第8話「肉と酒」

けいさん、お肉嫌いなの?」


 食事中の慶一郎けいいちろうを見て早雪さゆきが云った。

 慶一郎は早雪の用意した夜飯よるめしに出されていた鹿肉焼きステーキに手を付けていなかった。


「肉の焼ける臭いが少々苦手でな…せっかく用意してもらったのにすまない」


 慶一郎はが焼ける臭いが嫌いだった。肉が焼ける臭いを嗅ぐとどうしてもが焼ける臭いを思い出すからだった。

 しかし、その肉の臭いのお陰で慶一郎が身にまとっていた血の臭いは掻き消されていた。


「ううん、気にしなくていいわ。でも困ったわね。けいさんのおかずがないわ。目刺めざしでも焼こうかしら?」


「いや、私はこの沢庵だけで十分だ」


 そう云いながら慶一郎は沢庵をおかずに白米を食べてみせた。

 夜飯は白米、鹿肉焼きステーキ、沢庵だった。

 夜飯を食べた後、慶一郎と早雪は縁側で月見をすることにした。


けいさん、本当にお酒はいいの?今からでも用意しようか?」


 早雪は月見をすることが決まると月見酒をしようと慶一郎に薦めたが、慶一郎はそれを拒否していた。


「私は下戸なんだ」


 慶一郎は早雪に対して嘘をいた。慶一郎は酒が弱い故に酒が苦手な下戸ではなく、どちらかと云えば酒は強い上戸であった。しかし、慶一郎は酒の味が好かないために下戸と云った。

 慶一郎自身にもその理由はわからなかったが、慶一郎は今までいくら酒を呑んでもすら感じることが出来なかった。

 全く味を感じられない慶一郎にとって、酒とは独特の臭いがする水の様な物でしかなかった。


(酒は駄目だ…いつも何の味も感じない。それどころか人を斬った後に限っていつも血の味がする…まるで、殺めた人間の血を呑まされているかの様に濃い血の味がする……)


 人を斬った後、即ち人を殺した後の酒は慶一郎には苦痛だった。

 普段は何の味も感じないのにも関わらず、人を殺した後だけは血の味がした。人を殺した後に酒を呑むと、まるで自分自身が人間の血を呑む魔物のたぐいだと感じさせられた。

 それ故に慶一郎は人を斬った後だけは絶対に酒を呑まないと決めていた。


「あら?けいさん下戸なの?ならお茶でも立てようかしらね」


「ああ、そうしてくれると助かる」


 早雪が茶の用意をしている姿を見ながら慶一郎は今朝のことを思い出し、早雪の後ろ姿に無言で問い掛けていた。


早雪さゆきさん…あなたは何者なのですか?なぜ私の秘密を知っているのですか?私をどうしたいのですか?あなたは私のことをどこまで知っているのですか?)


 いくら心の中で問い掛けても早雪の後ろ姿からは返事がなかった。

 やがて、茶の用意を済ませた早雪が慶一郎を縁側へ呼んだ。


「さてと、昨日はけいさんにご馳走になったから今日は私がご馳走するわね」


 そう云うと早雪は茶をて始めた。

 慶一郎は縁側に座り、月を見上げながら早雪が茶を点てる音と自然の音のみに包まれていた。そうしていると少しだけ心が安らぐのを感じた。

 夜空に浮かぶ美しい月を見上げ、周囲に流れる美しい音色に包まれる。

 その瞬間とき、そこに流れていた穏やかな空気は、重い宿を背負って生まれた慶一郎にとってまさしく安らぎそのものであった。

 早雪が茶を点て終えると慶一郎はそれを呑んだ。

 二人は月見をしながら穏やかな空気を共有した。


「―――ところで、けいさんの出身うまれはどこなのかしら?」


 月見の最中さなか、不意に早雪が切り出した。


「………私のことが気になりますか?」


「ええ、まあ…武士でもないのに刀を持つけいさんに興味を抱くのは当然でしょう?」


 流れ者に出身を問う、ただこれだけの行為により慶一郎と早雪を包む空気が変わった。慶一郎にとっては今朝のことがあったためであり、早雪にとっては慶一郎の出身を問うことにより慶一郎の不信感を抱くことに成りかねないからだった。

 しかし、あくまで早雪は芸妓として慶一郎に興味を抱いているというていで話を切り出していた。


「確かに、武士でもないのに刀を持ち歩くのは異質と云えば異質ですね…」


 慶一郎はどう答えるべきか悩んでいた。目の前にいる早雪という女が悪人ではないと本能的に悟っていたが、今朝の出来事を考えると自らの情報ことを安易に語るべきではないのかも知れないと感じていた。

 それは、早雪は悪人ではなくとも、早雪と話していた者や二人の会話に出てきたという人物が、自分に対して仇なす者ではないと云い切れないからであった。

 気がつくと、慶一郎の口調は他人と会話する時に意識して使っていた男口調ではなくなっていた。


けいさん、私ね…」


 慶一郎が質問の答えを出さずにいる間に早雪が口を開いた。


「私、真実ほんとうは芸妓じゃないの…」


 早雪のこの言葉で二人を包む空気が再び変わった。慶一郎と早雪を包む空気はより重苦しいものへと変わっていた。


「それに昨日、私の出身は関東だと云ったけど故郷は信濃しなのなの…」


(信濃…まさか!?)


 信濃と云われ、慶一郎は真っ先に一つの家の名が浮かんだ。


「…早雪さゆきさん、もしかしてあなたは真田家に由来する者なのですか?」


 慶一郎は思わず声に出していた。育ての親である甚五郎じんごろうの口から語られた自らの出生において、その血筋を求める者の中に真田の名があったからだった。


けいさん…いえ、慶一郎けいいちろう殿。私は真田さなだ信繁のぶしげの娘です」


 早雪は真田信繁の娘であった。

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