第56話「野性の少年」

 うしおの死より三十五年余前───


 甲斐国かいのくに


弁丸べんまる、父は暫く殿の元へ行って参る。あまり出歩くではないぞ」


 弁丸とは、信繁のぶしげの幼名であり、声をかけたのは昌幸まさゆきである。

 数日前、昌幸は主家である武田家から呼び出され、少人数の家臣と信繁を連れて甲斐国へ来ていた。


「わかっております、父上!」


 信繁はこう答えたが、昌幸の言葉に従うつもりは毛頭なかった。

 そして、昌幸の姿が見えなくなった直後、信繁は世話役として付けられていた二人を振り切ると近くの山へ分け入った。

 この頃の真田家の領地は極めて限られたものであり、尚且つ上杉領との境に位置していたため、真田領内を子供が自由に動き回ることなど不可能に近かった。

 その為、信繁は父と共に甲斐国へ来る度に武田領内の山中へ分け入っていた。


「おおっ!?あれは滝じゃないか!」


 山中で小さな滝を見つけた信繁は興味本意でそれに近づいた。

 その時だった。


「えっ!?うわああああああああ!!!」


 信繁は足を滑らせて滝壺へ落ちた。

 滝壺は大した深さではなかったが、まだ十歳の信繁が溺れるには十分な深さはあった。

 まだ泳ぎ方を知らなかった信繁は、水を吸った着物により自らの身体からだが沈んでいくことに必死で抗おうとした。

 しかし、その抵抗に効果はなく、信繁はやがて意識を失った…


「があ…ぐがあ!!」


「うわあっ!?なな、なんだ!?ぬえか!?僕を喰っても上手くねえぞ!」


 獣の鳴き声に似た音を聴いた信繁は飛び起きた。

 しかし、目を覚ました信繁の周囲には獣の姿はなかった。


「…お主、何者だ?」


 信繁の前には自身より少し年下に見える少年がいた。

 その少年は衣服を一切身に纏って折らず、無造作に伸びた髪の毛はずぶ濡れになっていた。


「…お主が助けてくれたのか?」


「がう…」


 信繁の言葉に少年は小さく返事をした。

 その少年の姿、特にその眼には今まで信繁が会ったことのない程の野性に満ち溢れていたが、をしたその少年からは確かに信繁の身を案じている優しさを感じられた。

 少年の放つ優しさを感じた信繁は安堵し、自分が置かれている状況を確認するべく辺りを見回した。


「まだ明るいな。…ここはどこだ?帰り道はどっちなん…っ!?」


 曇っていた意識がはっきりとし、冷静な判断が出来るようになった代償に、信繁は自らの身体に起こっている変化を痛覚によって気づかされた。


「なっ!?……なんだよこれ…うそだろ?…指が…指がああああああああああ!!」


 信繁の左手の人差し指は根元から綺麗に折れていた。その痛みと見た目は信繁の意識を再び曇らせ、冷静さを失った信繁は痛みと不安で涙を流しながら大声で叫んでいた。


「がああああああ!!!!」


「うわなっ!?なんだよ急に!?」


 自身が泣き始めた直後に少年が発した大声に驚いた信繁は、思わず泣くのをやめて少年を見た。

 それが単なる偶然か少年の想いやりか定かではなかったが、その少年が信繁の声に呼応する様に叫び、それにより信繁が泣き止んだのは確かだった。


「がああああああああ!!!ががああああああああ!!!ぐがああああああああ!!!」


 少年は何度も何度も繰り返し叫んだ。

 信繁はそれを制止しようとしたが、少年は耳を貸さなかった。

 少年の叫び声は雄々しく、猛々しかった。

 暫くすると、信繁を追って山中へ入っていた二人の世話役の内の一人が、少年の雄叫びに導かれたようにそこへやってきた。


弁丸べんまる様!こんなところに…むっ!?」


「がうああああああああ!!!」


 信繁を案じて近づこうとした世話役に向け、少年は威嚇するようにして両手を広げながら雄叫びを上げた。

 それはまるで、信繁を守ろうとしているようであった。


「何者だ小僧!弁丸べんまる様に何かしようというのであれば子供とて容赦はせぬぞ!」


「ぐるああああああああ!!!」


 刀の柄に手をかけた世話役の男に向けて少年は再び叫んだ。

 それはまさしく威嚇だった。

 野性の少年の放つ気迫に世話役の男は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

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