ながさかとか云う奴の事も何もわからなかったもんな」


「ええ、藩主代理の男が自分自身の事も何もかも忘れてしまう程の状態とは予測出来ませんでした。死んでいった者達…いえ、私が殺した者達の想いを考えるとあの結果で良かったと云えるのでしょうか…」


「…さあな。だが、少なくとも生き残った奴等…阿片を造らされていた町人にとってはあの結果は悪い結果じゃなかったと思うぜ」


「…そうですね。ありがとうございます。その言葉で迷いが消えました」


「おう、そりゃあいい。つかお前よ、いつもあんな真似してんのか?」


 喜助は唐突に気になっている事を訊いた。

 それは、水戸で藩主代理の男を引き渡した時の慶一郎の行動と以前にも何度か見た行動についての質問だった。


「あんな真似とは?」


「髪の毛だよ。お前あの野郎を引き渡した時に部下だか何だかの髪の毛を渡しながら何か云ってただろ?それだけじゃねえ、誰のかは知らねえが何度か埋めてんの見たぞ」


 それは、水戸藩を相手取り戦ったあの夜の事だった───


「どうかね?そなた達にとって良い条件とは云えんかも知れぬが、我々としてはそなた達がこの男を探し出してくれたことに対する最大限の譲歩だ」


「………ここにいる町人達は皆が藩主代理の男の息の掛かった役人によって無実の罪によって捕らえられた者達です。手打ちにするならば我々だけでなくこの者達も放免にして頂きたい。それと、水戸ここから少し離れた集落にもまた藩主代理によって地獄を味わった者がいます。その者に対しても出来る限りの支援をするならぱその手打ち案を呑みましょう」


「おい慶一郎けいいちろう!良いのかよ!?」


 水戸藩筆頭家老の中山なかやま佐助さすけ信吉のぶよしの提案に対し、慶一郎は地下から救い出した町人達の身の安全と水戸藩を獲るという決断のきっかけとなった老夫の救済を条件にそれを受け入れると云った。

 それに納得が出来ずにいた喜助は慶一郎に対して語気を強めて問い掛けたが、慶一郎は冷静に答えた。


「この決断に是非はありません。先程も云いましたが私達は負けたのです。本来ならば有無を云わさず条件を呑む以外に道はないところを私が中山なかやま殿に甘えているに過ぎません。負けた以上は全てを失う…それがいくさの本質なのだと私は思います」


「だからって…おっさん?」


 義太夫ぎだゆうが喜助の肩を掴んで言葉を遮った。


喜助きすけよ、お主は闘争の経験は有れど戦は経験した事がないのであろう?」


「…何が云いてえんだ?」


「戦とは、思想のぶつけ合い。だが、時に己の思想を曲げて我慢を強いなけば為らぬものなのだ。喜助きすけ、この立花たちばな殿の姿をよく見ておけ」


「あ?急になんなんだよ?」


「これこそが戦をやる上で一番大切な総大将の器だ。総大将は時に我慢しなくてはならないものなのだ」


「!!?」


 


 その言葉で喜助は慶一郎の心境こころを悟った。この結末を誰よりも悔やんでいるのは喜助でも義太夫でも思議でもなく、慶一郎なのだと喜助は理解した。

 慶一郎が宣言して始めた戦により敵と云えども多くの者をあやめ、負けを認めざるを得ない場面になると当初の決断を曲げてでもそれを認めなくてはならない。その慶一郎の心境こころの葛藤と決断を曲げた理由を喜助は悟り、喜助自身も納得が出来ないものの慶一郎の決断を認めた。

 この日、慶一郎の始めたこの戦の発端は水戸の民の為であり、戦の終結もまた水戸の民の為であった。

 そして、戦を始めた側の総大将として引き際を誤れば戦は混沌に包まれる事を慶一郎は本能で悟り、それを終わらせたのだった。


立花たちばな殿、感謝致す。我々はこの日を決して忘れはしない。善くも悪くも水戸藩は決して一枚岩ではない。我々が善悪のどちら側にいるかは民が決める。藩主代理の男に率先して従った者達の所業により苦しんだ民の救済は見過ごしていた我々の使命だ。…その提案、しかと承った」


「感謝します。では…奴をここに」


 慶一郎が声をかけると町人に連れられて奥から藩主代理の男が現れた。


「キケケケケケ!!俺のオレオレオレオレ!俺の話をキケケケケケ!!」


「なんと!?この老夫があの暴虐非道の男の正体だと云うのか…!?」


 中山は藩主代理の男の素顔に驚きを隠せなかった。

 若く見積もっても七十代後半、或いは百歳近くに思える程の老夫に藩を我が物にされ、それに一定数の人間が従っていたというのは家老の中山にとっては屈辱とも云えた。更には阿片あへんによって自分自身すら忘れてしまっている老夫の姿は中山以外の者達にも衝撃を与えた。

