第96話「野獣の気配」

 米沢を発ってから二週間、水戸での一件を経て江戸入りを目前にした慶一郎けいいちろう喜助きすけは、義太夫ぎだゆうが手配した宿泊場所である山小屋まで残り三十歩程の場所で立ち止まっていた。


「ちっ!どうなってやがる…義太夫ぎだゆうのおっさんが簡単にられるとは思わねえが、恐らく二十人は隠れてやがるぞ。…どうする?何人か射つか?」


「相手は二十五人、小屋にいる者を含めるならば二十六人です。彼らがここで義太夫ぎだゆう殿と争ったならば周囲の木々や草花がもっと荒れている筈ですが辺りにその様な痕跡はありません。ですから義太夫ぎだゆう殿は恐らく無事です。しかし、彼らが物陰に潜むわりに殺気を隠そうとしないのはせません。或いはこちらの仕掛けを待っている可能性もあります。喜助きすけ殿、こちらから仕掛けるのはやめて一先ず様子を見ましょう」


「…確かにこんだけ殺気立っていたら隠れる意味がねえ。わざと居場所を知らせていると考える方が自然だな。よし、様子見だ」


 二人は物陰から殺気を向ける人間の気配を察知していた。陽が傾き薄暗くなり始めた山中で姿を隠しながらも殺気を隠そうとしないその者達に慶一郎は違和感を覚えた。

 完全に暗くなっていないとはいえ視界が悪くなり始めている以上、姿を隠すことに専念するよりも気配を隠すことに専念するのが定石である。

 だが、その者達は慶一郎ならば瞼を閉ざしていても全員の詳細な居所がわかる程に剥き出しの殺気を慶一郎と喜助の二人に対して向けていた。


(この感覚…山賊や破落戸ごろつきの様な欲にまみれた者が放つよこしまな殺気ではない。そう、これを例えるならば…)


 


 慶一郎が自身に向けられる殺気から感じたのは野性の獣にも似た気配だった。


「おめえら!バカやってんじゃねえ!おめえらが千人いたとしてもそいつら二人には勝てねえぞ!」


 突如山小屋のある方向から豪快な男の声が轟いた。その男の一声で闇の中から放たれていた殺気が一斉に消えた。


「おい慶一郎けいいちろう、あの野郎が小屋に居た奴か?あいつ、いつの間にあんな近くに来やがったんだ…お前は気付いたか?」


「ええ、あの男です。我々が話している隙に小屋から出てきた様ですが、私もあの場に立つ迄は…」


 声を出した男は山小屋と慶一郎達の中間程の距離に立っていたが喜助は殺気を向けられた時にその男がいる方向を確認し、そこには確実たしかに誰もいなかった。だが、その男は慶一郎と会話していた間、喜助がほんの僅かに次の瞬間にはその場にた。

 会話こそしていたが喜助は前を見据えて警戒を解く事はせず、喜助は脳では見てはいなかったが眼では前を視ていた。その視ていた筈の場所に男が突然現れたのである。

 喜助の眼と脳に違和感を与えた男、それは慶一郎の感覚にも似たものを与えていた。


(あの男、いつの間に距離を縮めた?いや、距離を縮める事は可能だろう。だが、近付くどころか小屋を出てくる気配すら全く掴めなかった。喜助きすけ殿と会話している最中さなかの事とはいえ移動した後になって移動した事に気がつくとは…もしも当初の私とあの男との距離が現在いまの距離で、声を発した瞬間に攻撃を仕掛けられていたならば……)


「喰らっていたかもな…」


 慶一郎は男が山小屋にいる事を感じ取っていたが、山小屋から出て近付いてきた事に気がついたのは男が声を発する直前だった。


「おい慶一郎けいいちろう、何の話だ?」


「詮のない話です。それよりも奴は近付いていますよ」


(今度は動く前に悟れたがこれは意図的にやっているのか?)


 男はゆっくりと歩き、慶一郎達に近寄ってきていた。男が進む度に物陰に隠れていた者が一人また一人と姿を現し、歩みを進める男の後に続いた。


「??…喜助きすけ殿、どうかしましたか?」


慶一郎けいいちろう、妙な感じがする…いや、最初はじめから感じてはいたが…姿を見てより強く感じる。俺はあの男の後ろにいる連中を近寄らせたくねえ」


(まさか喜助きすけ殿は自分が退いていることに気がついていないのか?あの勝ち気な喜助きすけ殿が無意識に奴等から離れたがっている?…奴等には喜助きすけ殿が離れたくなるがあるということか……)


 喜助は男達の歩みに反応あわせて無意識に後退し、慶一郎もまた喜助に合わせるようにして男達との距離を一定に保っていた。

 義太夫との邂逅によって相手が扱う武器を感じる事に目覚めた喜助。その喜助が無意識に距離を取ろうとする二十五人の者達。更には慶一郎が気配を感じるよりも先に移動している男。

 二十六人の者達と慶一郎と喜助、その場にいる二十八人は一定の距離を保った状態ままでゆっくりと動いていた。

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