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「なあ、あんな冴えない奴より、オレらにしないか?」
「は――」
突然投げかけられた言葉が理解出来なくて、思考が止まる。動揺しすぎて、周りの音すらどこか遠くに聞こえるくらいだった。
それなのに、どこかこの男の言葉だけははっきりと耳に残る。
「あんたみたいな美人、あんな奴にはもったいない」
その言葉に、わたしは思わずカッとなって叫んでいた。
「フィジャを馬鹿にしないで! あんな奴、ですって? 貴方たちの性根の方がどうかしてるわ」
フィジャは背中から落ちていた。それなりに高さがあったとはいえ、二階。よほど打ち所が悪くない限り、死ななかったかもしれない。
でも、それは死なないだけ。
もしかしたら、フィジャが料理人として生きられないほどの、後遺症を負ったかもしれないのだ。
それなのに、こんなへらへらとナンパしてくるだなんて。信じられないにも程がある。
「絶対にあり得ないけど、万が一、フィジャと別れることになっても、貴方たちだけは選ばないから!」
怒りで声が大きくなっていたのだろうか。周りからは、ひそひそ、くすくすと、妙なざわめきが聞こえてくる。
でもそれは、どちらかというとわたしよりこの男に向けられていて。
「――クソッ! 美人だからって調子に乗りやがって! 後悔させてやるからな!」
「っは! 一昨日来やがれってのよ!」
情けなくも逃げ帰る男の背中に、わたしは言葉を投げかけた。二度と顔を見たくない。フィジャに怪我を負わせたのも、それを謝らないのも、こうやって逃げ帰ってしまうのも、最高に情けない。
「はぁ……」
なんだかどっとつかれた。早く帰りたい。
わたしはいつの間にか握りしめてしまっていた地図を開く。
先ほど、男が言っていた順路は果たして正しいのか。ちょっと信用出来ない。
『オレ』ではなく『オレら』と言っていたし、もしかしたら、彼が言った道を進んだら残りの二人がいたりして……。
流石に警戒しすぎな気もしたが、まあ用心するに越したことはないだろう。というかそもそも素直に彼の言うことを信じるのが、なんか嫌だ。
かといって、騒ぎを起こしたすぐ後で、傍にいてわたしたちのやり取りを見ていた人に声をかけるのも抵抗があって。
わたしは少し歩いて、先ほどの場所から離れたところで聞くことにした。
「ああ、ここのパン屋さん? ……あらやだ、道反対方向じゃない? もっと向こうよ」
「……ありがとうございます」
気のよさそうなおばちゃんに声をかけて教えて貰ったが、フィジャの家を出て右に曲がらないと行けないところを左に曲がっていたらしい。
方向音痴の自覚はないし、ただ場所に慣れていないだけとはいえ、これはひどい。
全然フィジャに年上ぶれないし、まともにおつかいが出来ていない……とへこみながらも、わたしは今度こそパン屋へと向かった。
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