第3話「母」

慶一郎けいいちろうよ、おのが剣の真髄は見えたか?」


 甚五郎じんごろうは茶をてながら云った。

 立合たちあいを終えた二人は野点のだてをしていた。


「確信はありませんが、あるいはほんの少しだけ…」


 慶一郎はそこまで云って黙った。推論を述べたところで的外れであれば単なる空論に過ぎぬと知っていたからだった。

 空論を自信満々に語ることが如何に愚かな行為であるかを慶一郎は知っていた。しかし、甚五郎の眼が推論で構わぬから語れと云っていると感じた慶一郎は、少し間を置いてから口を開いた。


「父上から学んだこの剣術は、武でありながらまいでもある。舞にとって肝要なこととは即ち流れを乱さぬこと。故にこの剣術の真髄もまた流れを乱さぬことにある…ということでしょうか?」


 慶一郎は想いのままに推論を語った。


「…まあ、そんなところだ。水の流れ。風の流れ。時の流れ。これらの流れに逆らおうとするものはおのずから身を滅ぼす。流れに逆らおうとせず、流れを読む事が肝要だ。そして、の流れの根幹もとには必ずが存在する。とは即ち異思気いしきすいふうじん…世に存在そんざいするあらゆるなる存在もの意思いし気取けどることが出来たならば、の武はてんに届くやも知れん…」


なる存在もの意思いし気取けどる?それは神通力を得るということでしょうか?」


「ふっ、そんな大それたものではない。神通力などは魔喧まやかしに過ぎん。しかし、感覚を研ぎ澄ませば意思というものは確かに感じ取れる。現に、お前はさっき俺が剣を振る前に俺の太刀筋を感じた筈だ。でなければ俺の剣をあの様に受け流す事は出来んよ」


「それは…」


「どうした?」


 慶一郎は甚五郎との立合の最中さなかの感覚を思い出していた。


「…確かに父がどう動くかを感じた様な気はしますが、それは私が父の癖や太刀筋を知っているからではないですか?」


それもある。だがな慶一郎けいいちろう。さっきお前が感じたもの。其の感覚を研ぎ澄ます事が出来れば、いずれ俺だけでなく他者も感じられる。いや、風や時の流れも感じる事が出来る様になるだろう」


「私にそれが出来るのでしょうか?」


「さてな…今のところはさっきの感覚を研ぎ澄ませる事だ。これだけを忘れずにいればい。…しかし、いずれ其だけでは済まない瞬間ときがお前にも来る。いずれな…」


 かつての自分自身を思い返すかの様に語る甚五郎の瞳は悲しみが溢れていた。その瞳は剣術と共に生きる者の悲しみとこの世の儚さを語っている様だった。


「父上、それだけでは済まないとはどういうことでしょうか?」


 慶一郎は甚五郎の瞳に宿る悲しみを感じ取っていた。その悲しみの理由わけを知りたいがために訊いていた。しかし、甚五郎は答えなかった。


「………けい


 茶を呑み終えた甚五郎が不意に口を開いた。


(父上?)


 慶一郎は甚五郎が自らを慶と呼んだことに驚き、返事を忘れていた。


「返事はどうした?けい


 甚五郎は再び慶と呼んだ。


「は、はい!」


 甚五郎の只ならぬ気配を感じ取り、慶一郎は緊張を隠せなかった。

 ほんの少しの沈黙を挟んだのち、甚五郎は真っ直ぐな眼差しで慶一郎を見詰めながら口を開いた。


「率直に云う。けい、お前は俺の実子じっしではない」


 突然の告白だった。

 慶一郎は自身の耳を疑った。頭を疑った。

 さらには、甚五郎の口を疑い、その口から出た言葉を冗談だと思いたかった。しかし、甚五郎の雰囲気からしてそれが冗談ではないとすぐにわかった。わかったからこそ慶一郎は言葉が出なかった。


