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結局、二、三度ほど会話が行き来して、客は何も買わずに帰っていったようだった。
――別に、いいよ。慣れてるし。
少し固い表情で話すイナリの顔が、思い出される。こんな風に言われてしまうのが、彼の『普通』なのだろうか。
さっきの客が性格が悪い方だと考えたとしても、きっと、一度や二度、こんなことがあったわけじゃないはず。
……わたしと一緒にいて、辛くならないのかな。
わたしからすれば、イナリはすごくかっこいい方だと思う。シーバイズに居たらモテモテだったはず。
でも、美醜の価値観が違うこの国では、美人なのはわたしのほう、なのだ。自分で言うのは、ちょっとアレだけど。
そうしたら、嫌でも比べられると思うのだ。あの日、ご飯を食べに行って、ひそひそと話されたように。
こんなことなら、猫、と言われてスコティッシュフォールドを思い浮かべて耳としっぽを作るんじゃなかった。
でも、無理やり、この女を娶らないと死ぬ、ってなったなら、不細工より美人の方が良くないだろうか? いや、でもそれだとイナリ達に喧嘩を売っているような……。そこは価値観が違うからセーフ?
ぐるぐると考えが頭の中をあれこれめぐり、上手くまとまらない中、思わず溜息を吐いてしまうと――。
「えっ」
イナリがびっくりしたような表情で、声を漏らした。わたしに気が付いたらしい。気が付けば、イナリは移動していたようで、わたしの立ち位置は全然死角じゃなくなっていた。
そうか、思わず出るタイミングを見誤ってしまったが、客との会話が途切れたんだから、普通に声をかければ良かった。
失敗したなあ、と思っていると、イナリが、ふと、「……聞いてた?」と問うてきた。
聞いてた、とは、言わずもがな、さっきの、客との会話だろう。
「何のこと?」と誤魔化せれば良かったのだろう。でも、咄嗟にそれが出来なくて、一瞬、言葉に詰まってしまった。
その一瞬をイナリは見逃さなかった。
「聞いてたんだ」
「い、いや、違うよ? 何も聞いてなんか……」
「別に誤魔化さなくていいよ。言ったでしょ、慣れてるって」
「…………ご、ごめん」
慣れてる、の言い方が、すごく突き放すような物で、思わずわたしは謝ってしまった。そうしてしまえば、肯定以外のなにものでもないというのに。
「――やめる?」
ふと、イナリがそんなことを言い出した。何をやめるのか、と問う前に、彼は続けて話す。
「僕みたいなのに服を作って貰っても、嬉しくないでしょ?」
「――え」
まさかの言葉に、わたしは届けるために持ってきたはずのポーチを、思わず落としそうになってしまった。
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