第55話「死人の声」

 死………


 信繁のぶしげが自身の死を受け入れ、刺客の刀が振り下ろされたその瞬間ときだった。


『生きろ!!!源二郎げんじろう!!!』


 自らに迫る死を信繁が受け入れた直後、受け入れた筈の死が訪れる刹那の瞬間に信繁は潮の声を聞いた。

 既に死人しびととなっている潮の声が信繁の頭に響いた。

 信繁は確かにを聞いた。

 それは、二度目の経験だった。


うしお!!!」


 潮の声を聞いた信繁は、反射的に身体からだを捻っていた。刺客が振り下ろした刀は信繁には当たらなかった。

 身体からだを捻った信繁の両脚りょうあし脹脛ふくらはぎの肉は引き千切れんばかりに裂け、きず口から大量の鮮血が飛び散ったが、振り下ろされた死をもたらす一撃を信繁はかわした。


「ナッ!?キサマ!ムダナテイコウヲ!…ウッ!?」


 刺客が改めて信繁に斬りかかろうとした時だった。

 信繁の目の前に立っていた刺客は一滴の血も流さずにその場に倒れた。


「よくぞ足掻いた!よくぞ生を貫くことを諦めなかった!」


 刺客が倒れたその向こうには医者の男がいた。

 医者の男は左手に酒が入っていると思われる甕壺かめつぼを持ち、右手には一尺程の細い棒が握られていた。


「そなた……今、何を…?この者は……」


「馬鹿者!そんなことよりまずは治療じゃ!その怪我は先日のかたなきず程甘くないぞ!」


 医者の男は手にしていた甕壺を邪魔にならぬ場所に置くと、部屋を出て消毒用の焼酎を取りに行った。

 その時、信繁は後から来た四人が四人共、先に死屍しかばねとなった七人と同様に部屋の中で倒れていることに気がついた。

 その四人は無傷に見えたが、死屍の様に微動だにしていなかった。

 医者の男はすぐに戻ってきた。


「………先にうしおを診てやってくれぬか?」


 戻ってきた医者の男に信繁が云った。そう云わずにはいられなかった。

 信繁は確かに潮の声を聞いた。あれ程までにはっきりと声が出せるのであればまだ助かる可能性はあると信じたかった。

 しかし、信繁も本当はわかっていた。

 信繁は医者の男からどの様な返事が来るかわかった上でそれを云っていた。

 その言葉を受けた医者の男は、応急処置として手早く信繁の脚の止血と消毒だけを済ませると、その後の処置を後回しにして既に息絶えている潮の元へ近づいた。


「むう………この者はもう手遅れじゃ。血を流し過ぎておる上に脛椎の骨を剄部と頭部が分離してしまう程の馬鹿力で折られておる。出血に加えてこれ程の折れようならば、恐らく脛椎を折られた時点で即死じゃろう……」


「!!!」


 医者の男の口から放たれた『脛椎を折られた時点で即死』という言葉を聞いた信繁は一瞬だけ表情を変えた。

 信繁が表情を変えた理由、それは自らの眼で確かに視ていた事実ことに起因していた。

 その事実とは、潮が大男の喉元に歯、その顎に込められた力が、首の骨を折られた直後からさらに強くなっていったというものであった。

 潮が即死であったならば必然的にで力は弛緩ゆるむ、即ち噛んでいる口が大男の喉元から離れる筈である。だが、潮は首を折られた後で、尚も噛むという行為をより強くより明確に行っていた。

 それを目の当たりにしていた信繁には潮が即死とは到底思えなかった。

 潮が首の骨を折られた時、信繁は潮の死を感じた。

 しかし、その後の潮の姿、大男の喉元に強く喰らいつくその姿からは、少なくとも首を折られた瞬間に死を迎えていたとは思えなかった。


「………人の意思気いしきというのは時として肉体を凌駕するものじゃ」


 信繁の表情の変化を見逃さなかった医者の男は、死して尚も力を弛緩ゆるめることなく大男の喉元に噛みついている潮の口を丁寧に引き剥がしながらそう云うと、潮の首の位置を整え、眼を見開いた侭の潮の瞼を閉じた。