 ざわめく水戸藩の者達を他所に慶一郎は口を開いた。


中山なかやま殿、私達が捕らえたのはこの者だけではなく、この者に付き従っていた役人達もいる。その者達の処遇もお任せします」


「うむ」


「最後に一つだけ…」


 慶一郎は中山の前に座らせた藩主代理の男に近付くとバサラ、ユラ、ギドウ、三人の聾唖者の髪が包まれた懐紙を取り出した。


「理解出来るかわからぬがよく聞け。これはお前を慕う者とその者を慕う者達の髪だ。ここにいる者もいない者も役人達はお前に従ったのではない。利に傾いただけだ。だが、この髪の主…バサラだけは心魂こころからお前に尽くした。恐らくお前が仮面で顔を隠す前からの忠臣だろう。バサラは自らの死を覚悟した後でお前に伝えてほしいと云っていた。それは、愛していると死なないでの二言だ。お前を慕い、案じて死んでいった者の最期の言葉ねがいとその者を慕って共にお前に仕えた者の髪、三人の想いがその髪には込められている。生きていた頃の想いがな……」


 話を終えた慶一郎は藩主代理の男の手に懐紙を握らせた。

 藩主代理の男はそれを握りながら相変わらず狂った様に大声を出していた。


(バサラ…約束は果たしました。ですがあなたの想人おもいびとは既に……)


 ───髪の毛と共に最期の言葉を伝えるというその行為、それは慶一郎にとってバサラという存在との出逢いが重要なものであったことを表すと共にバサラの想いを届けるという特別な行為だった。


「藩主代理の男にした行為と喜助きすけ殿が見た髪を埋葬する行為は別物ですよ。これ迄私が行っていた行為はこの手であやめた者への弔いと贖罪です」


「贖罪だあ?」


「ええ…以前の私は殺めた者の亡骸を埋葬する事が出来ぬならばせめて髪くらいは見晴らしのよい場所に埋葬してやろうと決め、可能な限りそうしてきました」


「へえ、そうなのか」


「はい」


「…ん?待てよ。以前ってことは…」


「ええ、もうやめました。あの夜に水戸を獲ると宣言した時…いえ、もう少し前ですね。私が自分自身の宿命も運命も全部すべて受け入れると決断きめた時、人を殺すという罪もまた背負うことにしようとそれ迄行っていた事をやめました。無論、弔いの気持ちは無くしていませんが」


「ふーん…よくわからねえが、要は気持ちの問題だろ?ならめる必要もねえんじゃねえか?」


「!!!」


 慶一郎は喜助の言葉で気がついた。

 決断に縛られて自分自身の行動を狭めることはなく、時には自由に決めることも必要であると…


「そりゃあ水戸に行く前に会った義太夫ぎだゆうのおっさんの偽者にせもんみてえなクソ野郎には弔いなんか必要もねえと俺は思うが、真っ正直に向かってくる武芸者丸出しみたいな奴と正々堂々戦って殺したなら、そいつ髪の毛を斬ってどっかに埋めてやるとか、知り合いに渡してやるとか、お前のしてえようにすりゃあいいじゃねえか」


「…なるほど、そうですね。ふふ」


喜助きすけ殿、あなたの言葉は私にとってはいつも新鮮で奇妙おもしろいです。今回も私にはない発想を聞かせてくれて感謝します)


 二人は以後も会話しながら義太夫が手配した山小屋へ向かった。顔の広い義太夫は水戸を出てからずっと昼過ぎになると慶一郎達から先行して道を進み、三人が安全に宿泊出来る場を確保すると様々な手段を用いて二人に連絡していた。

 この日は慶一郎の罪が消えた触状が発行された事もあり、道中にある茶屋の娘に「触状に描かれた者が髪型を変えてやってくるから伝えてくれ」と直接を頼み、その茶屋娘が慶一郎達に山小屋の場所を伝えたのだった。

 江戸から程近いこの山小屋は義太夫の知人の住職が管理している修行僧用の小屋であり、無宿人や破落戸ごろつきなども利用する反面その場所には役人は愚か町人すら近付かないため、この日の夜に江戸入り後の行動を決める予定だった三人としては他者に聞かれる可能性が低いこの小屋は丁度良かった。

 この小屋で慶一郎は思わぬ人物と出逢うことになる…

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