第71話「天命、地命、人命」

 慶一郎けいいちろう喜助きすけが村を救い、義太夫ぎだゆうと慶一郎が決闘をおこなった日の翌朝、慶一郎は独りで決闘を行った川原に来ていた。

 昨日とは打って変わって快晴となった朝の川原は清々しく、川原に着くなり慶一郎は深呼吸をして昨日と全く同じ場所に立った。

 昨晩、慶一郎達は一旦宿を借りに行くと荷物を置いた後に再び呑みに出た。慶一郎は日付が変わる頃に宿へ戻ったが喜助と義太夫は朝まで呑み明かし、陽が昇る頃に宿へ戻って来ると二人揃ってすぐに寝た。

 慶一郎は二人と入れ替わりに宿を出て川原へとやって来たのだった。


(昨日、この場所に私が立ち、義太夫ぎだゆう殿があの場所に立っていた。そして、喜助きすけ殿があの矢を放った……)


 慶一郎が視線を送った木には矢が突き刺さったままになっており、義太夫が立っていた場所は僅かにへこんでいた。

 木に突き刺さるその矢と地面に残されたその踏み跡は確かに決闘を行った証だった。

 そして、慶一郎が立っている場所から一歩先にもまた義太夫が剣を放つ際に踏み込んだ跡が残されていた。


「…まだ少しだけ感じられる……」


 慶一郎は瞼を閉じると無意識に呟いた。


(これだ…この感覚だ……ここで義太夫ぎだゆう殿が剣を振り下ろしたあの瞬間、確かに私は死を感じた。結果として生き残ったが私の目の前に死がった。死が訪れる瞬間に感じたのはこれだ。殺気や闘気ではなく死が迫る感覚、これが恐らく死の気配、まさしくというものなのだろう……)


 慶一郎は自問自答するかの様に自身が前日に感じたその感覚と向き合っていた。

 確実たしかな死を感じるという感覚は通常ならば味わう事などなく、仮に味わったとすればそれは即ち死を意味する。

 生物が自らに迫り来る死を感じた瞬間ときには既に死が約束されている様なものであり、避けるすべがない状態である。だが、極稀ごくまれに生きながらそれを体験する者がいる。

 その体験は俗にを見たなどと比喩される体験である。

 曰く、「周囲の動きが遅くなった」、「人生の出来事がよぎった」、など。

 体験者によってその感じ方に差異はあれど、その事象は往々にして一瞬をという感覚である事が殆どである。

 しかし、慶一郎はそれを体験したのではなかった。慶一郎は走馬灯を見たのではなく、義太夫の意思気いしきが込められた一撃が振り下ろされたその刹那、自身に迫り来るが放つ気配、即ち死気しきを感じた。

 その感覚は慶一郎がこれまで死合しあいや鍛練でつちかって感じてきた武器や行動に込められた他者の気、即ち意思気いしきを感じる事とは全く異なった感覚であった。

 慶一郎のこれ迄の人生に於いて、自らの死の可能性を意識したたった二人の相手であるうつろ信繁のぶしげ、その二人と対峙した際にも慶一郎が死そのものを感じる事は無かった。即ち、死の可能性を感じながらも死を現実として突き付けられる事はなかった。

 しかし、この場に於いて行われた決闘で慶一郎は自らの死の可能性ではなく、確実たしかな死と迫り来る死気しきを感じた。

 慶一郎はそれを忘れないためにこの場所へ来ていた。死気しきを感じたというその感覚を自身が感じ取ることが出来ている間にそれを自らの身体からだ心魂こころへ深く刻もうとしていた。

 死気を感じるには鍛練では到底届かず、尚且つ実戦でその感覚を掴もうとすれば先に現実の死を以てそれを体感する事になる。

 通常では感じる事が出来ない死気を感じるというその特別な感覚を掴むため、慶一郎は反芻はんすうする様にして昨日の事を思い出した。

 本来ならば、慶一郎は昨晩宿に戻らず真夜中であってもこの場所へ来たかった。だが、慶一郎はそれをしなかった。その理由は昨日の慶一郎が得たもう一つのにあった。

 慶一郎が宿に戻った理由、それは人生で初めて感じる事が出来た酒の味、ほのかに感じたその味を噛み締めるための時間が欲しかったが故に慶一郎は宿に戻り、それを存分に噛み締めた後でここへ来た。

