第92話「音を纏わぬ者」

 突如降ってきた者と慶一郎けいいちろう、二人は互いを正面に据えて微動だにしない侭に向き合っていた。


(こいつは何者だ?向き合った時のこの感覚はうつろ殿や源二郎げんじろう殿とは違う…私が知る人でこいつと一番近いのは…父上……!?)


「んー?…今の言葉は、ボクの相手は自分がするから離れていろ、という事かな?キミは仲間が死ぬのは嫌なのかな?今夜だけでも何人も人をあやめている割には随分と考え方なのだねキミは。…でも、その立ち姿から感じる実力は噂通りで安心したよ。立花たちばな慶一郎けいいちろうサン」


「…貴様、私を知っているのか?」


「そんなに威圧しないでくれないかな。なんだかコワいよ、キミ。知っているも何もキミは有名じゃないか。ほら、この紙切れ。この紙切れがボクがキミを知る原因りゆうとしては不満かな?」


 その者が紙切れと称したのは慶一郎の首に賞金が懸けられた事を報せる触状ふれじょうであり、それは確かにその者が慶一郎を知る理由としては十分だった。


「ところでさ、キミはこの紙切れに書かれている内容こと真実ほんとうの意味わかってる?」


「………」


「フフ、沈黙だんまりか。いいよ、教えてあげるよ。この紙切れの意味、それは…武士でも町人でも男でも女でも誰でもいいから書かれた奴を、さ。それがこの紙切れで、キミは殺せば金になる人というわけだ。もっとも、この紙切れが出回った頃とは髪型が違うから少しわかりずらいけどね。でも、これに書かれている立花たちばな慶一郎けいいちろうってのはキミのことだよね?うわッ!?…っと、危ないなあ。今、ボクを斬ろうとしたね?ううん、確かに斬ったよね?まあ、結果としてはボクが避けたから斬れなかったんだけどね。フフ…」


 慶一郎の名と人相が書かれた触状を手にして語るその者は慶一郎の攻撃の気配を読み切ってそれをかわし、読合よみあいをしながら尚も会話を続けた。


「キミ達さ、ここに来たのって…っと、ボクを斬ろうとするのはやめてくれないかな?ボクはキミとり合う気はないんだよ?」


「…ならば何故貴様は?手段はわからぬが貴様とて何度も私を殺そうとしているだろう。そんな輩を斬ろうとして何が悪い。お互い様だ」


「あら?なんだ気付いてたんだ。フフ、無反応だからさ。気付いていないのかと思って少し悪戯いたずらしてみたんだよ。ゴメンゴメン。じゃあさ、お互い殺死合ころしあいはやめようか?…ほら、キミはあの男についても語りたい事とかあるんでしょ?」


「…貴様と話すことはないが、その男とは話がしたい」


「フフ、無駄だと思うけどね。まあ今はキミがしたいようにしていいよ」


(この者からは悪鬼の様な気配を感じるが常に子供の様な無邪気さも感じる…そして、常に無でもなく有でもない。揺れ動いていて掴み所がない…まるで形状かたちを持たぬ雲……)


 慶一郎は警戒を解くことをしなかったが、目の前の者が確かに戦闘たたかいの意思を消し去った事を感じ、藩主代理の男と会話することにした。


「答えろ。お前は一体誰だ?」


「フヒヒヒ…また天の声が聴こえたぞ!フヒヒヒ…」


「フフ…直接訊いても無駄じゃないかな?ボクの知っていることを教えてあげようか?」


「要らん。直接訊く………はあっ!」


 慶一郎は剣を振り、藩主代理の男の周囲にある阿片の焚かれた香炉を壊し、同時に男の顔を覆う仮面を斬った。


「フヒヒヒ…天が晴れるハレハレハレハレ…聴け聞け訊け効け利けキケキケキケキケ!フヒヒヒ…」


 仮面の下には憔悴した老夫の顔があった。

 焦点の定まらぬ眼で老夫は独り言を呟き続けた。


「キヒヒヒ…天が天の天でテンテン!我は天の使いでござ候!天を落として地を喰らう唯一無二の神でテンテン!我こそは天を裂いて地を明ける者に候ロウロウ!フヒヒヒ…」


(この様子では阿片に心魂こころ肉体からだを完全に支配されている…水戸を壊した元凶はもはや人ではない、か……)


