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イナリが暗に言いたいのであろうことを察してしまう。
わたしが固まっている間にも、イナリは言葉を続けた。
「あの鳥が、君を迎えに来たとき、正直、すごく肝が冷えた」
あの鳥――メルフのことか。わたしだって、あんなことになるとは思わなかった。最初は、師匠が死んだ後に自由になったメルフが、たまたまたくさんの花に惹きつけられてやってきたものだと思っていたから。
「君が、いなくなるかも、なんて、考えたことなかったんだ。――急に現れた人のはずなのに。パッと現れたなら、パッと消えたって、おかしくないだろ」
イナリは、リボンを持っていないほうの手を、強く握りしめていた。
そして――イナリは、深呼吸を、一つ、した。
「――……君が、好きだよ」
イナリが、まっすぐにわたしを見つめてくる。かち合った視線からは、イナリの真剣さが伝わってきた。今まで、わたしを見てくることは何度もあったけど、一番、わたしのことを射貫くように、見ているように感じた。
「正直、今でも、君の隣にいていいのか、自信がない。――でも、ちゃんと伝えられないまま、君がいなくなるのはもっと嫌だ。だから、もう、なかったことにはしない」
そう言って、イナリは、わたしの手をとった。指先が震えているのは――イナリか、わたしか。それとも、その両方か。
「これから先、ずっと、君に好きだと言える男に――僕が、僕自身を許せる男になるために努力し続けるから。だから、今、この瞬間だけは、自信がないまま、好きって言うのを、ゆるして」
「――っ」
イナリの言葉に、わたしは、胸を締め付けられるような感覚を覚えた。
こんなにも、イナリは――イナリたちは、わたしに向き合ってくれるのに、また逃げるの? その方が、ずっと不誠実じゃないの?
そう、自問自答してみても、やっぱり、今まで生きてきた環境での『常識』は簡単に捨てられるものじゃない。
ましてや、今まで散々『許されなかったこと』を、『正しいこと』として、ふるまえるわけがない。
でも――でも。
「わたし――『正しく』、皆をいつも平等に愛する自信がない」
全然力が入らない手で、それでも、必死にイナリの手を握った。頭の中は、言葉が一杯で、最善の言葉を選べる気がしない。
それでも、今、わたしが思うことを、全てイナリに伝えたい。
「でも、例えば、誰か一人と一緒になったとしても、この先、一生、傷つけないで傍にいることは、無理だと思うから」
結婚したら、一生愛して一生大切にする、って言った方がいいのかもしれないけど。どれだけ努力したって、そんなのは不可能だ。いや、自分を押し殺せば、可能かもしれないけど、そんなのはいつか無理が来る。
「傷つけることを前提に話すのなんて、ずるいかもしれないけど――もし、それでも、許してくれるなら、わたしは、皆と一緒にいたい」
傷つけても、傷つけられても、皆と一緒にいたい。わたしは、もう、元の時代に帰りたいなんて、思わない。
それは、諦めでもなんでもない、まぎれもないわたしの意思だ。
「皆を大切にしたいって思うのに――イナリに好きって言われて、嬉しいわたしを、ゆるして」
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