第85話「聾唖の刺客」
天正十年六月二日───
人々が
リクが感じた匂い、それは言葉では表すことの出来ない云い知れぬ予感、俗に云う虫の知らせというものである。
その感覚は正しかった。
リクがそれを感じた丁度その頃、リクのいる京都御所の南に位置する本能寺周辺には信長を討たんとする兵達が集まり、今正に本能寺へ奇襲を仕掛ける準備していた時だった。
「嫌な風だ。胸騒ぎがする…俺がここに来てからそろそろ
リクは月に語りかけるようにして夜明け前の空へ呟いた。
「リクちゃん!リクちゃん!」
「ああん?バサラてめえ…またちゃんって云いやがったな!その
リクがバサラと呼んだこの男は元々は武士に仕えていたが、数年前から京都御所内に入って仕え始め、リクが来る半年前に天皇の傍仕えとなった男である。リクが来てからの約一月の間にバサラとリクは互いに気が置けない仲となっていた。尚、バサラは特例であるリクとは異なり、
「ちょっとやめてよね!?あたしの綺麗な顔に手を出さないで!…じゃなくて!そんな事云ってる場合じゃないのよ!」
「あ?何を慌てて…まさか刺客の野郎が来やがったのか!?」
「ダメダメ!リクちゃん、そんな大声で刺客なんて云っちゃダメよ!暗殺予告が出されて刺客が来るだなんて誰にも知られちゃダメなのよ!」
大声で暗殺者と云ったリクをバサラが
天皇に対して殺害予告が出ていることは極めて重大な機密事項であり、バサラはそれを知っているものの、正親町天皇の殺害予告が出されていることは
「ああん?そんなもん知るか。つかてめえも十分大声だろうが。それにな。そもそも外から御所内に入って誰にも見つからずに血文字であんな
「それって、もしかして…」
「
「そんな!?あの内容なら自分達だって殺されるのよ!?」
「そこ迄は出来ると思っちゃいねえのさ。それであわよくば帝が死ねば政変の好機到来って訳だ」
「そんな事って……」
このリクの
如何に箝口令を敷こうとも、人の口に蓋をすることは出来ない。朝廷外に迄は拡まっていないものの、朝廷に携わる者達はこの一月程でほぼ全ての者達が正親町天皇及び皇家と公家に対する殺害予告が出ていることを知っていた。
「つかバサラ、てめえさっき何か云おうとしたよな?さっさと…」
「あっ!?そうよそれそれ!!リクちゃん落ち着いて聞いてね?」
「…バサラ、何があった?」
自らの言葉を遮ったバサラの真剣な眼差しにリクの表情が変わった。
リクは一月程の付き合いとはいえバサラの性格をよく理解していた。
バサラは常に陽気で活発な性格であり、人を貶める様な嘘を好まず、聾唖ではない状態で外部から入ってきた特別扱いのリクに対して
そんなバサラがリクを前にして真顔になり、真剣な眼差しを送ることの意味をリクは一瞬で理解した。
ただならぬ事が起きた…
リクはそう感じた。それは確かに正しかった。
「
「!!!…な…バサラてめえそれ
普段ならば表面上はどんなに興奮しようとも頭の中では常に冷静沈着であるリクがこの時ばかりは熱くなり、バサラに詰め寄ると着物の襟を右手で掴んでいた。
その
「
何が起きたのか理解出来ない侭にリクは床に膝を突いた。
リクはその状況に置かれた
「正解。
「バサ…ラ…て…めえ……まさ…か……?」
「うふふ、そういう事よ。この時のために何年も前から信用を得てきたのよ。たった一月だけど、最後に貴方と一緒に過ごせて楽しかったわ。じゃあ、あたしは
「待ち……やが…れえッ!!…うくっ!」
リクは渾身の力で床に両拳を突き立てるとその場に立ち上がった。
「!!?……これは驚いたわね。まさかこの毒針を思い切り握り込んですぐに立ち上がれるなんて。でも、まともに動けないなら同じことよ。それじゃ…なっ!?」
その場を立ち去ろうとしたバサラの肩をリクが掴んで制止した。通常ならあり得ないその行為にバサラは驚愕し、同時にその肩に伝わる力強さに悲しみを抱いた。
バサラが悲しみを抱いた理由、それは肩を力強く掴んで引き止めるリクの行為、それが自身の任務遂行の邪魔をする敵対行為だと判断したからであった。
「……どうしても邪魔するの?」
バサラは哀しい眼でリクを視た。
「…どう…しても…だ」
リクは力強い眼差しを返した。
「そう。なら…死になさい!」
バサラは自身の肩を後ろから掴むリクの右手を振り解くと、左手を着物の
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