第57話「少年の名は潮」

「むう!…貴様!聞こえておるだろう!そこを退け!」


「ばるああああああああ!!!!!」


 世話役の男の声が大きくなったのと合わせるように、少年の威嚇はより雄々しく、猛々しくなった。


「…やむを得ん!」


「待て!待ってくれ!」


 世話役の男が刀を抜こうとしたその時、信繁が少年と世話役の男との間に割って入った。


「この者はの命の恩人なんだ。溺れた僕を助けてくれたのはこの者なんだ」


「むう…それは真でございますか?」


「ああ、間違いない!」


 信繁は嘘をいた。正確には憶測を云った。

 本当にその少年が自分を助けたのかどうかなど意識を失っていた信繁にわかる筈がなかった。しかし、そう云わなければ少年は世話役の男に斬られてしまうかも知れないため、信繁はそう云い切るほかになかった。


「……そうでございましたか。少年よ、失礼致した。弁丸べんまる様を助けて頂いて感謝致す」


「ぐあう…」


 世話役の男は少年に頭を下げた。その様子を見た少年は世話役の男に敵意がないと感じ取ったのか、威嚇を止めて小さく鳴くとその場を立ち去ろうとした。


「待て!の名はなんというのだ!?」


「……がうあ」


 信繁が呼び止めると少年はその場で立ち止まり、再び小さく鳴いた。

 それが少年の返事だった。


「まさかお主、言葉を知らないのか?」


「がう」


「今まで誰からも言葉を教えられたことがないのか?」


「がう」


「…そうか。親はいないのか?」


「がう」


 少年は人間ひとの言葉を知らなかった。

 信繁と言葉を知らぬ少年の会話は暫く続いた。

 それは確かに会話だった。二人は互いに相手の口から放たれる言葉を全く理解していなかったが、互いに相手が云わんとしていることが理解出来ていた。互いの言葉が通じなくとも、二人は通じ合っていた。

 それは、声というをした言葉と言葉による会話ではなく、言葉を介して伝えようとしている想いと想い、即ち心と心による会話だった。

 そして、二人だけが通じ合うその会話の中で信繁が少年の眼を見て云った。


「良かったら僕と一緒に来ないか?助けてもらった礼もちゃんとしたい。そして何よりお主ともっと話がしたい」


「………」


 少年は黙ったまま返事をしなかった。

 その様子を見た信繁は少年に右手を差し伸べ、再び少年の眼を、野性の眼をした少年の瞳を見ながら云った。


「……なあ、もし良かったら僕の友になってくれないか?」


 その言葉は、小国ながらも領主として国を治める者の息子としてではなく、一人の人間として独りの人間に向けた言葉だった。

 嫡男ではない信繁は、この時点では跡継ぎとは無縁ではあれど領主の息子である。

 領主の息子という立場は信繁に身分の上での自由を与えたが、同時に人間としての不自由も与えた。

 信繁には友と呼べる人間が一人もいなかった。

 この時、信繁は生まれて初めて父親を介さずに自分自身で出逢った人間と共に時を過ごしたいと感じた。領主の息子という生まれながらに定められた宿命による人間関係ひとづきあいではなく、自らが選択した運命の中での人間関係ひとづきあいを信繁は生まれて初めて求めた。

 信繁が差し伸べたその右手は微かに震えていた。

 それは、信繁の心の内にある未知への不安と期待が入り交じった想いの象徴であり、その想いが肉体に具現した武者震いにも似た震えであった。


「………」


 少年はその手をどうすれば良いのかわからず戸惑っていた。戸惑いながらも自身に差し伸べられた信繁の手と、自身の眼を真っ直ぐに見ている信繁の眼を順番に視ていた。

 少年の心の内にもまた、信繁の震えの根幹にある未知への不安と期待、それと同じ想いがあった。

 二人は互いに未知への不安と期待を抱いて沈黙し、その場は静寂に包まれた。

 やがて、少年の返事を待てなくなった信繁が口を開いた。


「頼む!と一緒に来てくれ!と共にいれば俺は変われる気がする!きっと父にも兄にも負けることのない強い男になれる気がするんだ!さあ!俺と共にいこう!」


「うおおおう!!」


 少年は雄叫びを上げながら信繁の差し伸べた右手を強く堅く握り締めた。

 この時、信繁は生まれて初めての真の友を得た。

 それは、領主の息子という立場が生んだ信頼関係ではなく、一人の人間ひと単独ひとりの男としての真田信繁が初めて自分自身で築いた信頼関係であった。


「共に生きていこう!俺とお前は今日から友だ!」


「うおおおう!!!」


「おおおおう!!!」


 少年が雄叫びを上げると信繁もそれを真似るように雄叫びを上げた。

 少年を連れ帰った信繁は帰るとすぐに昌幸の承認を得て、少年は真田領内で暮らすことになった。そこで少年は人間の言葉、教養、生き方、暮らし方を教え込まれるとそれを拒まずに学んだ。野性的な姿や言葉とは裏腹に少年は聡明だった。この聡明で野性に満ち溢れた少年が人間としての生き方を身につけ、人間の暮らしに馴染むには長い時間を必要としなかった。

