第81話「切支丹の女」
長い時間が経過したわけではなかったが、喜助は女が話している間、自身が居るその場所が敵陣である事を忘れて聞き入っていた。
女の名は
思議は布教のために世界を回る宣教師、即ち
漂着した四人の切支丹は思議を除き皆がまだ十歳にも満たない年齢であり、その子供三人と思議はある人物に助けられた事で生き延びた。そして、その者の助言により思議を含めた四人は名を変え、そのまま日本に残って暮らすことにした。その時にその者が付けてくれたのが思議と云う名であった。
名を変えた理由は、当時の日本が切支丹や伴天連などは勿論、他の異国人に対しても非常に厳しかったが故の自衛手段だった。その厳しさは、仮に人前で思議の生来の名を呼んだならばそれだけで人目を引き、直ぐ様役人がやって来て連行される程である。
それから数年間、思議達はその者の庇護下で安寧に暮らしていたが、
自立後、思議達は人目を引かぬ山中で四人で暮らしていたが、ある日、四人の中で一番年下の者が突如姿を消した。今から半年程前の出来事である。
残された三人は人目を引かぬ暮らしを続けながらも消えた者の行方を追っていたが一向に掴めず、消えた者より一つ歳上の二人が思議に「
それから更に一ヶ月後、思議は一向に戻らぬ侭の三人の血の繋がらぬ
そして、三ヶ月程掛けて思議は水戸藩がある事件と関わっている事を突き止め、三人が水戸にいる可能性があると感じてこの日ここへ来た。
「───という
「…なるほどな。そんな事情があるなら尚更顔面の
「…この
そう云った思議の顔には、右頬から唇辺りに走る横方向の創に額から右瞼の上を通って顎へと走る縦方向の創が重なり、はっきりとした
逆十字…通常の十字は伴天連にとって象徴であり、神への信仰を示すものであるのに対し、それを
思議は日本へと漂着した直後に遭遇した暴漢によってその創を負わされ、それ以来ずっと人前では般若の面で顔を隠したまま一度も外したことがなかった。だが、その様な事情を知らぬ喜助は思議の装着していた般若の面を叩き割り、その上で顔の逆十字の創跡を見られまいと逃げようとした思議を組み伏せてそれを視たのだった。
「……すまねえ…」
信仰は生命よりも重い…
思議の
数秒の沈黙の
「…
「ぶざけるナ!!そんなこと出来る筈ないだろウ!神への誓いはそんなに軽いものじゃないんダ!」
思議は喜助の話を遮って怒鳴り付けた。
「そうかもな……だがな
そう云うと喜助は奥へと進んだ。
『目的があるなら生きろ』
それは
約二ヶ月前、喜助は
一度は生きることを諦めた喜助はそこから前を向き、
喜助はこの時、空の里から拐かされた子供達が水戸藩に居る可能性を感じた。その理由は思議が語ったある事件の内容にあった。それは、関東以北で頻発している子供の拐かし事件だった。
一方その頃…藩主代理の男を狙う
「ぬええええええい!!やめんか!!こっちへ来るな!!もう我輩を追ってくるな!!」
義太夫は辺りの空気を揺らす程の大声を上げながら必死の形相で走っていた。
巨体に似合わず疾走する義太夫の少し後ろには五頭の犬がそれを追い、その更に後ろには多くの人間達がいた。無論、人間達は皆が水戸藩に仕える侍である。
「我輩は犬が苦手なのだ!!!犬だけは勘弁しろ!!!熊なら倒す!!!だが犬は無理じゃあっ!!!ぬええええええい!!!」
犬に追い回された義太夫は誰に云うでもなく弱音を叫んだ。
その犬達は訓練された軍用犬であり、義太夫を敵と認識して執拗に追い回した。この騒ぎは水戸城内を大いに混乱させ、慶一郎と喜助に向けた増援は義太夫へと向いた。
義太夫は犬に追われて逃げ回ることで結果的に陽動を成したのである。
資正はこの時代に軍用犬を用いていた
資正が犬に負わせた役目は主に伝令や帰陣の際の案内であったが、資正の死後から四半世紀程が経ち、常陸国の各地では試験的に犬を人追いに用いていたのだった。
慶一郎、喜助、義太夫…三者三様に行動する三人の
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