 それから医者の男は、周囲に転がる七体の見知らぬ者達の死屍を部屋の隅へ並べると、後から来た四人を縄で縛ってから同じ様に並べた。間仕切りを取っ払い六畳間と四畳半の部屋を一部屋に繋げたその部屋の隅には、死んでいる、あるいは死んだように気絶している黒装束の男達が所狭しと並べられた。

 そして、医者の男は黒装束の男達とは少し離れた場所へ潮の亡骸を寝かせると、信繁の元へ戻って隣へ座り、再び口を開いた。


「………人間ひと肉体からだ脳髄あたまが動かす。人間の全部すべては脳髄にあると西洋医学では云われておるらしい。…じゃが、わしは心魂こころは他にもあると考えておる。人間の意思いし持ち、即ち意思気いしきは脳髄だけにあるのではない。大部分は脳髄にあったとしても、肉体からだの至るところに心魂こころは分散されておる。わしはそう確信しんじておる。そして…心臓ここじゃ、には特に強い意思気いしきがあるとわしは想う……」


 医者の男は黙ったまま自らの話を聞いている信繁の胸、即ち心臓を指差して云った。

 信繁は何も云わなかった。

 西洋医学も東洋医学も信繁にとっては未知の領域であったが、信繁は医者の男の言葉から確かに何かを感じた。

 自らが死を確信した時に聞いた潮の声…意識を失ったまま死中にあった時、意識を取り戻す直前に聞いた父昌幸まさゆき甚五郎じんごろうの声…僅かな時間で聞いた三人の死人の声…実際に耳に聴こえたわけではないが、確かに聞こえたその三人の声…

 それを聞いた時、信繁の心臓の鼓動は高まっていた。肉体に生命いのちの証を示すかの様に心音が響いていた。

 そして、現在いまも信繁の心臓は確かに響いていた。信繁の生きている証となる雄々しい鼓動を奏でていた。その鼓動はこの瞬間の信繁の想いを脳髄あたまで意識するよりも強く示していた。


「………さて、応急措置はしたがぐずぐずしておればお主も生命いのちを落とすことになる。さっさと治療に取りかかるとするかのう。今回は意識が残っておるから暫くの間は想像を絶する激痛じゃろうが、意識を失うまでは辛抱せい。…その前に痛みに耐えきれず死ぬ者もいるが、そんなものに負けるんじゃないぞ」


 信繁は何も云わずに頷いた。


…』


 その話を聞いてからの信繁は黙ったまま、ただひたすらに潮のことを考えていた。

 潮との出逢い、共に過ごした日々、そして目の前で死んだ潮の姿。

 潮の『生様いきざま死様しにざま』、信繁が潮と共に過ごした全部すべての時間を想い返していた。

 やがて、信繁は治療の痛みと疲弊から意識を失った。

 雲霧うんむに包まれていく意識の中で、信繁は自身の内に刻まれた潮の猛き心魂こころを感じた。

 そして…

 それは夢か現か、はたまた信繁の心魂こころが生み出した幻想まぼろしか…

 信繁はまた潮の声を聞いた気がした。


源二郎げんじろう…あの日、あなたと出逢えて良かった…両親を亡くして動物の様に山中で生きていた俺が、再び人の子としての生き方を取り戻せたのはあなたのお陰です…、あなたならきっと叶えられます…どうか成し遂げてください………』


 うしお…三歳で親を失い、以来たった一人で育つ。家族を失ってから三年後、六歳の時に信繁と出逢うと、以後は友として同じ時を過ごす。信繁との出逢いから四年後、真田家に仕える侍として武士の身分を与えられる。運命の出逢いから三十五年余、潮は常に信繁を支え続けてきた。


 慶長十九年六月二日…

 うしお、莫逆の友である真田さなだ信繁のぶしげの眼前にて死す…

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