渇望 _ 3
朝の日差しに照らされて、目を醒ました。
時間を確かめようと、手探りでスマートフォンを探る、と。
「っ!」
ふと感じた温もりに、身体が跳ねる。
すぐ隣で寝息を立てて眠る男の姿を理解するまでに少しの時間を有した。
……そうだ。紺と再会して、家に上げてしまって、そのまま泊まっていったんだった。
あのときは、起きたときにはもういなかったくせに。
そこまで考えて、思考を散らすように首を振った。もう気にすることなんてない。全部過去のことなんだから。
問題はわたしのベッドを占領して我が物顔で眠るこの男をどうにかして追い出すことだ。なし崩しにここに居座られたりしたらかなわない。
紺が今どんな仕事をしていてどんな生活をしているのか知らないけれど、こんなふうに身軽に女の家に転がり込めるなんて、絶対ろくでもない。お金をせびられたりする前にどうにかしないと。
「……」
叩き起こしでもすればいいのに、できなかった。
そっとベッドを抜け出して、洗面所へと向かう。自分の行動が一番理解できなくて、重たいため息が漏れ出た。
「どこ行くの?」
突如響いたその声に、弾けるように顔を向ける。
視線の先にいたのは、ニヒルな笑みを貼り付けた紺の姿だった。
「……起きたんだ」
「おかげさまでよく眠れた。最近睡眠不足だったんだよね〜」
「それは良かった。じゃあもう帰って」
「冷たいなあすずは。俺はまだ一緒にいたいのに」
よっ、と布団から降りると、覗き込むようにわたしの顔を見た。
寝起きなのに、端正な顔立ちは健在で。思わず目を逸らしたわたしをクスクスと笑う。本当に、ムカつく。
そんなことを言って、わたしを誑し込んでなにかをくすねるつもりなんだきっと。絶対に裏があるに違いない。
紺の言葉には耳を貸さないようにしないと。もう絶対に騙されたくない。
もう、あんな思いしたくない。
「……昨日も言ったけど、わたしは紺と話すことない。もう、幼なじみの縁も切れたと思ってる」
「……」
「昔の繋がりでなにか要求したいことがあるのかもしれないけど、わたしは応えないから。他をあたって」
断ち切りたくてきっぱりと拒絶の意を表すのに。
彼はわたしの言葉なんて聞こえていなかったかのようにあくびを零す。猫みたいに気ままで、気分屋。なのに、目が離せない。
「ねえ、紺、」
「俺は縁とか、運命とか、そういう類を信じない」
「……え?」
「すずと幼い頃から一緒だったのも、こうやってまた出会ったのも、全部、俺の意思」
「どういうこと、」
「だからいくらすずが縁を切ろうが俺を避けようが、そう簡単に終わらせたりしないってこと」
その両の手でふわりと頬を包み込む。至近距離で紺と目が合う。ビー玉のように綺麗でまっすぐな、その瞳と。
まるで金縛りにあったかのように動けない。指の先でさえも。この感覚は、そうだ、あのときと同じ、
近づいてくる端正な顔。面白いくらいに言うことの聞かない身体。どうしようもなくて、強く目を瞑った、
そのときだった。
ピリリと聞き覚えのない電子音がこの場の空気を裂く。魔法が解けたように体が軽くなる。心臓だけが、中心でバクバクと大きな音を立てている。
彼は軽く息を吐くと、身体を離した。ズボンのポケットから取り出したのは、スマートフォン。先ほどの音はそこから発されたものだろう。
気怠げに確認すると、彼はゆるりと顔を上げた。反射的に身構えるわたしに笑いながら告げる。
「そんな怯えないでよ」
「そうさせるようなことしないで」
「それは無理かも」
「っ、な」
「ごめん、俺用事あるからそろそろ行く」
「え?」
あっけらかんと言い放つと、もとより少なかった荷物を手に取って部屋を出て行く。
あまりにも淡白な態度にさすがに拍子抜けしてしまう。
勝手に押しかけてきたのはそっちなのに、どうしてこんなふうに心を掻き乱されなくちゃいけないんだろう。
それに、そんなに身軽な格好でどこへ行くのだろう。仕事にしては全身黒尽くめでラフすぎるし、買い物へ行くには朝早すぎる。
紺の用事って、なに。
「なに? 寂しいの?」
絶対に、頷いてなんかやらない。
別に、紺が今どんな職についてどんな生活を送ってようがわたしには関係ない。もう考えないようにしよう。
そう強く心に決め、彼に背を向ける。
8年越しの再会は、あまりにも呆気ない。でも、それでいい。わたしはまた普段の生活へ戻るだけ。彼のいない、穏やかな世界に。
「じゃあ、またね」
また、なんて。ありもしないことを。
約束ほど儚くて、脆いものはない。
彼を見送ることもせずに、本来の目的であった洗面所へと歩を進めた、そのときだった。
ぐんっ、と強く腕を引かれ、バランスを崩す。そのまま抱き寄せられるように彼の中に収まる。
抵抗しようと力を入れたわたしの手を簡単に纏めて壁に縫い付けると、そのまま首筋に思い切り吸い付いた。
チクリとした痛みと、這う熱。それらはあの日のことを思い出させるには十分すぎた。
「っ、や!」
「黙って」
吸って、舐めて、吐いて。
それを何度か繰り返して、彼はようやくわたしを解放した。
乱れた呼吸をそのままに、奴を睨む。そんなものは痛くも痒くもないというように、彼は不敵な笑みを携えたまま、優しくわたしの髪を撫ぜた。
「……また、ね」
微熱を残したまま、紺は消えた。
彼が出ていった瞬間、一気に力が抜けてその場にずるずると倒れ込む。じんじんと疼く熱。鼻腔を犯す香り。ほんとに、もう、
「……なんなの」
思い出してしまいそうになる。わたしが彼を好きだった、あの感情を。
物心ついた頃から、あの瞬間まで、片時も変わることのなかった、あの感情を。
今も心の奥底で微かに燻る、あの感情を。
壁を伝って歩き、洗面台で思いっきり水を浴びた。冷水で何度も何度も顔を洗う。
本当に、だめだ。意識しちゃだめ。考えちゃだめ。だって、だって紺は、わたしのことなんて、
……期待させるだけさせて、どん底に突き落とすような、彼は、そんな男なんだから。
「……はあ」
顔を上げた。鏡に映ったわたしは、自分でも驚くくらい酷い顔をしていた。
僕の愛で濡れるように 咲良なな @nana_skr
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