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 イナリが帰ってきたのは、予定の時間より少し遅くなってからだった。当然夜なので、日中追い出したシャシカさんと鉢合わせる――なんてことはない、はず。


 わたしは料理をしていた手を止めて、イナリに「おかえりなさい」と声をかける。

 調理器具は、先日フィジャからあまり使わない物をいくつか借りた。何も買う必要はなかったのである。使用頻度の低い調理器具、ということで、機能が専用的な物が多く、使いにくいが、毎日外食するよりかは経済的だろう。


「――なんか、怒ってる?」


 通勤用の鞄を片付けながら、イナリがわたしにそう言ってきた。


「……怒って、ない」


 正確に言えば、イナリには怒っていない、だが。

 イナリの顔を見たら、シャシカさんの話を思い出してしまって、ちりっと腹の底で怒りが少しだけ再燃しただけなのだ。怒っているように見えたなら、それはただの八つ当たりなわけで。


 いけない、いけない。イナリは何も悪くないんだから。


「そう言えば、お願いがあるんだけども」


「――何?」


 イナリが怪訝そうな声を上げる。


「わたし、祝集祭の衣装、買いに行くんじゃなくてイナリに作ってほしい」


「は――」


 イナリは、わたしの言葉が飲み込めなかったのか、きょとん、とした顔をした。


「じ、時間がないなら無理に、とは言わない、けど……」


 ここ数日はずっと絵に向き合っている彼しか見ていないから、確実に彼が服を作ることが出来る人だという確証はない。


 でも、多分、イナリは裁縫が出来る人だと、思うのだ。

 散乱している布の様子を見れば、いくつか縫った途中の物が見られるし、一番初めにこの部屋へ訪れたとき――行く場がなくて寝床を求めたとき、わたしに寝巻代わりにワンピースを渡してくれた際に「まだはさみを入れていないから」と言っていた。あれは服をアレンジするための発言なんじゃないか、と思っている。


 なんでこんな我がままを言い出した野かと言えば、完全にシャシカさんのせいだ。全て彼女のせいにするのも違うけれど、きっかけは、そう。

 服を作るイナリも凄いんだって、見せつけたくなったのだ。


 完全な自己満足で、我がままで、イナリにとってはなんの得にもならないことだけど。


 イナリは少し考えた素振りを見せる。

 駄目かな。やっぱ断られるかな。

 そう思ったのだが。


「……君がいいなら、別にいいよ」


「本当っ!?」


 駄目元で頼んだので、断られる確立のが高いだろうな、と思っていたのだが。

 わたしは嬉しく思いながら、お礼を言って夕飯の仕上げに入るのだった。

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