第72話「無法地」

 慶長十九年六月十八日。


 慶一郎けいいちろう喜助きすけは水戸にいた。

 義太夫ぎだゆうもまた水戸へ来ているが、その巨躯きょく故に目立ってしまうため水戸入りする直前に別れた。だが、領内にて再会を約束しているため別れたというよりは一時的に別行動を取っているだけである。


「ここが水戸か。なんとも云えねえな…そういや慶一郎けいいちろう、お前は水戸に来た事があるってたな?」


「ええ、母が生きていた頃に一度だけ。ですが、幼い頃に私が視た水戸…朧気おぼろげな記憶に刻まれているあの頃の水戸と現在の水戸とではおもむきが違います」


 慶一郎は三歳の時に一度だけ水戸に来た事があった。その理由は慶一郎の母である千代ちよにある。

 自身の命がそう長くないと悟った千代は死ぬ前に家族三人揃って旅をしたいと云い、それに甚五郎じんごろうこたえた。

 当時京都で暮らしていた三人は東山道沿いを旅し、その道中で東へと進み水戸へ寄ると東山道を引き返して京都に戻った。


(幼少時故に確実たしかな記憶とは云えぬ部分はあるが、あの時の水戸はこれ程荒れていなかった…どういう事だ?現在の水戸は家康いえやすの子が藩主となり統治している徳川のの筈だが……)


 徳川のお膝元とは本来は江戸を指すが、水戸もまた徳川家直轄の領地であり、お膝元と云って相違はない。なお、水戸を領地とする徳川家は後に水戸徳川家と呼ばれ、尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家の三つの分家を徳川御三家と呼び、宗家である江戸徳川家を二百五十年余に渡り支えることになる。

 しかし、この水戸という領地は江戸との距離が近いため、藩主となった者が江戸に暮らして水戸を不在にすることが多くあり、水戸徳川家の領地である筈の水戸という土地に於いて実質的に統治していたのは徳川家ではなく、徳川家の威光を笠に着る側近達である。

 その政治の始まりは関ケ原後の慶長七年、徳川家が初めて水戸を徳川家の領地として藩主に徳川の血を継ぐ人間を据えた事から始まる。

 徳川領とした当初は徳川家の五男がその座に着いたが、それから僅か十年未満で十男、十一男と次々に家康いえやすの子が後を継いでいる。

 三者の内、最初に水戸を与えられた五男の信吉のぶよしは、水戸で暮らしていたものの藩主になってから僅か一年後の慶長八年に二十一歳で死ぬ。その後、藩主の座は十男である頼将よりのぶに引き継がれたが、当時の頼将はまだ二歳であり、それから八歳になるまで藩主であったものの一度も水戸で暮らさずぬままに転封てんぽうによってその任を終えると、藩主の座は弟で十一男である頼房よりふさが継いだ。

 この十一男の頼房は後の水戸徳川家の祖となる人物だが、引き継ぎ当時六歳であり、慶長十九年時点でも十一歳である。そして、この時点で頼房はまだ一度も水戸へは入っておらず、先代の頼将の頃から水戸は十年以上に渡って領主が一度も領内に入っていない状態で統治が行われていた。

 尚、十男の頼将は後の紀州藩主であり、紀州徳川家の祖となる人物である。


「昔はまだだったってか?」


「…子供の私では気がつかなかっただけかも知れませんが、少なくとも私が視た水戸であの様な役人はいませんでした」


「いくか?」


「ええ、あの男が何をしたのかはわかりませんが少々やり過ぎています。めなくては」


 慶一郎と喜助が視線を送った先には見窄みすぼらしい格好をした農民風の男を二人の男達が甚振いたぶっていた。

 その二人の男達は身形みなりからして役人であることは明らかだった。


「お前は農民か?そんな汚ならしい格好でこの水戸の領内を歩くとは何のつもりだ?畏れ多くもここは徳川家の領地だぞ!」


「ひいっ!申し訳ありませんお役人様!お許しを!うぐっ!」


「ゴタゴタうるせえんだよ。蛆虫が喋るんじゃねえよ。…あぁん?…くそ!汚ねえ血が俺の脚に付いただろうが!」


「がはっ!…申し訳ありません!申し訳ありません!ぐえっ!」


 男達は無抵抗の男を繰り返し蹴り飛ばし、男の吐いた血が自身の着物に付いたことを咎めると、それ迄よりも更に激しい暴行を加えた。


「よく聞け!お前は泥まみれの土臭い身体からだでこの地を歩き、それだけでなく卑しい血でこの地をけがした!これは御上に逆らう大罪だ!お前は徳川家の顔に泥を塗ったのだ!その罪、死を以て償え!」


「ひいいいっ!」


 一人の男が刀を抜き、うずくまる男を斬りつけようと刀を振り上げた。だが、その刀が振り下ろされる事はなかった。


「ぐ……な、何のつもりだ…!?」


「それはこちらの台詞だ。貴様ら一体何のつもりだ?その身形からして役人だろう?役人が無抵抗の町人を足蹴にするとは…」


「こ、こいつは罪人だ…!!」


「へえ、そうかい。んで、そりゃあ一体どんな罪だ?俺にはこのおっさんが大罪を犯した様には見えねえがな。おっと、勝手に動くなよ?刃は喉元に向いているんだぜ?」


 慶一郎と喜助はそれぞれ短刀と鉈を手にして男達の喉元に刃先を向けていた。慶一郎の手にしている短刀は云うまでもなく早雪さゆきから預かっている短刀である。


「…お、お前らには関係ない事だ。それよらもお前ら、役人われらにこの様な真似をしてで済むと思うなよ」


「ふふ、私達には関係ない事か…なる程、一理ある」


「え?あ、おい。け…、こいつら放っておくのか?」


「この方々が云った通り、私達には関係ない事なので。さあ殿、いきましょう」


「な、おい!」


 慶一郎は短刀を下ろすとそれを鞘に納め、近くに放っておいた荷物を再び背負った。それを見た喜助は渋々それに従うようにして同じ様に荷物を背負った。

 なお、二人が互いを呼び合った際のジンとソラという名は、水戸に入ってから他人と関わる際に用いる事に取り決めた偽名であり、ジンは慶一郎、ソラは喜助のことである。

 二人が偽名を用いた理由は、立花たちばな慶一郎けいいちろうの名と共に人相書きが記載された触状ふれじょうが出回っているためであり、提案したのは喜助だった。これ迄の慶一郎は賞金首としての自身の立場を隠そうとする事はなく、京都でも名を偽らずにいたが、それにより賞金稼ぎや荒くれ者などに絡まれる事が多々あった。その度に慶一郎はそれらを自身に降り掛かる火の粉として退けていたが、喜助はその行為をとして良しとせず、少なくとも徳川領内である水戸にいる間に他人と関わる際だけは偽名を用いる事を提案し、慶一郎はそれを受け入れた。

 その結果、触状にえがかれた慶一郎の人相書きと現在の慶一郎とでは髪型も異なる事もあり、水戸へ入る際には正面から堂々と入る事が出来た。


「くく、いい心掛けだ。この土地では役人われらに逆らう行為ことは即ち死を意味する。察するにお前らは余所者だな?本来は余所者であれど許さぬところだが、今回だけは特別に見逃してやる。だが次はこうは…うっ!?」


「なっ!?おい!どうし…がっ!?」


 役人の男達は二人共に話している途中に意識を失ってその場に倒れた。その倒れ方はまるで見えない刀で斬られた様だった。

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