 そして、二人の出逢いから数ヶ月後…


弁丸べんまる、これはどうだ?」


 昌幸が一枚の紙を信繁に渡した。


「…牛男うしお?」


「如何にも牛男うしおだ」


「…父上、なんのことですか?」


 昌幸の渡した紙には『牛男』という二文字が書かれていたが、信繁はその文字の意味がわからなかった。


「奴の名だ。いつまでも名無しの状態ままでは不便だろう」


「名無し?ああ、ガウのことですか?」


「そうだ。ガウという呼び名では奴が可哀想であろう?」


 ガウとは、信繁が友として連れ帰った少年の呼び名である。

 出逢って間もない頃、言葉を使えなかった少年の鳴き声が『ガウ』と聞こえることからその名で呼ばれていた。


「可哀想?ガウ本人は特に気にしていない様ですが?…父上、本心を云ってください」


「む…たった一度、たった一人の人間との出逢いで人は変わると云うが…弁丸べんまる、お前がその様に聡明になったのは奴との出逢いのお陰だろう。よい出逢いをしたな」


「はい、父上。素晴らしい出逢いです」


 信繁ははっきりとそう云った。


「うむ。では、わしの本心を伝えよう。実はな、近い内にガウにを与えてやろうと思っている」


真実ほんとうですか!?それはもちろん士族ですよね!?」


「ああ、無論だ。ガウを侍として我が真田へ仕えさせようと思っている。ここへ来た時は獣の様だったが、奴はほんの数週間で言葉や文字を覚え、現在いまでは誰よりも丁寧な言葉を話す程になった。そして、奴は覚えたその言葉を使い、戦で自らの家族を亡くしたことを我らに打ち明けた。お前も覚えておるだろう?」


「ガウの話を統合するとおよそ三年前に起きた事であり、ガウは恐らく当時まだ三歳になったばかりの頃ですね」


「そうだ。素性はわからぬままだが、親の名は愚か自らの名も忘れる程の体験をしながら奴は全てを忘れてはいなかった。そして、山中で生きてきた。どう生きてきたのかはわしにもわからぬ。だが、奴はたった独りで生き抜いてきた。僅か三歳にして三年をたった独りでだ。そして奴は、ここに来てから覚えた言葉で自分の様に山で独り生きねばならぬ子を生まぬ世を創りたいと語った。他人ひと幸福しあわせを願うことが出来るのは真の人間である証だ。獣ではなく人間に戻った奴の願いを叶えるためにわしがしてやれる事は奴に身分を与えてやる事くらいだ」


「…それで名も与えようと?」


「ああ。奴は牛の様に雄々しく力強い。故に牛男うしおだ」


牛男うしお…うしお……父上、うしおという名であれば、血潮ちしおしおと書いてうしおではどうでしょうか?ガウの熱く燃えたぎる血潮を冠した名です」


 信繁は昌幸から渡された紙に『潮』という一文字を書いて渡した。


「血潮の潮と書いてうしおか…熱き血潮、つまりは熱き心魂こころを冠した名…うむ。気に入った!奴も気に入るであろう!決まりだ!現在いまこの瞬間より奴の名はうしおだ!そして、うしおは真田に仕える侍とする!弁丸べんまるよ、お前からうしおに伝えておけい!」


「はい!直ちに伝えて参ります!」


 こうして、信繁が出逢った野性の眼をした少年は武士としての身分を与えられ、正式に真田家に仕える侍となった。

 少年に授けられた名はうしお

 この数日後、潮には昌幸の養子となって真田姓を名乗ることも打診された。だが、潮はそれを丁重に断った。

 断る際に潮はこう述べている。


うしおという名と身分を頂戴し、その上で御当主様の養子となり真田の性を名乗るという御高恩、感謝の言葉も御座いませぬ。しかしながら、受けた恩に甘えず、この先も自分を律するためには現在いまの私が真田の性を名乗ることは到底出来ませぬ。ですが、現在これから先の私の生き方を私自身が誇れることが出来るその瞬間ときまで、この日の出来事を片時も忘れずに私の心魂こころへ刻みましょう。そして、この先の私の生様いきざまで真田を体現し続け、それが為った暁には、その時こそ私が真田を名乗ることをお許し頂きたく存じます」


 


 僅か六歳にして堂々たる受け答えと己の信念を述べた潮のこの言葉は、数ヵ月前まで言葉すら扱えなかった身知らぬ少年を武士として真田へ仕えさせることに反対した家臣達を黙らせた。

 潮はこれより先三十年以上の間、自身の言葉を実行するかのように真田に仕え続けることになる。

 時には信繁の付き人として、時には昌幸の小姓として、表舞台に名を示すこともなく真田家に忠義を尽くしていた潮の生様いきざまは美しかった。

 そして、いつしか潮は真田家に関わる者達から『美しい程の忠義を以て仕える者』という意味を込めて『仕美しのび』と呼ばれた。

 潮は誰よりも忠義に厚い侍であり、誰よりも真田へ尽くし通しただった。そして何より、潮は誰よりも強く心魂こころ心魂こころで結ばれた信繁の友であった。

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