第12話「昌幸の慧眼」
『あなたには
昨夜、
豊臣に恩義がある真田が今の徳川の世を見過ごせるわけがなく、機会があれば豊臣の世を再建しようとしていたのである。
(徳川の打倒と豊臣再建…大阪にいる豊臣家を差し置いて私にこの話をする意味は何だ?豊臣家ではなく、豊臣の血を欲している理由は?…真田が思い描く世は単なる豊臣の世とも思えない。しかし、私欲で動いているとも思えない。
慶一郎は
それは、天下分け目の
慶長五年八月三十一日―――
「
「大声を出さずとも聞こえておる。そう騒ぐでない」
自軍の十倍以上という大軍が間近に迫っているのにも関わらず、一切の焦りを見せずに落ち着き払った態度で小姓の話を聞いているこの男の名は
長男の
昌幸は
「予想通り、
「
「ふっ、やはりな。わざわざ敵の思惑に踊らされることもあるまい。そこで我らは
この昌幸の指示により、真田軍は奇襲隊を編成することになった。その奇襲の指揮を取ったのが昌幸の息子である信繁であった。
そして、この戦は昌幸の策通りに進むこととなった。
恭順するふりをした後に秀忠を挑発した昌幸に対し、憤怒した秀忠は軍を進めた。
大軍で迫る徳川軍に対して真田軍は、まず最初に、徳川軍の先方である信幸へ弟の信繁が無血にて戸石城を明け渡した。その一方で、信繁の指示により動いていた奇襲隊が秀忠率いる本隊を繰り返し奇襲した。
この時、信繁が信幸に戸石城を明け渡したのは真田勢同士での衝突を避ける以外にも理由があった。それは、真田の戦術を熟知している信幸をこの合戦の主戦場へ参加させない様にすることである。
信幸に戸石城を明け渡した信繁は、その直後から戸石城の付近に少数の軍勢を残したままにして、攻めず動かずと命令していた。これにより、信幸は戸石城を出ることが出来ずに籠城という選択を余儀なくされ、信幸の軍勢が秀忠率いる本隊の救援に迎うことは困難となった。
真田の戦術を熟知している信幸を籠城へと誘い込んだことにより、信幸の持つ真田の戦術に関する知識は秀忠率いる本隊へ伝わることはなくなり、真田軍は数では大きく上回る徳川軍に対して互角以上に渡り合うことが出来ていた。
こうして、奇襲と綿密な戦略を駆使した真田流の戦術により、数では劣る真田軍が多勢の徳川軍を翻弄し、この戦場から進むことも退くこともさせずに釘付けにしていた。
「ほう、
ここに、その戦を見守る一人の男がいた。
その男とは、慶一郎の父、甚五郎であった。
この頃の甚五郎は
そして、その
「
籠城戦の最中で領地内に侵入した男を捕縛したと小姓が昌幸に報告をした。
「なに?どういうことだ?今の領内には間者が入り込む余地はないはずだ。その者は一体何者だ?」
「
捕縛されている筈の男がそこにいた。男は甚五郎だった。
「なっ!?貴様!どうやってここに!?この!」
「待て!早まるな!」
刀を抜こうとした小姓を昌幸が制止した。
「し、しかし…」
「この者は斬らずともよい。お前はもう下がれ。この者と話がしたい。以後、この者が出ていくまで誰もここへ近づけるな」
「ですが
「わしは下がれと云ったぞ?」
「……はい。では、失礼致します」
ただならぬ昌幸の雰囲気に小姓は昌幸の云う通りにした。
小姓が去ったのを確認した昌幸は甚五郎と相対して座ると口を開いた。
「久しいな、
「こんな時だからこそ来ました。御無礼ながら領内に入る折と、牢から抜け出す折にて兵士を数人眠らせてしまいましたが、御許しください」
「ふっ、相変わらずの様だな。さっきのお前には修羅を感じたぞ」
「私には妻も息子もいるのでまだ斬られるわけにはいかぬ故、刀を抜かれるとあらば
「
「さて、どうでしょうか?」
「ふはは、云わずもがなか」
甚五郎と昌幸は既知であった。昌幸は籠城戦の最中でありながら甚五郎と話し、笑い合っていた。
それから数分後、甚五郎と昌幸がいるこの部屋の遠くから異変を告げる声がした。
「むう…何やら騒がしいな」
「きっと何者かが倒れたのでしょう。なに、心配はいりませぬ。数時間もすれば目を覚まします」
「ふはっ!
「さて、私には何も…」
「刀は人や物を斬るだけに
「はて?何の事やら私には一向に…しかしながら、私の師の教えを忠実に守れば確かに無刀にて意識を斬る事も不可能ではないとだけ云っておきます。ただ、如何に無刀にて意識を斬る事が出来ようとも多数の弓や火縄には敵いませぬ。況してや人に与えられた宿命の
甚五郎が不意に哀しい眼をした。
そして、昌幸はそれを察したかの様に話を切り出した。
「そなたの子は元気か?」
「はい」
「そうか。わしの記憶違いで無ければ先月で二歳になったのであろう?」
「はい。当日には会えませんでしたが、
「そうか。それは良かった」
「ええ、良かったです。…ところで
「…どの戦ことだ?
昌幸は甚五郎に問い返した。
「では…
北とは、上杉勢と
「北か…常識的には上杉の圧勝。しかし、相手は彼の
「奥の手…それは
「うむ。以前は母と不仲であると噂があった
「あの
この問いに対して昌幸はすぐには口を開かなかった。
そして、暫く考えた後でゆっくりと口を開いた。
「わしにとって
「残っていなければ?」
「……………
昌幸は甚五郎の問いに答えずポツリと呟いた。
「はい?
「
「しかし、実子が生まれたために豊臣から外された
「ああ、奴には悪い噂がある」
「悪い噂……」
噂という言葉に甚五郎は引っ掛かった。
昌幸という男が噂などを軽はずみに信じる男ではないと知っていたからだった。
「
「…………
「そうだな…」
甚五郎は既に気が付いていた。
昌幸の話した噂の出所が昌幸自身だということを…
そして、その噂が単なる噂などではなく、確かな根拠を持って語られた真実だということを…
この時、甚五郎と昌幸は二人共に口には出さなかったが、小早川秀秋の裏にいる人物も既にわかりあっていた。
その人物こそ、この直後に起きる天下分け目の大戦に勝ち、世を支配する
小早川から生まれる運命の奔流によって徳川の世が訪れる。昌幸と甚五郎はそれを感じていた。
二人はこれを最後に何も語らずに酒を酌み交わしていた。
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