第5話「芸妓の女」

「ちょいとそこのおにぃさん、寄っていかんか?安くしときますえ?」


「いや、私は芸妓遊びはしないんだ。すまないが他を当たってくれ」


 京都の色町を歩いていた慶一郎けいいちろうは擦れ違った女に声をかけられた。


「そんなこと云わんと。おねぇさんに任しとけば天国を見せてあげるさかい」


「私に触れるな!」


「きゃっ!」


 慶一郎が腕に絡み付いてきた芸妓の女を振り払うと、振り払われた芸妓の女は尻餅をついた。


「いや、すまない。怪我はないか?」


っといて!」


 助け起こそうと差し伸べられた慶一郎の手を芸妓の女が振り払った。


「本当にすまない。突き飛ばすつもりはなかったんだ。その、なんだ…私は女が少々苦手でな。さあ、機嫌を直してくれないか?芸妓遊びは遠慮させてもらうが、もし良かったら茶屋に付き合ってくれないか?代金は芸妓遊びと同じで構わぬ」


 慶一郎は一度振り払われた手を再び差し伸べた。


「………へえ、色町こんなとこ彷徨うろいているわりには純情なのね、あなた」


 芸妓の女は差し伸べられた手を掴むと一瞬怪訝けげんそうな顔で慶一郎を見たが、慶一郎が引き起こすとされるがままに立ち上がった。


「…ありがと。色町で他人にやさしくするなんて珍しい男だね」


「他人にやさしくするのは男として…いや、人として当然のことだ。ところで、あなたの名は?」


「私は早雪さゆき早雪そうせつと書いて早雪さゆきゆえあって芸名は使ってないわ。それであなたは?」


 芸妓の女は自らの名を早雪と云った。


「私は慶一郎けいいちろうだ。よろしく、早雪さゆき殿」


 慶一郎は姓を名乗らなかった。それは賞金首である自らの身元を隠す意味もあったが、色町の芸妓女に対しての慶一郎の気遣いだった。

 芸妓という身分の女が姓を持っているわけがなく、姓を持たない女に対してそれを名乗り、身分の差を明らかにするような真似を慶一郎は好まなかった。もっとも、色町では姓を名乗らないどころか、偽名を使うことも当たり前だったが、慶一郎がそれを知る筈もなかった。


「あはは、早雪さゆき殿なんてそんな改まらなくても良いわよ。私のことは早雪さゆきで良いわ。私もけいさんと呼ぶから。ね?けいさん」


 早雪は慶一郎を芸妓遊びに誘った時とは違って明るい笑顔を浮かべていた。それは芸妓には似つかわしくない素直な笑顔だった。


けいさん、か…」


「そう、慶一郎けいいちろうさんだと長いからけいさん。駄目かしら?」


「…仕方ないな。なら私は早雪さゆき殿ではなく早雪さゆきさんと呼ばせてもらうことにするが、それでいか?」


「呼び捨てにして良いのに…ま、良いわ。さあけいさん、参りましょう。とびきり楽しいお店へ連れていってあげるわ」


 早雪は慶一郎の手を引いて歩き出した。茶屋へと誘った慶一郎を誘われた早雪が案内するという珍奇なさまだった。


「―――ところで、早雪さゆきど…早雪さゆきさんは関東の生まれなのか?」


 茶をてながら慶一郎が訊いた。早雪が案内した茶屋というのは出合であい茶屋ぢゃやだった。

 出合茶屋とは、密会所として使われる店であり、芸妓遊びに使う店という面もあった。しかし、慶一郎は出合茶屋を知らなかった。それ故に個室へ案内された時に茶器を借りて自ら茶を点てていた。

 慶一郎はこの出合茶屋という店を、客に茶室を提供して客自身が茶を点てる茶屋だと勘違いしていた。


「…けいさん、どうしてそう思うの?」


 早雪は出合茶屋の店主が突き出した酒を部屋の隅に片付けながら答えた。いや、答えたというよりも訊き返した。


早雪さゆきさんは訛りがほとんどないし、最初に声をかけられた時に使っていたきょう言葉ことばも無理している感じがした。何となくそう感じただけだが…」


 喋りながらも慶一郎の茶を点てる手付きには一切の淀みがなかった。慶一郎は流れのままに茶を点てていた。


「ふふ、けいさんは鋭いのね。当たりよ。私は関東生まれ、関東育ち。京都こっちに来たのも少し前なの」


 早雪は慶一郎のほうへ向き直りながら答えた。


「やはりそうか。どうして早雪さゆきさんは…っと、出来た。さあ、一先ず呑んでくれ」


 慶一郎は早雪に茶を差し出し、懐紙を二枚取り出すと茶菓子を二つに分けた。

 そして、慶一郎は早雪が茶を口にしたのを確認してから自らも茶を口にした。


「……ふぅ。美味しいわ、けいさん」


「それは良かった」


 早雪と慶一郎は作法など気にせず自由に茶を楽しんでいた。難しいことは考えず、心のままに茶を楽しむ。

 慶一郎にとって茶の作法など、ただそれだけで十分だった。

 その最中さなか、慶一郎が茶菓子を口にしている時だった。


けいさんさあ…あなた童貞でしょう?」


「ぶはっ!うごっほ!げほっ……」


 思いもよらぬ早雪の言葉に慶一郎は茶菓子を詰まらせた。苦しむ慶一郎の様子を早雪はたのしそうに笑いながら見ていた。


「ささ、早雪さゆきさん!?いきなり何を!?」


「あはは、ごめんなさい。だってけいさんったら、芸妓と出合茶屋に来ているのにお酒も呑まずに茶なんて点てているんですもの」


「…出合茶屋?なんだそれは?ここは客に茶室を提供する店ではないのか?」


 出合茶屋のことを全く理解していない慶一郎に早雪は本来の出合茶屋の使い方を説明し、襖一枚挟んで用意された部屋を見せた。


早雪さゆきさん!これは一体どういうことだ!私は芸妓遊びはしないと云ったはずだ!それどころかこれではまるで…!?」


 狼狽うろたえる慶一郎の目線の先には、一組の布団の上に並んだ二つの枕が見えていた。


「まるでくるわ遊びの様ですか?ふふふ、本当にうぶなのね。可愛いわよ」


「…か、からかうのもいい加減にしてくれ」


 顔を真っ赤にして照れる慶一郎を見る早雪の顔は悪戯いたずらごころに満ちていた。しかし、慶一郎がいやがる様子を見た早雪はそれ以上からかうことはしなかった。

 二人は出合茶屋の個室でただひたすらに茶を楽しんでいた。

 慶長十九年四月二十六日のことだった。

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