の様な事を急に云われても信じられんだろう…しかし、これは紛れもない事実だ」


 返事も出来ない慶一郎の心情を感じながらも甚五郎は話を続けた。


「お前のまことの父の名は豊臣とよとみ秀吉ひでよしけい、お前は天下人てんかびとと呼ばれた秀吉ひでよし公の血を引いているのだ。そして、お前の母である千代ちよは…」


 慶一郎の実父は豊臣秀吉だと云った甚五郎は、甚五郎にとっての妻であり慶一郎の母である千代について語り始めた。

 豊臣秀吉という名に驚いた慶一郎は、未だにたった一言の言葉すら出なかった。


「お前の母である千代ちよ立花たちばな千代ちよの真の名は立花たちばな誾千代ぎんちよという」


「母の真の名は…立花たちばな誾千代ぎんちよ……」


 母親の真の名を聞かされた慶一郎は声を漏らしていた。


「ああ、立花たちばな誾千代ぎんちよだ。由緒ある武家の正統な血を引いていたおんな武者むしゃ、それがお前の母だ。もっとも、立花たちばな誾千代ぎんちよとされる者はいたがな…けい、今から俺の知る限りをお前に伝えよう―――」


 甚五郎は慶一郎に母親である千代と慶一郎の出生、そしてそれに関わる全てのことについてを語った。

 その内容は慶一郎にとって余りにも衝撃的な内容であった。

 千代は双子であり、双子は武家にとって凶兆であるされていたためにどちらか一方を殺さなくてはならなかったが、千代の父である立花たちばな道雪どうせつはそれを善しとせず、家臣にも明かさずに千代とその双子の姉を一人の人物として、二人で一人の誾千代として育てたこと。立花誾千代とされる人物が二人いることを知る者は、立花家の当主だった道雪を含めて極一部の人物しかいないこと。慶一郎の出生についても同じく極一部の人物しか知らないことなど、甚五郎の語る全てがにわかには信じられない内容だった。


「そんな……そんなことが…では父上は…そうです!私の目の前にいる父上は!?立花たちばな甚五郎じんごろうとは一体どなたなのですか!?」


 慶一郎は自らの出生を知り、信じれないながらもそれを受け入れた。そして、目の前にいる父、甚五郎自身について率直に訊いた。


けい、真実を知った上で俺をまだ父と呼ぶのか…」


「私の父は立花たちばな甚五郎じんごろうです!真実がどうであれ、血の繋がりがどうであれ、私の父は立花たちばな甚五郎じんごろうただ一人です!これは永遠とわに変わることはありません!」


 甚五郎は嬉しかった。

 血の繋がりはなくとも慶一郎と真の親子となることが出来ていた。それが堪らなく嬉しかった。


「そうか…俺はお前の父なのだな……」


「無論です!父上こそが私の父上でございます!だからこそ、父上自身のお話をお聞かせ願います!」


 慶一郎は全てを受け入れる覚悟だった。


「ならば話そう。俺は立花たちばな千代ちよの夫であり、お前の父、立花たちばな甚五郎じんごろうだ。そして、千利休せんのりきゅうの子でもある。俺は千利休せんのりきゅうの子として生をけた。と言っても俺もお前や千代ちよと同じで存在を隠された子だがな」


 甚五郎は織田おだ信長のぶながと豊臣秀吉、天下を征した二人と昵懇じっこんだった茶人、後の世で茶聖と呼ばれることになる稀代の茶人、千利休の息子であった。


千利休せんのりきゅうの子…父上が……」


「ああ。俺の昔の名は利久りきゅう。奇しくも父の号と同じ名だ。字が違うがな。俺はやすむではなくひさしいと書いて利久りきゅうと読む。千利久せんのりきゅううの昔に捨てた名だがな…」


 甚五郎の昔の名は千利久だった。

 次々と明らかにされた事実に慶一郎は驚きを隠せなかったが、慶一郎はそれら全てを真っ直ぐに受け止め、事実を事実のままに受け入れた。

 慶一郎の実父は豊臣秀吉であり、慶一郎の母は立花誾千代であった。そして、立花誾千代は双子であり、慶一郎の育ての父は千利休の隠し子であった。

 この時、立花慶一郎は十二歳。

 慶長十五年の初秋の出来事だった―――

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