 男の様子は明らかに心神喪失状態であり、自分自身の事すらわからなくなっている様に見えた。


「ほらね。無駄でしょ?そんなイカれた奴さっさと殺しちゃいなよ。さっき訊こうとしたンだけどさ、キミ達がここに来た目的ってでしょ?これを殺しに来たんでしょ?うわッ!?…っと、なんのつもりだい?今のは脅しじゃなくて本気で斬ろうとしたね?」


「これなどと云うのはやめろ。既に人としての心魂こころは無くしてはいても人なのだ。この者を慕った者もいる」


「…フーン、そう。何だかシラケるな。どうしよっかな…キミさ、ここで死ぬ?それともまだ生きる?」


「その言葉、そのまま返そう。貴様はまだ生きたいのか?ここで死にたいのか?」


 その慶一郎の言葉で二人を包む空気が重くなった。

 二人は二人共に読合よみあいではなく死合しあいを始めようとした。

 その時だった。


「キョエーッ!!消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ!!キエローーーーッ!!!」


「ちっ!」


「ありゃりゃ…」


 藩主代理の男が突如騒ぎ出し、壁に掛けられた松明たいまつを手にして自身の周囲にある着物などの可燃物に火を点け始めた。


「おい慶一郎けいいちろう!こんな所で火事はまずい!火の前に煙で殺られちまうぞ!」


「逃げるゾ!ケイイチロー!」


「……どうするの?お仲間さんはああ云ってるけどボクと殺死合ころしあいしないで帰るの?ボクは火とか煙とか気にしないよ?」


「ふっ、そう焦るな。だ。貴様とは何れまた逢う。そんな気がする。決着はその時で良いだろう?」


「………」


「………」


 二人は無言のまま視線を交わした。

 そして、先に口を開いたのは慶一郎ではなく、名も知らぬその者だった。


「焦りは弱者の証かあ…それ、ボクのよく知るおっさんが云っている事と同じだね。なるほどね。…ボクさ、キミが気に入ったよ。おっさんがキミを欲しがっているんだけど理由が螺曲がってて気持ち悪いからさ、無視して殺しちゃおうかと思っていたんだ。けど、ボクもキミがそばに欲しくなっちゃった。それじゃあまた逢おうね。キミには必ずボク達のがわに来てもらうよ!」


「待て」


「ん?なんだい?おっさんやボクがここに来た目的についての質問はなしだよ」


「それは構わん。だが、名くらい教えたらどうだ?顔を見せろとは云わん。再会を約束した者同士、貴様も私に名くらい教えて然るべきだと思うが?」


「ああ、名か。うん、いいよ。ボクは…いや、長坂ながさか姫路ひめじだよ。キミは特別にひめちゃんって呼んでもいいよ。ボクもキミのことけいちゃんって呼ぶからさ!それじゃあまたね!」


 そう云うと、長坂姫路と名乗ったその者は音もなく壁をよじ登って天井付近の横穴へと消えた。


長坂ながさか姫路ひめじ…覚えておこう」


(奴は一体何者なんだ?云いかけたのは確かにという言葉だった。本名を云いかけたのか?それとも……)


「おい慶一郎けいいちろう!なにしてんだ!早くしろ!」


「わかっています!さあ、お前も来い!」


 煙が充満し始めた洞窟内にこれ以上とどまる理由はなく、慶一郎は藩主代理の男の腕を掴んで共にその場を離れた。


 音もなく現れ、匂いだけを残して音もなく消える。

 音を纏わぬ者、長坂姫路。

 慶一郎がその正体を知るのはまだ少し先の事である。

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