第91話「お香の匂い」

 慶一郎けいいちろう喜助きすけ思議しぎの三人は水戸藩の地下にある広大な空間を奥へと歩み進んでいた。

 松明たいまつによって灯されている火は奥へと進む度に暗闇との明暗を強くさせ、連なる火の列は闇へと誘うために灯されている様な錯覚をも感じさせていた。


「全く、どんだけ広いんだ?地下洞つっても限度があんだろ…こんだけ広いと松明の灯りがなきゃ二度と戻れなくなんぞ」


「その時は喜助きすけ殿の嗅覚が頼りですね」


「任せたゾ、キスケ」


「ちっ、人任せかよ。まあ、そんときゃあ手探りしながら戻っ…この匂いは!?」


 喜助の嗅覚がそれを捉え、喜助の脳へと異常を伝えた。

 それを追う様にして慶一郎もまたその匂いを捉えた。


「…お香の匂い、ですね。阿片の臭いを誤魔化すために香を焚くというのはよく聞く話ですが…」


「ああ、その通りだ。だが、この匂いは恐らくそれとは違う」


 この時、喜助は詰所から地下へと下りた瞬間の事を思い出していた。

 喜助は地下へと下りた瞬間に頭部が完全に潰された死屍しかばねを見つけ、その際に今回と同じ匂いを嗅ぎ、その直後に思議が現れた。だが、現れた思議はその匂いを纏ってはいなかった。

 その時に喜助は思議にその死屍について訊いたが思議はそれに答えなかった。だが、その場で思議と戦った喜助は頭部を完全に潰したのが思議による行いではないと感じ取っていた。

 この日、喜助が地下に下りたその時には既に思議が地下に居たが、その思議以外の何者かが先に地下へと入っていた可能性を喜助は考えていた。

 そして今、喜助がその時に嗅いだ匂いと全く同じ匂いが地下の奥深くから流れてきたのだった。


慶一郎けいいちろう思議しぎ、奥に俺達以外の侵入者だれかがいる。そいつは俺と思議しぎが近くに居たのにも関わらず音もなく人間の頭を潰し、その場から消えちまえる様な奴だ。それにそいつはさっき俺と思議が倒した役人共やあそこにいた町人達の誰にも気付かれないでこの先へ進んでいる。どんな奴かは知らねえが間違いなくつええぞ…」


喜助きすけ殿は緊張しているのか?だが、私にはこの奥にそれ程の使い手がいる様な気配は感じられない…つまり、喜助きすけ殿の云っている奴は気配を完全に消せるということだ。うつろ殿と同等の実力ちからを持つ者が奥に…!?)


喜助きすけ殿、私が先頭さきを行きましょう。幸いここからは一本道の様ですから」


「…ああ、頼むぜ。先が拓けているかはともかく、この狭さじゃ俺の武器えものは不利になる」


「さっさと行くゾ」


 三人は慶一郎を先頭にして二番目に喜助、殿に思議という並びで奥へと進んだ。

 そして、地下空間の最深部へと辿り着いた三人はそこで思わぬ光景を見た。


「…みなごろし、か」


「この殺し方は間違いねえ…」


 それ迄の狭い通路から一転して広い空間となっている最深部には一目では確認出来ない程の死屍がそこに転がっていた。

 死屍はそのことごとくが頭部を完全に潰さており、人相は愚か頭部が在った事すらわからない状態であった。

 骨は完全に粉砕され、血と脳が混ざり在った液体が飛び散っていた。


「オイ!あそこダ!あそこに誰かいるゾ!」


「仮面!?奴だ!」


「あれが藩主代理の男…この臭いは!?」


「気付いたか慶一郎けいいちろう、奴の周りの煙は阿片あへんのものだ。あまり吸うなよ」


 三人の視線の先、十五けん程離れた場所にその男がいた。男の周囲には離れた場所からでもわかる程の煙が立ち込め、男はその中心で力無く横たわっていた。


「わかっています。それよりもが見当たりません。喜助きすけ殿は思議しぎ殿と共に辺りの警戒を…奴とは私が決着をつけます。それに、私は奴と話さねばならない事がある」


「最初からそのつもりだ。俺がここに来た目的はあいつじゃねえクソ役人共だ。…と云っても俺の目的だった奴等はここに転がってるのかも知れねえがな」


喜助きすけ殿、呉々も油断はしないでください」


 そう云うと慶一郎は周囲を警戒しながら真っ直ぐに男へと向かった。

 喜助は慶一郎の言葉に頷くと、転がる死屍の山の中にあった矢を数本拾って腰に据えると思議と共に辺りを調べ始めた。


(奴は阿片中毒なのか?仮に奴が既に人間ひとではなくなっているのだとすればこの一件の決着はどうなる…いや、考えても詮の無いことか……)


 慶一郎は藩主代理の男の姿を目の当たりにしてこれ迄聞いた男の行いを思い出し、その決着の付け方を模索したが、その決着を付けるのは慶一郎自身だと知っていた。目の前の男がどんな状態であったとしても決着は男の死、即ち男を殺す以外にはないとわかっていた。


「ん?なんだありゃあ…」


「………!!」


「…よく気がついたね。やはりキミは相当な使い手の様だ」


 男の居る場所まで残り十歩を切った辺りでの事だった。

 慶一郎は突然その歩みを止めたその直後、上から声がした。上とは即ち天井。高さにして凡そ五丈から六丈の高さがある天井から声が聴こえた。

 その直後、天井から人が来た。


慶一郎けいいちろう!?」


「来ないでください喜助きすけ殿!喜助きすけ殿はその場で思議しぎ殿と共に護りに専念してください!」


 慶一郎の方向を視るともなく見ていた喜助が天井から落下する影を視認し、その直後に何者かの声がしたために慶一郎の身を案じて声をかけた。だが、慶一郎はその喜助に対して距離を取った侭で護りに専念しろと云った。

「距離を保ち、身を護れ」という意味のその言葉は、多くの言葉を並べ立てるよりも分かりやすく、そして何よりも端的に慶一郎の前に降って来た者の強さを物語っていた。

 慶一郎は自身の目の前に立つその者に対して最大限の警戒をしていた。

 覆面で顔を隠し、全身黒装束に包まれたその者は、慶一郎の前に降ってきた。ただ降ってきたのではない。天井から落ちるのを喜助が確認しているのである。

 慶一郎達の居る地下空間の天井の高さは凡そ五丈から六丈ある。

 この高さは東大寺盧舎那仏像とうだいじるしゃなぶつぞう、所謂とほぼ変わらない高さである。

 その高さから落下し、音もなく着地して悠然と喋るその者は異質な気配を纏い、只でさえ涼しい地下空間の中でその者の身からは更に低い温度を放っている様に思えた。


 


 慶一郎にそう感じさせるその者は、お香の匂いを纏っていた。


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