第10話「父と子」

 慶長十五年十月十七日―――


「逃げろ慶一郎けいいちろうの臭い…奴等は此の山に火を放った。火と弓と火縄に囲まれては剣の腕だけでは生を掴む事は出来ぬ。此のまま此処ここに居れば残るは確実な死だ。の前にお前はこいつで包囲の合間を突破して逃げろ」


 甚五郎は馬三頭を縄で繋ぐと慶一郎にそれに乗って逃げる様に云った。

 甚五郎と慶一郎、二人の周囲には数十体の死屍しかばねが転がっていた。

 この日、二人は刺客に襲われた。

 突如現れた何十人もの人間が二人の命を奪おうと襲い掛かってきた。だが、甚五郎と慶一郎はそのことごとくを退しりぞけた。その悉くを斬った。即ち悉くを殺した。

 甚五郎は所持していた唯一の刀を慶一郎に使わせ、自らは木刀を持ち、刺客の武器を奪いながら戦った。

 やがて、二人に対して正攻法では敵わないと判断した刺客は、弓や火縄銃を使って命を奪おうとした。しかし、それでもなお甚五郎と慶一郎は刺客を退けた。

 そして、業を煮やした刺客は最後の手段として山に火を放った。


「父上!どうして共に来ないのですか!?馬が三頭いるのです!どうか父上も共に!」


 慶一郎は自分一人だけでそこから逃げることを拒んだ。逃げるのであれば父と共に、それが慶一郎の考えだった。


「俺の云う通りにするのだ。けい、お前は逃げろ」


「ち、父上…!?」


 甚五郎は慶一郎のことを本名である慶と呼んだ。それは、この時この場において、甚五郎にとって慶一郎が娘の慶であることを表していた。

 甚五郎を家長とし、その妻である千代ちよの生来の名字である立花を名乗る立花家は、武家ではないものの武士の様に信と義を重んじる家だった。その立花家の娘である慶は、慶一郎という名を与えられて以来、立花家の嫡男となった。

 そして、いつしか慶一郎は何よりも信と義を重んじる人物となっていた。

 その慶一郎に対し、甚五郎は独りで逃げろと云った。即ち親を見捨てて独りで逃げろと云った。

 しかし、慶一郎がそれを了承する筈がなかった。親を見捨てて独りで逃げることは親子の義に反すること、そして何よりのすることではないと感じた。逃げるとすれば二人共に、それ以外はあり得ぬことと慶一郎は感じていた。

 この時、慶一郎は父が逃げないのであれば自らも立花家の嫡男として父と共に戦い、死に果てるつもりだった。

 そんな強い覚悟を決めた瞬間ときだった…

 そんな時に甚五郎が慶一郎のことを慶と呼んだ。それは、慶一郎に立花家の嫡男であることや信と義を重んじることより、まず逃げてくれという甚五郎の願いの現れだった。

 甚五郎が慶一郎を慶と呼んだのは、嫡男として義を重んじるより、人として信じるものを貫き通すより、どんなことよりもまず生きることを優先してくれという、父が娘に求める願いの現れであった。


「よく聞け、けい。俺は…いや、俺と千代ちよ、そしてお前は同じだ。本来ならばの世に者、それが俺達三人だ。解るな?」


「はい…」


 慶一郎は涙を流していた。

 その涙は、甚五郎の願いを悟り、受け入れる覚悟をした故の涙であった。


「俺達三人は三人共に自らに流れる宿命の血を捨てる事で別人となり、自らの宿命から逃げて生きてきた。俺も千代ちよも其で良かった。何よりも生きている事が幸福しあわせだった」


 茶聖と呼ばれた千利休せんのりきゅうの隠し子、千利久せんのりきゅうとして生をけた甚五郎。

 立花たちばな道雪どうせつの双子の娘、二人で一人の立花たちばな誾千代ぎんちよとして生を享けた千代。

 甚五郎も千代も宿命を背負ってこの世に生まれ、運命によって夫婦めおととなった。

 そして、幾重に折り重なる宿命と運命の交わりによって慶一郎が生まれ、三人は家族となった。


「俺は宿命を捨てて生きていたからこそ千代ちよやお前と巡り逢えた。昔は自らの宿命を恨んだ事もあったが、俺は宿命を捨てたお陰で家族が出来た」


「父上…」


けいよ…俺はお前に宿命と戦って運命を掴んで欲しいと思っている。だからこそ俺は千代ちよとの誓いを破り、真実を打ち明けた。千代ちよはな…お前に本当の事を話してはならんと云っていたよ。お前はあくまでも立花たちばな甚五郎じんごろうの子であると云っていた…だが俺は、お前には自ら運命を掴む力があると信じて真実を話した。けい、お前はお前の手で運命を掴め」


「運命を、掴む…」


 立花たちばな慶一郎けいいちろうこと立花たちばなけいは、豊臣とよとみ秀吉ひでよし立花たちばな誾千代ぎんちよの血を継ぎ、宿命を背負って生を享けた。


「そうだ。運命を掴むんだ。もし此処でお前が死んだら其はお前が運命を掴めずに宿命に負けただけだ。此処で死ぬ事は宿命の侭に殉ずるだけだ」


「………」


「此処に迫る軍勢はお前の出生の秘密を嗅ぎ付けた徳川の軍勢だ。いや、お前の宿命に群がるだ。そんなものに負けてはならん。生きろ!慶!」


!』


 そのたった三文字の言葉が慶一郎の胸に、慶一郎の心に深く突き刺さった。

 甚五郎から自らの出生の秘密を聞かされたあの日から慶一郎は懊悩おうのうしていた。

 豊臣秀吉と立花誾千代、天下人と戦国大名の正統な血を引く女武者の子として生まれた自らの宿命と向き合い、懊悩していた。

 しかし、甚五郎の云ったたった三文字の言葉が慶一郎の懊悩を払った。その全てを払ったわけではないが、慶一郎の懊悩は甚五郎の口から放たれたたった三文字の言葉、生きろと云う言葉によって和らいだ。


「はい!」


「ふっ、いい返事だ」


 甚五郎は慶一郎の涙が止まったことを確認して笑った。

 それにこたえる様に慶一郎も笑った。


「…けい、息災でな」


「父上こそ、お元気で!あの世で母上に御迷惑を掛けてはなりませんよ!」


 そう云うと慶一郎は馬に乗り、手綱と共に他の二頭に繋がる縄を掴んだ。

 そして、馬の腹を足で軽く蹴ると慶一郎は炎に包まれた山を下って行った。


「お元気で…か。なるほど、女武者にも劣らぬ女傾奇者かぶきものに育った様だな」


 甚五郎は段々と小さくなっていく慶一郎の後ろ姿が見えなくなるまでそれを見送った。

 その後、慶一郎は包囲を突破し、馬が疲れ果てて潰れるほどに馬を走らせた。一頭目が果てると二頭目に乗り、二頭目が果てると三頭目に乗った。

 三頭目の馬が走れなくなる頃には刺客の姿は無くなっていた。

 そして…


けい………宿命に……負け…るな………運命を……掴め………千……代……」


 甚五郎は鬼をも喰らう修羅ですらおそれを為す羅刹の如くに戦い、炎に包まれる山中で死んだ。

 奇しくもこの日は、甚五郎の妻である千代の命日だった。

 立花慶一郎、十二歳の出来事であった。

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