第86話「紅月の本能寺」
しかし、その針はバサラが狙い定めた耳の裏、リクの脳を貫き一撃で死に至らしめんとした部分には刺さっていなかった。
「ぐう……」
「まだ動けたの!?なら!…うっ!?」
「へへ、動くなよ?動けば殺す。……ふう…そいつで突いてくれたお陰で血と一緒に少しだけ毒が抜けた気がするぜ」
そう云ったリクの右腕にはバサラの持つ鋼鉄の針が持ち手の部分を除いて全て見えなくなる程に深く突き刺さっていた。リクはバサラが耳の裏を目掛けて放った突き上げによる一撃を右の
それに対してバサラは右手で追撃をしようとしたが、リクの左手に握られた一本の筆を喉元に突き立てられたことにより追撃を
動けば確実に死ぬ…
バサラはそう直感していた。
リクの「動けば殺す」という言葉、それは本来であれば単なる
だが、バサラはリクの言葉が
これは、バサラが優れた実力者であるが故にリクの力量を瞬時に見抜き、その見抜きに対して
しかし、バサラも既に引くことが出来ない状況であると共にある出来事への確信があったため、機を逃さぬ様に一切の油断も諦めもせずに臨戦態勢を維持していた。
「く………ふふ、
「あ?…いや、確かに未熟だな。妙な胸騒ぎがしていたとはいえ
「うふふ、あたしが云いたいのはそれじゃないわ。ま、それも未熟だけどね。あたしが云いたいのは右手であたしの一撃を受けてしまったことよ。いくら貴方でもその手じゃ刀は握れないでしょう?少なくとも今はね」
「………」
確かにバサラの云う通りであった。
バサラの突き刺した鋼鉄の針は単なる長い針ではなく、太さは男の指と変わらない程度ではあるものの針の表面には無数の細かい棘が付いており、その棘は貫いたリクの右腕の内部を激しく傷つけていた。仮にこれを引き抜けば更に傷を増やし、リクが右手で刀を握るのが不可能になることは容易に想像出来た。
リクはバサラのその指摘に何も答えず、ただ黙っていた。
そして、ほんの数秒の沈黙の後にリクが口を開いた。
「…で、どうすんだ?何も云わずに俺に殺されるのか、全てを打ち明けて俺に殺されるのか、好きな方を選ばせてやる」
「あらん?なによそれ、どちらにしてもあたしは死ぬっての?」
「
リクは「悪いが」と云った。
これは本来のリクにとっては考えられない言葉である。
『
リクはそう考えていた。
それ故に信長の目指す
そのリクがこの場で殺す相手であるバサラに対して「悪いが」と云った理由、それはリクがバサラに対して
「まあね。失敗すれば
「随分と
「さて、どうだったかしら?」
「………」
「………」
必殺の
その沈黙を破り、先に口を開いたのはやはりリクだった。
「…他にどれくらいの仲間がいるかは知らねえが、お前と同じく傍仕えになっている程の奴はそう多くねえだろ?恐らくお前の他にはユラとギドウの二人。それとあと一人いるかどうかってところだな?」
「………」
「ここで
「そうね…時間がないのは
その言葉の直後だった。
「あ?てめえ何を…なっ!?」
「ここよ!」
南の空に起きたある変化を目の当たりにしたリクが見せた一瞬の隙を衝き、バサラは右手に持った鋼鉄の針でリクに攻撃を仕掛けた。リクは咄嗟に後ろへ跳んでそれを
「ちっ!…痺れやがる…また毒か。いや、それよりも…バサラてめえ!あれはなんだ!お前まさか
リクは太股に刺さった針を抜き、指で傷口を
リクの云った「あれ」とは、リクが視た南の空の変化の事であり、それはリクにとっては信じ難い出来事を予感させた。そしてそれは、バサラにとっては起きることを確信していた出来事であった
「吼えないで頂戴。右脚の感覚がないことくらいはわかっているのよ。でも、刺さったのが右脚だけだったのは幸運ね。その針の毒はさっきの毒と違って局所的にしか効果がないから左胸か顔周辺に刺さらない限りは死には至らないわ。ま、二日もすれば毒は抜けるから安心しなさい。…あ、そうそう。あれは貴方の想像通りよ。詳しく聞きたいかしら?良いわよ、教えてあげる。あれはね、
リクの言葉を待たずにバサラは語った。
バサラが背にした南の空は赤く染まり、リクの耳へ確かに聴こえる微かな爆発音と大勢の人間の怒号が、バサラの語る内容が真実であると証明していた。
信長が奇襲され、本能寺に火の手が上がったのである。
「さあどうするのリクちゃん!
「……ナメんなよ…」
「あらん?今なんて?ちゃんと
「ナメんなよクソ野郎って云ったんだ!」
「!?!?」
「
「なっ!?どうしてそれを…!?」
「どうしてだと?はっ!お前にはわからねえだろうな。男でありながら男を捨てたお前にはよ」
「あ…あ、貴方なんかにあたしの何がわかるの!」
「ああん?お前のことなんざ俺にはわからねえよ。だがな、これだけはわかる。お前は女になりたくて男を捨てたんじゃねえ、男であり続けるのが
「ぎいいいい!!!ふざけないで!あたしはあたしよ!魂がなんなの!女でも男でもなくてなにが悪いのよ!」
「だったら胸を張れ!自分は男でも女でもねえって堂々としていやがれ!」
「!!!」
「…バサラ。俺はな…お前が男を捨てた事を隠していても、お前のことが嫌いじゃなかったよ。男でも女でもなく、
「ぐう…な、ならさっさと行きなさいよ。貴方に
「お?なんだお前、俺にビビってんのか?」
「だ、誰があんたみたいな死に損ない!何ならここで
「
バサラにそれが出来る筈がなかった。
実はバサラはリクとの会話の
毒によって片足が麻痺し、右腕には鋼鉄の針が突き刺さり、まともな武器すら手にしていないリクへ次の攻撃を仕掛ける
バサラは出来ることなら今すぐにでもその場を離れたかったが、それすらも本能が許さなかった。ほんの一瞬たりともリクから意識を逸らせば死ぬと本能が伝えていた。
「……俺だってこんなところであの人は死なせたくねえ…だがもう手遅れだろうよ。だから俺はあの人の
この後、リクは徒手でバサラと戦ってそれを退け、更には京都御所の内と外から同時に迫った
この時、リクが殺し損ねたその三人の内の一人はバサラ、残りはユラとギドウという名の二人であり、三人は数年前から別々に京都御所に入り込み、別々の人間の推挙で正親町天皇の傍仕えとなるとこの日の為に忠義を尽くして
リクによって殺されることなく姿を消したその三人こそが後にリクの
そして…
「リクよ…御所からは…お前の眼には視えておるか?…月を染めるこの紅蓮の炎が…夜明け前を照らす
燃える本能寺の中で、木の
リクは天正三年五月に起きた長篠の戦いに第三者として推参し、その最中で
当時のリクはただひたすらに闘争のみを求めて様々な戦場に乱入していた酔狂者ならぬ戦狂者だったが、信長は
こうしてリクは名目上は小姓となって信長と共に歩み始め、名も無き小姓としてこの日迄の約七年を信長と共に過ごし、共に生きてきた。その七年という
そして、本能寺にて信長が死んだことでリクはその役目を終え、織田家を去った。それから時が流れ、リクは後の妻となる
天正十年六月二日…
この日はリクが再び自由になると共に再び空虚になった日であった。
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