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ただの嫁いびりとは違うような、そんな気配を感じた。
「イナリ、あなたも、彼女でいいの。陰で何を言われるか、全く知らないわけじゃないでしょう」
この言葉に反応したのは、イナリではなく、イナリの父親だった。少し耳が動いて、目線が泳いでいる。それでも、彼は何も言わなかった。
陰で何を言われるか。美人な奥さんを貰ってうらやましいなあ、という、声だけでなく、釣り合わないのにどうして、なんて、そんな感じの、気分が悪くなるようなことを言われることもあったのだろう。
――いつぞや、イナリとカフェにご飯を食べに行ったときのように。
「逆に聞きますけど、貴女は結婚したことを後悔してるんですか?」
聞き返して、自分でも思ったより攻撃的な声音になってしまって、内心で焦る。単純に聞きたかっただけなのに。
それでも、イナリの母親は気にしなかったようで、淡々と話を続ける。
「してるわけないじゃない。――でも、後悔するかしないかと、あれこれ言われて傷つくかどうかは別の話よ。その覚悟はあるの」
覚悟。何を言われても、耐えるだけの覚悟。それは……ちょっと、自信がないかもしれない。
だって、何か言われたら、言い返したくなったり、やりかえしたくなってしまうから。黙って耐える自分は、あまり想像できない。……こんなに喧嘩っ早い性格だったかな。
「たとえ、何度傷つくとしても、それでも、彼女の隣にいたいから。……傷つくかどうかとだから諦めるかどうかは、イコールじゃないでしょ」
わたしより先に、イナリが答えた。
「そんなこと言われてじゃあやっぱやめる、って諦めるくらいなら、顔面こんなのことになってないって」
今までと違うから。最後に小さく呟いたその言葉は、はたして彼女らに届いたかどうか分からない。
今まで――今まで、か。
そう言えば、イナリは何度も失恋していたんだっけか。わたしを呼ぶきっかけが、イナリの失恋を慰めるパーティーだった、と聞いている。今までイナリが好きになった誰かとは違う、と、うぬぼれていいんだろうか。
「顔面がこんなことになっていない」と言うイナリは、顔がガーゼや包帯で半分隠れている。魔物と戦ってこうなった、とは、会ってすぐに説明した。まあ、正確には魔物じゃなくて、精霊なんだけど。それを説明すると長くなるし、変にボロが出てわたしの事情がすべてバレてしまうかもしれないので、そこは端折った。
なんにせよ、それがわたしを守るために戦って出来たものだと思わなかったらしい。イナリの母親が、目を丸くして驚いていた。
「マレーゼは、本当に大切で、好きになった人。だから、母さんが心配しなくても大丈夫だよ」
イナリの言葉を聞いて、イナリの母親は静かに目を伏せた。
「――覚悟があるなら、もう何も言わないわ。……五年後、十年後、その先も、また祭りで会えるのを楽しみにしているわ」
楽しみにしているわ、と言われたが、表情からして、本当に楽しみにしているようには見えない。
やれるもんならやってみせろ、その言葉を証明してみせろ、という意味に違いない。
まあ、今、この場で何を言っても、彼女のように何年も連れ添っていないのだ。口だけ、と思われても仕方がない。
でも、きっと、五年後も十年後も、その先も、わたしはこの場所にいるから、絶対、また祝集祭で彼女に会うだろう。
彼女が危惧していることには、絶対にならないと、わたしは思うのだった。
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