第6話「早雪」

 慶長十九年四月二十七日早朝。


 この前日、京都の色町を彷徨さまよい歩いていた慶一郎けいいちろうは、早雪さゆきという名の芸妓の女と出会った。

 早雪は芸妓であったが、組織みせに属していない自前じまえ芸妓であり、慶一郎を気に入った早雪は半ば強引に慶一郎を連れ歩き、日が暮れると自分の家に泊まらせた。

 早雪のすることは強引ではあったものの、京都に来て間もない無宿者むしゅくものの慶一郎にとってはありがたいことだった。

 慶一郎は決して金銭かねに困っていたわけではなかったが、この四年間、宿屋に泊まったことは数回しかなかった。それは自らの命を狙う武士や武芸者に寝込みを襲われた際、宿屋とそこに泊まる他の者達に迷惑を掛けないための配慮だった。

 そして、賞金首として世間に立花慶一郎の名と人相書きが広く知れ渡ってしまった以上、以前にも増して宿屋に泊まるわけには行かなかった。それは、宿屋の主が慶一郎を襲う可能性を考えた故の自衛手段であると共に、慶一郎を襲う可能性のある宿屋の主の身を案じてのことだった。


(ここは…ああ、そうか。早雪さゆきさんの家に泊めさせてもらったのか)


 目を覚ました慶一郎は、周りに誰もいないことを確認すると着物を着替えた。

 昨晩、早雪が一緒に寝ないかと執拗しつように迫ってきたが慶一郎はそれを固辞こじし、早雪と慶一郎は別の部屋で寝た。


早雪さゆきさんは強引にも程がある。しかし、そのお陰でこうして布団で横になり、ゆっくりと眠ることが出来た)


 慶一郎が横になって寝たのは数年ぶりだった。武士に狙われ、武芸者にも狙われている慶一郎は、いつ何時なんどき襲われるか分からないまさしく常在戦場の身であり、横になって寝ることはなかった。

 そんな慶一郎が数年ぶりに横になって寝ることが出来た。それは正しく早雪のお陰であった。


「さて、泊めて貰った礼として朝食でもこしらえるか。他人の家を勝手に彷徨くのもはばかられるが、早雪さゆきさんならきっと構わないだろう」


 慶一郎は布団を畳むと部屋を出て台所を探した。


(…早雪さゆきさん?こんな朝早くに庭で何を……この気配…他に誰かいるな?)


 台所を探していた慶一郎は庭の隅に立つ早雪を見つけ声をかけようしたが、人の気配を感じてそれをやめると、気配を殺して聞き耳を立てた。


「…はい。の御推察通り、人目を避ける裏道ではなく、人目を引かぬ色町に居たところを発見致しました。…はい。今のところは私に関して全くの疑念も不信感もいだいていない様子です」


 早雪は何者かと会話していた。その内容からして慶一郎のことを話していることは明らかだった。


(誰と話しているんだ?あの御方とは…早雪さゆきさんが私のことを狙っているとは考えられないが…)


 慶一郎は早雪の声を聞き取ることは出来たが、早雪と会話をしている相手の声は聴こえなかった。

 早雪は尚も会話を続けた。


「…はい。あわよくば、このまま芸妓の早雪さゆきとして慶一郎けいいちろう殿の近くに置いてもらうつもりです。…はい。有事となれぱ慶一郎けいいちろう殿だけは我が身に代えても守り抜きます。その点はご安心くださいとあの御方へお伝えください。立花…いえ、豊臣とよとみ慶一郎けいいちろう殿は今の世に…あの御方の描くこれからの世に必要な御方です。必ず守り抜いてみせます」


早雪さゆきさん!?あなたがなぜ私の秘密を!?)


 早雪は慶一郎のことを豊臣慶一郎と呼んだ。

 賞金首として広く知れ渡っている立花慶一郎という名ならばいざ知らず、豊臣慶一郎と呼んだのである。

 立花慶一郎は豊臣慶一郎でもある。

 それは、四年前に慶一郎の父、甚五郎じんごろうが慶一郎に話した出生の秘密だった。


「…はい。無論です。最後にこれは私の希望なのですが、可能であらば他に何人か護衛として着けて頂けると助かります。…いえ、私一人でも守り抜く自信はありますが、慶一郎けいいちろう殿が心配なのでございます。もし慶一郎けいいちろう殿が私のことを信用出来ないという事態になった場合、私一人では慶一郎けいいちろう殿を足止めをすることも叶わぬかと。…はい。慶一郎けいいちろう殿はそれほどの使い手と見ました。…では今夜私から正体を明かせと?早計ではありませんか?…承知しました。その様に致します」


 早雪と見知らぬ人物との会話はそこで終わった。会話の内容に驚いた慶一郎だったが、一先ず知らない素振りをしようと考え、気配を殺したまま早雪に悟られぬようにその場を離れ部屋へと戻った。

 暫くすると早雪が部屋へ来て、朝食が出来たと云って慶一郎を連れ出した。

 朝食は雑穀米と沢庵と焼き魚だった。

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