第2話「父」

けい、お前は―――』


 武芸者達との死合しあいから生還した慶一郎は、死合の場の近くにある廃寺はいじにいた。

 慶一郎の頭の中には死んだ父親の言葉が繰り返し響いていた。

 死合の後はいつもそうだった。


「父上、私はまた人を殺めて生き長らえました。これが正しいのかはわかりません…ですが今はまだ…今はまだ私が死ぬべきときではないと感じています」


 誰もいない廃寺に慶一郎の小さな声が響いた。

 立花たちばな慶一郎けいいちろう、天涯孤独の無頼人ぶらいにんであるこの者の出生には他人ひとには云えない秘密があった。


 四年前―――


「父上、薪はここに置いておきます」


 この頃の慶一郎は父親と二人暮らしをしていた。慶一郎の母親はこの更に八年前に亡くなっていた。

 二人は母親が亡くなると同時に人里を離れ、隠れる様にして山奥にあるこの小屋へと移り住み、そこで外界との接触を極力避けて暮らしていた。


「嗚呼、わかった。…慶一郎けいいちろうこれを彫り終えたら少し立合たちあおう。先に修練場へと向かい、準備しておけ」


 慶一郎の父親は仏像を彫る手の動きを止めずに云った。

 父親の名は立花たちばな甚五郎じんごろう。亡くなった母親の名は立花たちばな千代ちよという。

 甚五郎はこの小屋に来てから毎月何体かの仏像を彫り、決まって月に一度だけ近くの村にある寺へ奉納していた。奉納する日は毎月必ず甚五郎の妻の月命日つきめいにち、即ち慶一郎の母親である千代の月命日だった。


「わかりました。では早速、滝にて身体からだを清めたのち、修練場へと参り準備してお待ちしています」


 そう云うと、慶一郎は小屋から程近い滝へと向かった。

 慶一郎が去った後、甚五郎は黙々と仏像を彫った。


「なあ千代ちよけいももう十二歳じゅうにだ。早い者なら元服をしていてもいい頃だ。信長のぶなが公は十三歳じゅうさんで元服をしたと聞いた事がある」


 甚五郎は不意に仏像を彫る手を止め、亡き妻に語りかけていた。


千代ちよ、お前が生きての話を聞いたならばきっとこう云ったのであろう?」


 甚五郎は僅かに上を向き、瞼を閉じた。


信長のぶなが公が十三歳ならば、けいは今すぐに元服を行います!信長のぶなが公よりも先んずる十二歳で元服をおこなったとあらばけいの器も大きくなることでありましょう!』


 亡き妻の凛々しく気高い声が甚五郎の耳には確かに聴こえていた。

 千代は凛々しかった。

 千代は気高かった。

 千代は凛々しく気高い女性であり、善き母であり、善き妻であった。

 そして、甚五郎もまた善き父であり、善き夫であった。


千代ちよ…関ケ原以後、此の国は徳川の世となったが、まだまだ泰平とは云い切れん。奥州の伊達だて政宗まさむねを筆頭に徳川への恭順を装い虚を衝かんする者は数多あまたいる。それに、真田の信念も上杉の義もまだ死んでおらん。伊達や他の武将は兎も角、真田や上杉にはけいが必要とされているのだ。なあ千代ちよ…今日、俺はけいに真実を明かそうかと思っている。話をした後でどうするかはけい自身の決める事だが…此処ここのところ、どこで嗅ぎ付けたのかわからんが此の場所に気が付く者も増えてきている。周りの者が此の場所に気が付いてしまった以上、遅かれ早かれけいに真実を話さねばならん……千代ちよ、見守っていてくれ!」


 甚五郎は閉じた瞼を見開き、決意に満ちた瞳で顔を上げた。そして、視線の先の神棚に置いてある刀を手に取るとゆったりとした動きで外へ出た。

 外へ出た甚五郎が修練場へ向かうと慶一郎がいた。滝で身体を清めてきたばかりの慶一郎は美しく凛々しかった。

 つややかで長い髪の毛。白く透き通った肌。凛とした佇まい。それら全てが甚五郎に慶一郎の母親である亡き妻、千代を思い出させるものであった。


「父上、お待ちしておりました」


 甚五郎が声を掛ける前に慶一郎は甚五郎に気がついていた。


「嗚呼、待たせてすまない。少し千代ちよと話していた」


 甚五郎は有りのままを云った


「して、母上はなんと?」


 慶一郎は有りの侭を返した。


「何も……死人しびと生人きびとに何も語りかけてはくれまいよ」


「そうですか…」


 慶一郎は、如何なる時も決して小屋の外へと持ち出すことのなかった刀を手にしていた甚五郎の気配が、普段いつもとは違うことを感じていた。


「さて、始めるか」


「はい」


 甚五郎が刀を置いて木刀を持つと、慶一郎も同じ様に木刀を手にした。

 両者の間合いは凡そ十歩。二人共に左手に木刀を持ち、二人共に構えることをせずに自然の形のまま相対し、二人共にそのまま微動だにしなかった。

 その状態で一分程が経過し、慶一郎の手に僅かに汗がにじみ始めた時だった。


「…いざ!」


 慶一郎が声と共に一気に甚五郎との間合いを詰めた。慶一郎の動きは風の様にはやかった。


「くう……」


 二人の勝負は刹那に終わった。この勝負は甚五郎が征した。

 一陣の風の様に迫り、先の先を取ろうとした慶一郎だったが、甚五郎は風に舞う木葉の様にしなやかな動きで慶一郎の剣をかわし、風とたわむれるかの様に慶一郎の左前腕を打った。

 それはまさしく、先の先の裏を取る後の先だった。


慶一郎けいいちろう、まだまだ未熟だな。動きにがある。淀みのある動きでは俺は斬れんよ」


「…わかっています。ですが父上。私はまだ生きていますし、右腕も残っております。この程度の怪我ならば今一度ひとたび戦えましょう」


 慶一郎は死合の話をしていた。死合ならばまだ左腕を落とされただけであり、死には至っていない。そして右腕が残っているので戦うことが出来る。慶一郎の言葉はそう云う意味だった。

 そして、慶一郎は云いながらも甚五郎と距離を取っていた。左腕を打たれ、武器えものを手離してしまった慶一郎は甚五郎の足下に転がる武器を如何いかにして取るかを模索していた。


「ほう、まだ動くか。ならば参れ慶一郎けいいちろうで斬ろうとするな。流れだ。を感じろ」


 そう云うと、甚五郎は自身の足下に転がる木刀を拾い上げ、慶一郎の足下に向けて投げた。

 甚五郎の言葉をけた慶一郎は、右手で木刀を拾い上げると再び構えることのない構えの形をした。


「流れ…………はあっ!」


 慶一郎は再び疾風はやてとなった。しかし、今度は激しい風ではなく、爽やかな微風そよかぜの様だった。

 それに対して甚五郎は再び木葉となった。微風に乗る木葉の如く慶一郎の剣を躱し、自身も剣を返した。しかし、微風となった慶一郎も甚五郎の剣を躱した。

 慶一郎が剣を振り、甚五郎が躱す。

 甚五郎が剣を振り、慶一郎が躱す。

 二人はまるで互いが何をするかをわかっているかの様だった。

 互いに互いが風と木葉であることを認めあっているかの様に二人は舞っていた。木刀とは云えど、死合をしている筈の二人が舞い踊っていた。

 この瞬間、慶一郎と甚五郎の剣は武を示していなかった。二人の剣が示していたのは舞だった。

 慶一郎と甚五郎、斬合きりあう二人の姿はまさしく舞であった。

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