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 トレイが落ちる音で、一斉に周りがシン……となってしまった。店内にかかる、場にあわない明るい音楽だけが響く。

 めちゃくちゃ気まずい。


 ヘルギさん、と呼ばれた常連と思わしきおじさんも、犬獣人のお姉さんの表情を見て察したのか、気まずそうにしていた。

 そんな沈黙の中、口を開いたのはフィジャだった。


「うん、結婚するよ。店はまだ続けるけど……」


「ま、まだ!?」


「来年には自分で店を開くんだ。新居を住居兼お店にする予定だよ。店長には話したんだけど」


 それ以上追い打ちをかけないであげてくれ。わたしが言うのもどうかと思うけど。

 犬獣人のお姉さんの好意に全く気が付いていないフィジャは、一切の遠慮をしないでずばずばと話を進める。


 一方でお姉さんは、もはや瀕死状態だった。ここがお店で、お姉さんが店員である、という事実だけが、彼女を立たせているように思えた。多分、その二つがなければ、その場にうずくまって号泣してしまいそうな雰囲気を出している。


「フィジャ、あの、その辺で……」


 やんわりと、もうやめて差し上げて、と言ったつもりだったのだが、微妙に伝わっていなかった。


「ああ、お腹空いた? 立ち話も何だしね」


 フィジャ、あなたそんなに鈍感な子だったっけ……?

 思い返してみても、初対面ですでにフレンドリーな感じだったし、わたしが人間だからと好意を持っている感じだったし……。うーん、どうだろう。わたしから好意アピールしてなかったから、彼が鈍感か分からない。


「席、空いてるところ使っていい? 今日予約あったっけ?」


「ナイデス……。オ好キニドウゾ……」


 もはや魂がどっかに行ってしまったのでは、と心配になる犬獣人のお姉さんにフィジャが聞く。お姉さんは案の定、心ここにあらずな返事をしていた。

 フィジャに案内され、席に付くと、店内の話し声が戻ってくる。ふらふらとおぼつかない足取りでカウンターキッチンの方へ行くお姉さんが、心配でならない。多分、店長さんもこうなるのが分かってて、ヘルギさんに、フィジャが結婚するって話をされて「あっ」ってなったんだろうな。店長さんも店長さんで、心配そうにお姉さんを見ている。


「はい、これメニューね。えーっと――」


 テーブルに置かれたメニューを渡してきて、一つひとつ丁寧に説明をし始める。フィジャの頭には、目の前にいるわたしのことしかないようだ。

 イエリオさんがわたしのことを「罪づくりな人」と言ってたけれど、フィジャの方がよっぽど罪づくりな人だと思うわ。

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