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 シャシカさんがイナリの部屋に侵入してきたという事件があってから約一週間後。

 勉強の続きをする前にちょっとトイレへ、と用を足し、トイレから出てきたところでふと、玄関にポーチが転がっているのに気が付いた。


「これ……」


 わたしはポーチを拾い上げる。黒い、手のひらよりやや大きいくらいのキャラメルポーチは、いつもイナリの机の上にあって、彼が出かけるときにひょいと鞄に突っ込んでいるものである。

 今朝のイナリは少し寝坊していて、慌てて家を出て行ったので、もしかしたら鞄から落としたのかもしれない。

 中身に何が入っているか分からないが、仕事に行く際に毎回持って行っている、ということは仕事に必要なものなんだろう。


「届けた方がいいのかな。ただなあ……」


 合鍵は一昨日受け取って、届けに行こうと思えば届けに行ける状態だ。家にいたって勉強するくらいで、重要度が高かったり緊急性のあることをしたりするわけではないので、行くには全然構わないのだ。


 問題は、わたしはここからイナリの勤める店に行けるか、ということだ。店は知っているが、イナリの家からの道は知らない。

 結構大きな店だったので、目立つとは思うんだが……。


 しかし、こちらに来てから、いかんせん何度も迷子になって目的地にたどり着けていないことばかりなので、届けに行かない方がいいんじゃないか、と思ってしまう。

 今は丁度昼前だ。お昼休みになったらイナリが取りに来るかもしれない。そのときに、届けに行くつもりで迷子になってしまっていたら、と思うとなんとも言えない。


 いや、でも、うーん……。

 なくて困っていたらどうしよう、という気持ちと、逆に迷惑にならないか? という気持ちがせめぎ合う。


「お昼を過ぎても取りに戻ってこなかったら渡しに行こうかな」


 どうせ届けに行くのなら早い方がいいに決まっているが、わたしの方向音痴ぶりを考えるとそうとも言えない。……方向音痴、とは認めたくないが、この街の造りでは簡単に迷子になってしまうのだから仕方ない。

 前世ではそんなに迷子にならなかったからいつか慣れれば大丈夫なはず……と思う半面、それはスマホのマップアプリがあったからでは? とも思ってしまう。

 いや大丈夫、ちゃんと慣れて街を思うように歩けるようになる。はず。多分。きっと。


 わたしはポーチを備え付けであろう靴箱の上に置く。もしも戻ってきたらすぐに採れる場所の方がいいだろう。

 ポーチの存在が気になってしまい、ポーチと時計をちらちらと見ては、大丈夫かな、という気持ちに襲われる。


 結局、勉強に集中出来ないまま、一般的な職業の昼休憩の時間を半分も過ぎてしまっただろう、という時間になってもイナリが帰ってこなかったため、わたしは合いカギとポーチを持って、イナリの勤める店へと向かうことにしたのだった。

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