 独りで川原に来た慶一郎は長い間その場に立っていた。瞼を閉じた状態でその場に立ち続けた。

 慶一郎はただその場に立ち、陽の温もり、風の動き、川の潺湲せせらぎ、木々の呼吸、時の流れ…そして、それら全部すべてに包まれる自分自身の生命いのちを感じた。


「感じる…有りの侭の自分わたしを…真実ほんとうの意味での自然を…それだけじゃない。この場に僅かに残されている私に迫った死気も感じる。…今ならわかる気がする。あの時、父上が云ったあの言葉の意味を……」


 慶一郎は独り言を呟きながらその場に横になり、地を背にして天空を仰いだ。

 あの言葉…それは四年前、慶一郎の父であり師である甚五郎が、慶一郎の母の素性と慶一郎自身の出生の秘密を打ち明けた日の言葉である。


『水の流れ。風の流れ。時の流れ。これらの流れに逆らおうとするものはおのずから身を滅ぼす。流れに逆らおうとせず、流れを読む事が肝要だ。そして、の流れの根幹もとには必ずが存在する。とは即ち異思気いしきすいふうじん…世に存在そんざいするあらゆるなる存在もの意思いし気取けどることが出来たならば、の武はてんに届くやも知れん…』


 思気ではなく思気…

 本来ならば意思など持たぬ存在である風や水を含めた生物とは異なる存在の放つ気配や人間の概念でしかない時の流れ、それすらも感じる事こそが異思気を感じる事であり、それを為したならば武は天に届く…

 慶一郎は甚五郎の言葉をそう理解した。

 そして、この場所で慶一郎が死気を感じた事で研ぎ澄まされた感覚こそが異思気を感じる事であった。


「ふふ、空は高いな。そして広大ひろい…こうして空を仰いで寝転がるのはいつ以来だ?…心地好い。今ここには全部すべてがある。いや、全部すべては何処にでもあったのだな。私が気がついていなかっただけだ。…そう、私は気がついていなかった。だが、今ならわかる。それがわかっただけで十分だ。今の私はこうして地を背にして天と顔を合わせるだけで心地好さを感じられる。それだけでいい、十分だ……」


 慶一郎は誰と話すわけでもなく、独り言を呟いていた。

 その姿はまるで自分自身と会話している様であり、眼前に広がる大空と背にした大地に向けて話しかけている様にも見えた。


「ここには光と闇をもたらして生命いのちを与えるてん、土と水によって生命いのちを育む、天と地の間に流れるかぜ、そして、それらに包まれるわたしが存在している。ここには安らかなときる…それだけでいい……」


 やがて慶一郎は静かに眠りについた。

 その直前、覚醒と微睡まどろみの狭間で慶一郎は心の中で語りかけた。


(父上、母上…私はこれからのを精一杯生きます。生きて生きてき抜きます。…思えばこの四年余、ほんの少し前まで私は常に孤独ひとりでした。けいとして、慶一郎けいいちろうとして、人生という未知に惑い、悩み、各地を渡り歩いて多くの人をあやめながら意味もなく生き長らえてきました。その無意味な日々の中で私がこの眼で視た世の中には悲しみが蔓延はびこり、多くの人の涙で溢れていました。悲しむのは、泣くのはいつもしいたげげられた人達…ですが、その人達は泣きながらも精一杯強くあろうとし、精一杯生きて死にました。その人達が人生に意味を求めていたのかどうかはわかりません。ですが、その人達は死ぬまで自分自身の人生を活き抜きました。…その様な人々の悲しみの涙を私の抱いた宿によって拭えるのならば、私は修羅にでも羅刹にでもなります。その結果として私が悲しみを与える立場となる事もあるでしょう。ですが、それもまた私の選択したとして背負います。これからの私は私自身の宿命と運命が生んだ全部すべての結果を真っ直ぐに受け入れ、全部すべてを背負ってみせます。…心配は無用です。私はもう孤独ひとりではない事を知りました。けい、そして慶一郎けいいちろうには支えてくれる多くの人がいます。ですからもう心配しないでください。父上、母上、私はやっと真実ほんとうの意味で未来まえく事が出来そうです……)


 慶一郎は自分自身の心の中にいる甚五郎ちち千代ははと語り合った。心の中の二人は常に慶一郎を案じていた。

 甚五郎の死後よりこの瞬間まで、慶一郎の心の中にいる二人は常に慶一郎を心配する様に見守っていた。それは、慶一郎自身の中にある不安や戸惑いの心を表していた。

 自分自身の心が描いた両親に対し、慶一郎は心配する必要はないと伝えた。

 この時、慶一郎の中で多くの事柄が大きく変化した。

 有りの侭をるが侭に受け入れた慶一郎は未来これからを見据えて眠った。

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